津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■鳥を食らう

2024-05-18 06:39:37 | 徒然

 昨日は病院へ薬を貰いに行った帰りに、近くの川の川沿いの道から川面をのぞき込んでいたら、大きなアオサギを見かけた。
近所の人たちも気が付いているらしく、驚かせないように気を使っている様子である。
数日前に雨が降った名残で、水無川(健軍川)にわずかながらも細い流れが続いている。
わずか上流に堰があり、水はせき止められていて、ほんのわずかの水が下流へと向かっている。
カモの親子らしい姿も時折見かけられる。
雨が降った日に押し流された小さな魚の一群が群れており、サギはこれを狙って飛来したのだろう。
一両日雨がなければ、流れは分断され、そのうちには干上がってしまう。小魚たちの運命も見えている。
先日は大きなシラサギが5階の我が家のベランダから目の前に見えて驚いたことであった。

 「鷹将軍と鶴の味噌汁」という本が面白いが、江戸時代の「鳥の美食学」とあるが、カモは良く食されているが、サギ類はあ
まり出てこない。

むしろ、雀やつぐみ・ひよどり・はと・やまどり等が多いようだが、何といっても食する鳥のキングは「鶴」である。
鷹狩で捕獲された鶴は「御鷹の鶴」と称されて、将軍家に献上される。
細川家の小倉時代の記録には鶴の捕獲が良く出てくるが、熊本に於いても現在の鶴屋デパートがあるあたりが勝手は鶴屋敷と呼
ばれたことが、デパートの名前の由来になっている。

他にも「鶴」を冠した地名は多く見られ、熊本に於いても鶴の飛来はあったのだろう。
時折、将軍家から「御鷹の鶴」のご下賜があると、名誉なこととして記録されている。

 冬から初春にかけては、江津湖にたくさんのカモが戯れている。これは捕獲など思いもよらぬが、カモをとらえるには、ほそ
い水路を作って導き込み、これに網をうってとらえるらしい。

今でも皇室のご猟場があるが、何本かある水路に導かれたカモを大きな差又網をふるって捕獲する。
現在でも行われていて、愛子さまはどうかは知らぬが、秋篠宮家の真子様・佳子様なども経験されている。
動物愛護の意味からとらえた鳥はすぐに放鳥されるらしいが、大事な外交の為の皇室行事であるらしい。
       たばかって(あざむいて)鴨を導く水路かな  という句は私の駄作なのだが、そんな意味の句があるのをどうしても思い
出せない。

 江戸時代、熊本には鳥町・新鳥町などという町名の町があり、鳥を商う店が多く存在したらしいが、鳥をかって楽しむという
余裕も生まれていたようだ。

食用として扱われていたのかもしれない。

 ふと、サギは美味くないのだろうかと思ったり、五位の位をもつサギもいることだからご禁制だったのかと思ったりする。
当方、焼き鳥屋さんで「すずめ」等が、在りし日の姿をのこしたまま出てくると、もう手が出ない。
手羽先なら食えるのに・・・???

 

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■四賢夫人横井つせ子と矢嶋楫子の苦労

2024-05-17 06:00:45 | 徒然

 資料を整理していたら、映画「われ弱ければ」のパンフが出てきた。
主演の常盤貴子さんの舞台挨拶があるということで、公開当日は前から5~6列目に陣取って、お美しい姿を拝見した。
主人公の矢嶋楫子は、「四賢夫人」の一人として著名だが私は詳しく存じ上げなかった。
映画を拝見するとともに、三浦綾子氏の著書も購入して精読した。
                 われ弱ければ(小学館文庫) (小学館文庫 R み- 1-4)

