津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■肥後菊池氏・西米良菊池氏・東北菊地氏

2025-01-04 10:05:19 | ご挨拶

 去年の大河ドラマを観て「刀伊の来寇」で活躍した藤原隆家の事が気にかかっている。
隆家というよりも、その子孫だという菊池氏の事だと言い換えた方が良いかもしれぬが・・・

                   

 熊本史談会では2022年3月、菊池市在住の歴史家・堤克彦氏をお招きしてー新資料で「菊池氏初代則隆の出自」を探るーという、お話を聞いたが、「土豪説」と「藤原氏後胤説」のいわば合体説とでもいうべき御説の解説であった。
これは堤先生の古文書解析から導かれたものあり、説得力のある御説として受け止めている。
私は菊池氏の藤原隆家後胤説には組しないが、「菊池一族の興亡」の著者・荒木栄司氏がその著の冒頭に、「菊池一族が藤原姓を称し、自分たちが藤原摂関家という王族の血統を色濃く継承した氏族であるという認識を持ち続けた氏族であった、と述べるに止める。」と書かれているが、非常に卓越した表現である。
「藤原氏後胤説」は、その根拠として弘和四年七月の藤原(菊池)武朝の「武朝申代々家業之事」にある一文をもってそう信じられてきた。
           謹んで当家忠貞の案内を検するに中の関白道隆4代の後胤太祖大夫将監則隆
           後三条院の御宇延久年中(1069-1073)始めて菊池郡に下向してより以降
           武朝に至るまで17代凶徒にくみせず、朝家に奉仕する者なり。

太祖とする則隆からすると、武朝は15代の孫にあたるが、その間このことを証明する一次資料は存在しない。
武朝もまた、そういう認識を持ち続けた人であったのだろう。

 菊池氏よりも古い歴史を持つ阿蘇氏にしても、氏族の滅亡は氏族内での主導権争いが原因している。
菊池家では武朝から5代の孫・22代当主能運が一族の宇土爲光(菊池氏19代当主・持朝の子)と戦い、次第に力を失って行き、能運は自らの子を宮崎の山深い西米良村に落ち延びさせた。
菊池姓を秘め米良氏を名乗り近世になると、人吉相良家の附傭となり、交代寄合となった。
南朝の忠臣・10代当主菊池武時の後胤として認められ明治に至り旧姓に復して叙爵された。米良家17代の則忠氏である。

 又菊池氏は東北地方に菊地氏の姓で大いに繫栄している。菊地武義という人物の存在が知られているが、肥後菊池氏が「南朝系の後胤やら公家の子息等を守って奥州下向した」ともされるが、未だその関係は明らかではないようだ。

 菊池系米良氏の詳細や、東北系菊地氏などの関りなど菊池氏はまだ謎に包まれている。
西米良の米良氏について今年は色々調べてみたいと思っている。

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■初ヤフオク

2025-01-03 13:18:44 | オークション

 お正月の三が日は、連日実業団駅伝・箱根大学駅伝をTV観戦して過ごすしかない。
お宮参りも妻が出かけようとしないから、私もまだ控えている。時間が余って仕方がないから、ヤフオクで「絵画」を眺めている。
そんな中に、大好きな田崎廣助氏の絵、阿蘇やその周辺を描いた作品が数点出品されている。
     ・真作保証 田崎広助 『阿蘇山』 油彩12号 額装 絵画 田崎廣助
     ・【真作】【WISH】田崎広助「由布岳と志高湖」油彩 4号
     ・真作 田崎廣助 ジクレー「阿蘇」画寸45cm×38cm
     
「朱富士」等の作品もあるが高くて手が出ないなとため息をついていたら、「滝室坂から見た阿蘇五岳」というスケッチを発見。
勝ち負けは時の運だが、一応応札をしてみた。

真作・田崎広助 5号大 スケッチ 滝室坂から阿蘇高岳を望む 実力ある作家のスケッチはときに本画より迫力あります 額600*490 ヤマト140

          

