かっての肥後国主加藤家家臣が、どのくらい細川家の家臣として召し出されたかを調べたことがある。綿考輯録によると、これも加藤家家臣だった日下部(志水)元五が尽力したと記している。私の調べたところでは95人ほどになったが、細川家の侍は950~1,000人位だとされるから約一割にあたる。加藤家十六将と称えられた森本儀大夫・庄林隼人佐・貴田孫兵衛や、飯田覚兵衛・小代下総守・出田宮内少輔・下津棒庵などの本人若しくは子息たちが再仕官した。その中に大木兼友の名前も見える。
兼友の父・兼能は、織田信長の兄・津田信広と一族十数名を討取り高名した。佐々成政の侍大将として肥後に入ったが、成政没落後加藤清正に仕えた。内室は清正の側室竹の丸の妹だとされる。清正に殉死し、清正廟(本妙寺浄池廟)を守るように兼能の碑が建てられている。
加藤清正
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+--竹の丸 有吉英貴---+---英安=====直常------------→ 有吉家
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+---● +---たつ
∥ ∥
大木兼能-----+---兼友--------兼憲---+---憲近===兼賢----→ 大木本家
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+---● +--直常有吉英貴養子
∥-----→ ※ |
佐々成政===備前---平馬 +--兼賢兄兼近養子
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+--幸周-----------→ 大木分家
※ 肥後佐々家(佐々友房等)
水戸佐々家(佐々助三郎等)
旧加藤家家臣の内での、一番の大身(兼近5,500石)となった。
兼友の父・兼能は、織田信長の兄・津田信広と一族十数名を討取り高名した。佐々成政の侍大将として肥後に入ったが、成政没落後加藤清正に仕えた。内室は清正の側室竹の丸の妹だとされる。清正に殉死し、清正廟(本妙寺浄池廟)を守るように兼能の碑が建てられている。
加藤清正
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+--竹の丸 有吉英貴---+---英安=====直常------------→ 有吉家
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+---● +---たつ
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大木兼能-----+---兼友--------兼憲---+---憲近===兼賢----→ 大木本家
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+---● +--直常有吉英貴養子
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佐々成政===備前---平馬 +--兼賢兄兼近養子
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+--幸周-----------→ 大木分家
※ 肥後佐々家(佐々友房等)
水戸佐々家(佐々助三郎等)
旧加藤家家臣の内での、一番の大身(兼近5,500石)となった。
津々堂様は柿原家文書に大木土佐の事蹟を記したものがあるのはご承知でしょうか。
私の手許にそのコピーがあるのですが、これは貴重な文書であるとだんだん思うようになりました。と申しますのは、ネットでもっと詳しくと思いずいぶん検索をしましたが、柿原文書を上回るものは発見できないからです。
津々堂様のサイトも検索の過程でたどり着いた次第です。
よろしければコピーを差し上げてもよいのですが、以前小生のHP「古文書で読む参勤交代」でメールをいただいたように記憶していますが、そのアドレスを紛失してしまいましたので、こちらからメールさしあげることができません。
津々堂様のほうにその記録が残っておりますなら、ご返事いただけるとありがたいです。
つい最近三重県の大木神社にお伺いし、妻も少しづつ興味を持ち始めたようです。
妻自身は祖父から聞いたということで裏付けを調べたくも系図がなかなか見つからず、難儀しております。
熊本県立図書館などへ行けば貸出不可でも閲覧可能な資料があればと思いますが…。
御存知ありませんでしょうか?
書面から伺いますと奥様が大木家のご出身という事でしょうか?
細川藩士・大木家につきましては、本家・大木摠馬家(南東13‐1)と、分家・大木桃次家(南東13‐2)の二家の記録(先祖附)が残されています。
元々は永青文庫(細川家北岡文庫)所蔵の物ですが、熊本県立図書館にコピーがのこされています。
また(南東13-■)は、細川家時代の収蔵庫の棚番号ですが、県立図書館に於いてもこの棚番号が使われています。
また、總馬さま・桃次さまは藩政時代の最後のご当主のお名前ですが、その後へつなぐためには、「有録士族基本帳」というものがあり、ここには
一代下った大木兼記さま(總馬家?)、大木秀人さま(桃次家?)のお名前が見受けられ資料が残されています。
奥様からすると高祖父さまくらいにあたる方だと思われます。併せて取得してください。
古文書ですから、解読に難儀されることでしょうが頑張ってみてください。
取得や解読などご要望がございましたら代行させていただいております。お気軽にお声がけ下さいませ。