 今日改めて本棚から取り出してななめ読みをしたところだが、横井小楠夫人・つせ子に関わる記述に目が留まった。
その文章をご紹介してみよう。
 
  つせ子の夫は天下に名高い学者横井小楠である。部屋住みの身は、晴れて結婚することができなかった。ところが、長男の兄が死に、
  その子供も幼くして死に、小楠が横井家を継ぐこととなった。百五十石の武家だった。小楠はその以前に内縁の妻を迎えてはいたが、
  男児を出生すると同時に、母子ともども死んでしまった。その後妻に、楫子のすぐ上の姉つせ子が嫁いだのは、小楠四十八歳、つせ
  子二十六歳の時であった。兄も姉たちも、天下の小楠の妻になることを喜んだが、楫子は喜べなかった。年齢差がありすぎるという
  理由からではなかった。百五十石の家に、惣庄屋の娘は正妻として嫁ぐことができなかったのだ。嫁いだとしても、それはあくまで
  も妾であって、正妻ではなかった。しかも小楠には寿加という女がいてひとつ屋根の下に住んでいた。部屋住み時代の、三十代時
  代からの女であった。十何年ともに夫婦のようにしてきた寿加と、つせ子は同じ扱いを受けるわけなのだ。いかに事実上の妻だと言
  いくるめられても、楫子にはもろ手を上げて賛成し得ぬ縁談であった。が、ついにつせ子は小楠に嫁いだ。嫁いだといっても妾の身
  分であったから、婚礼は略された。つせ子は夫を「殿」と呼び、生まれたわが子を「さん」づけで呼ばねばならず、子供たちから、
  「お乳」と呼ばれる存在だった。十年以上も前からいる寿加のほかに、きびしい姑もいた。

 つせ子の苦労は大変だったとは伝えられるが、それは三浦氏が指摘するようなことは違った形で受け止められているのではなかろうか。
寿加という女性がいたことは確かだが、徳永洋氏は「女中」だとされている。姑は結婚から2年後に亡くなっているが、家族は亡くなっ
た兄の嫁と二人の男子(左平太・太平)がいたし、時雄・みや子も生まれ賑やかな一家となったが、いわゆる「士道忘却事件」により帰
国したのち、士席をはく奪され知行も召し上げられたから、無収入となってしまった。
この時期が、つせ子には一番苦労した時期ではなかろうか。
そんなつせ子の苦労と並行して、楫子は酒乱の夫に仕えた。義兄・小楠の死については著者三浦綾子は全く触れていない。
小楠の死から五年後、楫子は夫を捨てて東京にいるあに矢嶋直方の元へ向かうのである。
キリスト教に目覚め、女子教育に携わり名を遺した楫子が賢夫人と称えられるのは、女性の地位向上に大きく寄与したという事であろう。
開明的な思想の持ち主で明治維新の立役者であった小楠だが、こと女性解放については思考がついていかなかったようだ。

 甥の徳富蘆花は、楫子が不義(?)の子を為したことにたいして言葉を極めて痛罵している。その著「竹崎順子」に詳しいが、またい
つかこちらも改めて読んでみようかと思うが、何せの大部であるから心して臨まなければならない。

 

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■祖父の雅号と父の花押?

2024-05-12 06:38:06 | 徒然

 昭和27年の熊本大水害では、我が家は鴨居ぎりぎりくらいまで浸水したから、ほとんどの家財が水損もしかは流失してしまった。
わずかに残ったのはお位牌その他先祖附などが、天袋に入って助かった。
それゆえ、祖父や曽祖父の書なども無くなってしまった。
空襲の時は隣家が焼夷弾の被害を受けたが類焼は免れ火災の経験はない。
火災・水害でまたは地震・津波などで思い出をなくされた方々が多く居られ御同情申し上げる。
その後、親類から写真や祖父の書などが送られてきて、是がわずかに残されている。
祖父の書というのは掛け軸で「至誠」と書かれている。そして「羊我」という祖父の号と思われるものが記されているが、印はない。
羊我を縦書きにすると「義」という字になる。祖父の名前の一文字である。
見たときすぐ判って、思わず「ふっ」と笑ってしまった。
水害に遭遇したのは私が6年生の頃だが、流失した亡父の蔵書数百冊も流失したが、そんな本の中に父のサインなのか花押なのか判らないが記されていたのを思い出す。
これも同様名前の一文字「義」をアレンジしたもののように思うが、小6の幼い記憶力は残念ながらその残像が薄れてしまって定かではない。