 この迫力あるスケッチにどう色付けをされるのだろうかと考えると大変興味深い。

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■妻の「レシピ」障害

2025-01-03 09:47:38 | ご挨拶

 私事で恐縮だが退院50日にして妻の障害を実感している。
高次脳機能障害の中の「失語症」だとの事であったから、これを踏まえて彼女を傷つけないようにと気を付けて会話をしている。
ところが、年末からお正月にかけての料理作りの中で、失語症ばかりではないことを強く感じさせる事件が起きた。
一週間ほど前には「焼きそば」を作っていたが、食べてみると全く味がついていない。
大晦日の「年越しそば」に「海老の天婦羅」を入れてもらおうと、わざわざ「海老」を購入していたのだが、この「海老」は天婦羅にはならず、ただ焼かれて夕食に顔を出した。
「年越しそば」は、「天婦羅そば」が「素そば」になって出てくるなと思っていたら、なんと「煮そば」になって登場した。
煮詰まって食えたものではない。さすがに妻に断って処分をした。

 さてお正月の朝、御雑煮造りの段になってから、彼女は考え込んでしまっている。
準備の段取りができないでいる。急きょ出汁の代わりに「永谷園の松茸の味・お吸い物」を使って、「具を入れたら」と提案してみた。
それでも、何を入れるかが判らないらしい。「ほうれん草・だし巻き卵・紅白かまぼこ」を準備させた。
敷き大根とか人参とかは省略である。ここまで手配すればOKだろうと台所から離れた。
お取り寄せの「おせち料理」を挟み、さて御雑煮をいただこうと思ったら、なんと肝心のお餅が入っていない。
私はあわてて、お餅を焼きこれを入れて何とか体裁を整えて、あわただしいお正月の食膳となった。

「レシピ障害」というべき障害を改めて感じ、こちらは「失語症」より厄介だと実感している。

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■「新たな決意」

2025-01-02 13:48:25 | ご挨拶

 今日は「書初め」、昨年の大河ドラマを見て、今年は少々思うことがある。

藤(紫)式部を演じた吉高由里子さん、藤原実資を演じたロバート秋山さん、劇中での書くシーンはお二人ともご自身のものであったというが、特に吉岡さんはもともと左ききでこの作品に出演するにあたり急きょ右で練習をされたと聞く。
そしてクローズアップされる優雅な文字の運びにも魅了させられた。
秋山氏も日頃から文字を書くのはお好きらしく、いつも筆ペンを持ち歩いて居られるらしい。
まさに「小右記」を認めている感じが好もしく思えた。

 私も身近にあるペン立てにはいろんな筆記具や、色鉛筆や蛍光ペンなどに混ざって習字の小・中筆や面相筆、そして筆ペンも入れている。
最近は墨を摺ったりが面倒で、もっぱら筆ペンを使ってはいるが、これを毎日日常に使えば少しは上達するのではないかといつも思っている。
古文書に触れるなかで、先人が書き残した筆跡は、悪筆・達筆いろいろだが、必ずしも上手ではないどちらかと云えば悪筆であるものは読み下しに余計な時間を浪費させられることがある。
かとおもえば、男性の見事な細い文字で書かれた冊子なども所蔵しているが、見事な文字であっても読み下しは簡単とはいかないから不思議である。
やはり自らが筆を使い文字を認めることを習慣としなければ、古文書の深淵部には入り込めない気がする。
今年は筆ペンで日記でもしたためてみようかと思っている。頓挫している「般若心経」の模写も再開したい。

 今日の書き始めは小学生のそれではないが、大文字で「新たな決意」と戯れてみた。
文字の上手下手は遺憾ともしがたいが、筆に成れることを第一義としてチャレンジしたい。

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■新年の御挨拶を申し上げます

2025-01-01 00:03:35 | ご挨拶

 明けましておめでとうございます。

  新しき年の初めにあたり謹んでご挨拶を申し上げます。
  旧年中は大変ご厚誼にあずかり有難うございました。
  当サイトは昨年8月に21年目に突入いたしました。
よくぞ続いたという感慨のみでございますが、年寄りの馬鹿力を発揮して本年も猛進したいと思っております。
    変わらぬお付き合いを給わればこれにすぎる幸せはございません。

   生かされて又重ねたる老いの春 津々

   本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
    御尊家ご一同様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

  令和七年乙年 元旦

  津々堂 敬白

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■年末の御挨拶

2024-12-31 07:13:20 | ご挨拶

                                                                     御礼

 令和六年も大晦日と相成りました。本年も大変ご厚誼を給わり、心より御礼申し上げます。
個人的には妻の四か月に及ぶ入院生活と、その後のフォローであたふたの年末となりましたが、共倒れにならぬよう
大いに健康に留意して、来年に向けて頑張ろうと決意を新たにしております。

いろいろ、お励ましも給わり感謝申し上げます。有難うございました。

                                            津々堂 敬白

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■年賀状と年末の想い

2024-12-30 17:31:43 | ご挨拶

 令和7年の年賀状はシンプルなデザインにした。お出しする相手方(存じ上げない方の方が多いが)を思いながら、少々のコメントを入れる。
随分古いお付き合いの方々から、「年賀状納め」のご連絡を戴いたりしているが、なぜかホッとする私がいる。
私もそろそろと思うからである。
私は再来年の「午年」で7廻り目の干支を迎えるから、それまでは何とか頑張ろうと思っている。
私ほどの年齢に成ると「何とか生きております」のご連絡でもある。
しかし、御年賀をいただくとご返事申し上げるの礼儀だから、かえって先様に御迷惑をかけることになるから、私も7廻り干支などとは言わず、そろそろ矛の納め時だとも思う。
住所録には70名ほどの名前があるが、「鬼籍」に入られた方のご住所も消し難く、またご家族の「ご不幸」のご連絡などを除くと、年賀状対象者は50名ほど、一時間ほどをかけてコメントを入れ、近所の郵便局に出かけて投函する。
年賀はがきが、63円が85円に3割以上値上がりして、年賀状離れは加速化することだろう。
日頃のお付き合いはSNSなどが発達した今日、年賀状の役割は危うい存在になりつつあるが、すべてを止めるわけにはいかない大切なお付き合いのアイテムであることに変りはない。

「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」年が移り変わり、人も又流れる水の如く明日の人生が新たにある。
それでも御縁のありがたさに感謝するのは、その御縁が私の人生にもたらした大きな励みになっていることは、疑うべきものではない。
令和六年も明日は「大晦日」、我が人生多難とはいえども元気に大晦日を迎えることができたことに只々感謝しかない。

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■蓋棺録・俳優火野正平氏

2024-12-30 08:18:29 | ご挨拶

 今朝8時過ぎなんとなくTVを付けたのだが、年末の今の時刻は芸人やコメンテーターが年末風景を伝えてくれるが・・・ちっとも面白くない。
BSに切り替えたら、先に亡くなった火野正平氏の『にっぽん縦断 こころ旅』をやっていた。

 北海道旭川市の「射的山」を訪ねる旅だが、依頼者は小学生の時、スキー遠足でこの山に登ったらしい。
当時はスキーを持たない子が多かったらしく、依頼者はスキーを楽しむどころか、-20度ほどにもなる極寒の中での苦行であったらしい。
田んぼに囲まれた標高171メートルの山だというが、周辺地の標高が高いから実質は2~30m程かと思われるほどの低山である。
依頼者が言う「シャタケ山」の名前には齟齬があり、通りがかりの小学生たちは全く知らない。そんな中おばあちゃんと一緒の女の子に出会う。
その女の子がおばあちゃん運転の車で追いかけてくる。そして火野はその子を誘い、小高い山を登るのだが、その子の疲労が激しくどうやらその子は病気持ちらしいことに気づく。
火野氏は「ごめんな」と繰り返し謝りながら、山頂のベンチに腰掛け、眼下に青く広がる田んぼを眺めている。
女の子は「田んぼが風で動いている」と言った。

 私は思わず「あっ」と声を上げてしまった。火野が「あれは風の足跡だというんだよ」と教える。
以前この番組を私は見ていて、感動してブログに書いたことを思い出した。
「風の足音」と打ち込んで検索すると、「二人は詩人・・・」という記事が残っていた。

2014・9・21の事だから10年経過している。私たちに感動を与えたこの番組から10年、名優・火野正平は突然この世を去っていった。
火野氏のご冥福をお祈り申し上げるとともに、10歳くらいであったろう、その女の子「はつねちゃん」はもう成人しているお年頃だと思われるが、御元気だろうか?と案じている。

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■未解決事項

2024-12-28 08:43:22 | ご挨拶

 高祖父の岳父たる上田久兵衛は、娘婿たる我がひい爺様を「藤聟」と呼んでその日記などに記している。
「藤聟」をどう読んだのだろうかという疑問がいまだに解決できないでいるが、NHKの大河ドラマ「光る君へ」で、紫式部が「藤(とう)式部」と呼ばれて云う事から「とうのむこ」と呼んでいたのではないかと思い始めた。
日頃の会話では名前を呼んでいたろうから、これは日記のみに現れる「愛称」みたいなものだと思われるが、考えてみるとなかなか洒落た高祖父さまだと思ってしまう。
久兵衛の名も慶応・明治期に成ると「休兵衛」としたが、「官名」たる「兵衛」の使用が制限されると「休(やすむ)」と改名した。
「やすみ」かもしれないが?

「藤聟」たるひい爺様は又太郎(諱・安正)という名だが、その父親たる高祖父も名乗りは又太郎で諱は「安玄」である。「玄」の字は「くろ・しず・しずか・つね・とお・とら・のり・はじめ・はる・はるか・ひろ・ひかる・ふか・ふかし」などと読むらしいが、恥ずかしながら私は高祖父爺様の諱をどう読むのか知らないでいる。

 私は「又太郎じいじいさま」で通してきたから、今ではどうでもいいと思っているが、「藤聟」も「安玄」の読みも未解決事項のままで今年も年越しである。

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■慶安二年の今日、光尚公逝去さる

2024-12-26 06:43:50 | ご挨拶

       於・妙解寺、父忠利夫妻廟所(母・保壽院の廟所は忠利廟所に隠れている)と並ぶ光尚廟所(左)

(慶安二年十二月廿六日)暮過龍口邸ニ於テ(光尚公)卒ス歳三十一 光尚為人威厳は父忠利ニモ勝リ當時三徳兼備ノ将ヲ以テ穪セラル 同時ノ大名小名之ヲ慕フ人尠カラス 適曽我丹波宅ニ集會ノ時光尚カ凶音来ル丹波守手ヲ柏テ天下ノ燈消タリト歎息ス 列座ノ内ヨリ天下ノ燈消ヌルトハ餘リノ過譽ニ非スヤト云人アリ丹波守聞テ事ノ様ヲ知ラサレハカク思ハルゝモ理リナリ拙者ハ肥後守膽略ノ程ヲ慥ニ知リタル事有リ去ヌル頃拙者台命ヲ奉シテ日光山ニ赴ケリ其事件一途ニ政道ヲ立ントスレハ後日ニ弊害有ルヘシ サリトテ後害ヲ思ヒ苟旦ニ計ラヒテハ政道立チ難シ如何セント執政ノ人々モ苦慮セラレシ時密ニ酒井讃岐守ニ申談シ光尚カ宅ニ至リ之ヲ謀ル 光尚再三謙遜スル共強テ請ヒケレハサラハ愚存ヲ申述ン定テ僻論タルヘシ 必ス外人ニ洩レ玉フヘカラス 若光尚カ領分ニテサルアラン時ハ先ツ云々措置シ跡云々區處スヘシト對フ其由執政ノ人々ニ語リケレハ皆々上策ナリト感心有リケル故光尚申ス儘ニ執リ行ヒタルニ政道モ立チ害モ無リシナリ 之ヲ以テ思フニ比類無キ大器量ノ人ニアラスヤト語リケルヨシ

 

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■熊本市木・いちょうの仕業

2024-12-25 09:48:07 | ご挨拶

 熊本城は別名「銀杏城」と呼ばれるのは、城内に銀杏の木が植えられていることに由来するらしい。
清正は銀杏の実を食料とすることを考えていたという。
それゆえ、熊本市木は「銀杏=いちょう」である。熊本県庁のプロムナードには肥後54万石にちなんで、54本の銀杏が植えられていて、現在遅ればせながら紅葉から落ち葉の季節となっている。
夜になるとライトアップされ黄色い絨毯となっていて美しくはあるが、雨が降ると路面にへばりついて厄介者となるが。

 今年熊本市では、市電(路面電車)の事故が多発した。脱線事故や衝突事故、信号無視などが14件つづいた。
熊本市の幹部が色々弁明、対策を講じている中、過日15件目のインシデントが発生した。
又信号無視だと伝えられたが、実のところは「線路にイチョウの葉っぱ」が咬んでいたらしくブレーキが利かず、電車が33mほどすべってしまったのだという。
これを運転手が届け出なかったのがまずかった。

 電車は相当の重量と思われるのだが、これを33mも滑らすというのだから、イチョウの葉っぱの馬鹿力を思い知らされる。
イチョウにそんな力があるのならば、なにやらその効力を利用できないのかと考えてしまう。

その「イチョウ」が「市木」だというから、何ともいただけない。
 

 もう十数年前にもなろうか、明五橋通り(立丁通り)の両側の「イチョウ並木」が全部伐採されたことがある。
緩やかな下り道だが、イチョウの落ち葉の季節になると雨でも降れば危険極まりない状態になっての事だったようだ。
おまけに、銀杏の実が踏みつぶされると、独特な異臭がする。特に反対運動もなかったように記憶する。
そんな「銀杏の実」は私の大好物で、季節になると妻が気を効かせて買って来てくれたが、今年はまだ手に入れることが出来ていない。
茶碗蒸しには絶対欲しいし、塩をまぶして酒のつまみは最高であるのだが・・・・

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■寝坊致しました

2024-12-25 08:43:35 | ご挨拶

 今日は少々寝坊をしてしまった。
お天道様も顔を出したが、熊本の日の出は7時18分で陽が少し差し込むようにとカーテンを少し開けているが、起きれなかった。
日が一番長いのは冬至(今年は12月21日)だが、今日は誠に偶然、日の入りが17時18分で日の長さが10時間ジャストである。
日の出時刻が一番遅くなるのは、1月7・8日だそうだが、松の内は少々のんびりさせていただこう。

 今年も残り一週間になったが、妻が例年の如くきびきびと動き回ることができないから、正月準備もいろいろ省略しようと思うが、おせち料理は手配済だが、御雑煮もたべねばならずそんな買い物も控えている。
近所に24時間営業のスーパーが今春営業を始め、お正月休みもないそうだが、消費者にとっては便利この上ない。
今日も買い物の内容チェックと荷物持ちをかねて、お供しなければならない。
妻の薬も今日明日の内に取に行かねばならず、TAXIを頼むには余りにも近い距離なので気の毒だから歩かなければならない。
リハビリにはちょうど良い距離だと思うが、今の彼女にとっては800mほどの距離は、途中で2・3度休まなければならない距離である。
これも一人で行かせるわけにはいかず、彼女の退院以来、何事につけ外出は仲よく?二人連れである。
そんなこんなで、まだ賀状の準備が出来ていないが、その他においては大いに省略してお正月を迎えようと思う。
皆様のお宅ではどうお過ごしでいらっしゃいますか。

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■赤穂義士の討ち入りとか、クリスマスイブとか

2024-12-24 08:51:50 | 徒然

 脈絡のない話だが、これは江戸時代の時間の管理と、ユダヤ教における時間のとらえ方についてである。
「12月14日寅の上刻赤穂浪士が本所吉良上野介の屋敷に討ち入り」と言い伝えられている。
「どっちなの・・」と頭がこんがらがるが、江戸時代の日の変わり目については「暦林問答集」に「丑を昨日の終となし、寅を今日の始となす」とあることからすると、寅の上刻には日替わりしていることに成り、「14日・・討ち入り」という表現は根拠を失うことになる。
某大教授の「吉良邸に討ち入ったのは「寅之上刻」とされています。現在でいうと午前3時過ぎです。旧暦では午前3時を過ぎると翌日になるので、正しくは15日ということになります。ときどき「討ち入りは12月15日」となっているのはそのためなのです。」という解説をされている。
「14日未明には行動を起こして、日が変わるころ討ち云った。「引き上げは寅の下刻(5時)」とあるから、上野の御印を上げたのは15日の5時前」といった感じで受け止めておこう。

 今日はクリスマス・イブ、どなたもクリスマスの前日ととらえておられるだろうが、これも間違いでユダヤ教における日が変わる時間が関係している。
ユダヤ教では日没をもって「日替り」とする。つまり現在の24日の日没時から25日ととらえているから、現在のイブは「25日の夜」にあたる。
「イブ=Eve」は夕方や晩を意味する『evening』の古語『even』からきているとされる。クリスマス・イブは「クリスマスの夜」なのである。
街中は若い人たちで大賑わいをするのだろうが、こんな爺のたわごとなどどうでもいいことだ。

 私が申しあげたいのは、国により時代により時間の考え方が多様であるということである。
日本の旧暦12月14~15日は、グレゴリオ暦によると、年が替り1月の30日になる。積雪があったとされるがこれも真実ではないらしいが、現代の季節感では来年の1月の末という事に成るから真実味はある

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■小宰相の死

2024-12-23 08:39:07 | ご挨拶

 21日の史談会の席上、「古文書をたのしもう」講座を受け持っている私は、文久四年(元治元年)の転び切支丹大友氏の末裔・松野又右衛門の切支丹宗門改めに関する「誓文」を解説ご紹介した。
文久・元治・慶応・明治と時代は急変し、この誓文から九年ののちには、キリスト教は正式に認知されたのだが、そのような経過と転び切支丹で大友一族の末裔である松野氏四家が長く監視(?)の元にあったことを物語る、私が所蔵する文書をお示ししてご説明した。

 さて、今日十二月廿三日はガラシャに殉死した小笠原少斎の子・小笠原玄也と、その妻(加々山隼水正の娘=みや)と子供、そしてその奉公人等15人の「転ばぬ」切支丹信徒が誅伐された日である。

堅い信教心は、藩主忠利らの強い説得にもかかわらず、従容として天に召された。まさに殉教である。

時を同じくして、志賀左門・小宰相と言った人も殉教した。かって触れたことがあるが、後者の小宰相については確かな情報がない。
すぎる慶長九年忠興の二男・興秋が、忠興の命により江戸證人に指名された。
忠興は、興秋の側に在った長岡肥後(飯河宗信)らに、早々の出立を命じたが興秋はこれに抵抗してなかなか豊前を離れることがなかった。
その時、興秋を説得した女性がありこの人物が「小宰相」と名乗っている。
興秋は小宰相の説得に心を開き、豊前を出立することになる。

     申立てう/\の事
   一こんと、たゝおきさま御まへあしくつかまりなし、めいわくいたし候ところに、御きもいりなされ、
    御すまし、かたしけなくそんし候、
   一さきにてのやうたい、せいしあんもんくたされ候、そのことくとゝのへしん上申候事、
   一此うへ御うけに御たちなされ候てくたされ、かたしけなくそんし、すこしもちかへ申ましき事、
   一人しちにおちをしん上候まゝ、すこしもちかへふしよそんをかまへ申候ハゝ、おちを御せいはいな 
    さるへき事
   一そはにめしつかい候もの共のさいし、人しちにあけ候へく候まゝ、かのもの共ちかい候事御入候ハゝ、
    これ又御せいはいなさるへく候、其ため申上候へく候、
    此よし御ひろうあるへく候、以上、
     慶長九ねん    与五良
      十一月十六日   たゝ以(花押)  興秋はこの時期与五郎忠以と名乗っている

    小さい将殿
        御中

 小宰相が忠興の命を受けて、出立の説得をしたのであろうが、この文章を見る限り後に京都に於いてこれに背き出奔したことは驚きであり、忠興にとっては驚愕の一事であった。
随伴した長岡肥後にも伝えられずの事であり、肥後はむなしく帰国した。
そして、慶長十一年七月廿七日、肥後は父・飯河宗祐とともに誅伐されたのである。

 そんな小宰相が忠利の肥後入りにも随伴して入国したと思われ、三年後寛永十二年十二月廿三日、小笠原一族や志賀左門らとともに誅伐された。
小笠原一族の墓地は花岡山に残されているが、志賀左門、そしてこの小宰相の墓地はようとして知れない。
歴史の恐ろしさは、このような悲劇を跡形もなく消し去ってしまう。何とか語り伝える努力が必要だと感じている。

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■年末雑感

2024-12-22 09:03:28 | ご挨拶

 今年は妻の4ヶ月に及ぶ入院生活という思いがけないことがあり、少なからず私の生活もその影響を受けた。
入院中は面会も週一、それもわずか15分というものであったから面会以外は時間も潤沢にあったはずだった。
しかし毎日私も食せねばならないので、その買い物が一仕事であった。その他、主婦の仕事がすべてわが身に降り注いだから、毎日が忙しい事、それゆえ聞きに行きたい講演会などを幾つか行けなくなったり、図書館へももう半年以上出かけていない。
毎月の熊本史談会へは皆勤しているが、昨日、今年最後の例会に出席して今年の私の公式外出は終了した。

 しかし、私的においては一日おきくらいに、妻が運動を兼て買い物に出かけるからこれについていかねばならぬ。
まだ当人が荷物を担いでの行き来ができないから、私は荷物持ちと、彼女が考えている夕食のメニュ等について、何を買うのかの御目付である。
「今晩はすき焼き」だといって、肉や野菜を購入すると、その材料が「水炊き」に変わったりしていて驚かされたり、こんな具合が日常茶飯である。
大いに行動が制限されているので、勢い家にいる時間が多くなり読書の時間が増え、Amazonのお世話になって本の数がどんどん増えだした。
年末の大掃除もしなければならぬ時期に成ったが、小山を作っている本を何とか本棚に収めようと思うが、当の昔キャパ・オーバーになっているので、隣の空き部屋に小山がうっるということになる。

 今年も10日ほどを残すばかりとなった。来年の年賀状で年賀収めをしようと思ったりしながら、最期の年賀状の準備もしなければならない。
新しい年を迎えるのには、結構なエネルギーを要する。まだそれに堪える体力はあるが、妻のサポートをいつまで続けられるのかという一抹の不安と戦いながら毎日を過ごしている。
今年は、いろんな内視鏡検査を受けて、特段の症状もなくその点では心すっきりではある。


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