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■ふたたび咲く花

2024-05-04 13:52:47 | 徒然

 昨晩はTVをカチャカチャやっていたら、三屋清左衛門残日録「ふたたび咲く花」をやっていた。
時間的に少々頭が切れてしまっていたが、約一時間ほど焼酎片手にTV観劇とあいなった。
この作品は、「三屋清左衛門残日録」と、やはり藤沢周平の「山姥橋夜五つ」(麦屋町昼下がり・所収)を合体させたオリジナル作品だそうだが、北大路欣也や伊東四朗などの見事な演技に好感がもててあっという間の時間を過ごした。
藩重役が権勢を握ろうとする中で起きた事件は、ある侍の家庭を崩壊させてしまう。
かっての用人で御隠居身分の三屋清左衛門が、伊東四朗氏が演ずるところの親友で奉行の力を借りながら、事件を解決し、侍の家庭にふたたび花が咲いたという筋書きである。
昨晩は J・comで見たのだが、今晩は21時から「時代劇専門番組」で再放映されるらしい。

 藤沢周平の作品は粗方読んだが、文庫本でほとんどそろえていたが処分してしまっ。この作品の元である「三屋清左衛門残日録」だけは文庫本を購入して今も本棚に鎮座している。

TV観劇後、本を取り出して30分程読書をしたが、おかげで今日は目の調子が悪くていけない。
おまけに「下書き登録」のままにしていたので、UPが遅れてしまった。深謝・・・

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■保存資料の整理-2

2024-04-24 08:51:44 | 徒然

(5)1、中川吟之助家先祖附
    2、牧新五家先祖附 一族の記録冊子‐釣耕園にはぐくまれた思い出の「むら」 その他資料
    3、三卿家老・有吉家諸資料 ・有吉家文書 ・御家来付帳 ・御馬乗衆家系附 その他
                ・墓地配置図(峰雲院)(霊樹庵)
    4、志水家関係文書 志水凍家(1,200石)・志水新九郎家(1,000石)・志水一太家(500石)先祖附
            系図・その他資料
    5、城 安太家先祖附 城 朝龍氏著「獅子島戦犯獄中ノート 椰子の実に托す・血路歴程」
        同上親族・手嶋楯太郎家・松浦新吉郎家・續 三郎家 先祖附
(6)  加藤民七郎家先祖附 その他資料
(7)  大矢野次郎八家先祖附(天草五人衆・元蒙古襲来絵詞所有者) その他資料
(8)  寺井惣九郎家先祖附 その他資料

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■知っててよかった・・

2024-04-18 13:13:43 | 徒然

 今年の大河ドラマは登場人物の入れ替わりが激しく、又いろんな俳優が入れ代わり立ち代わりで、若い人たちも興味がわくのではないだろうか。
こちらはと言えば「源氏物語」と共に「枕草子」も読まずばなるまいと思って、本棚を探すが見つからない。
いよいよ見つからなければ古本でも購入せねばならない。
また「御堂関白記」もちょっと読んでみようかと思うし「東鑑」も読まねばと考えたりもしている。

 処で前回は藤原定子と清少納言の初まみえのシーンで、あの有名な白楽天の「香炉峰の雪」の話が出てきて、驚かされるとともに、大石静氏の脚本家としての力量を感じさせられた。
若い方々で知らない人は何の事と思われたろうが、私は「知っててよかった」とつくづく思ったことである。
下は清少納言の「枕草子」280段の文章である。この文章どおりのシーンがTVに再現された。

雪のいと高う降りたるを、例ならずこうまゐりて、びつに火おこして、物語などしてあつまりさぶらふに、「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ」とおおせらるれば、御格子上げさせて、を高く上げたれば、笑うはせたまふ。貴

 時の貴族の女性たちの教育の高さを思い知らされる逸話だが、つまるところ「白楽天」の歌も承知ということである。
この後の定子の運命は、寂しいものとなるが清少納言が御側に侍っていたことは慰めであったことであろう。
今年のドラマは、目が離せないでいる。

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■南海の眠りさますか豊後灘・・・

2024-04-18 08:34:53 | 徒然

 昨晩の地震はベッドに入ってしばらくした時、携帯のアラームと、たまたま持ち込んでいたポータブルTVのアラームがけたたましくなり出して飛び起きた。
5階のフロアで震度3程の地震を初体験したが、震源が豊後水道と聞いて二度目がくると危ないぞと少々構えてしまった。
熊本人は二度の強烈な地震を体験しているから、時折震度3位の地震の報道がなされているのを見ると、大げさなと思ってしまうが、改めなければ成らない。
しばらくして、ベッドにもぐりこんだが目がさえて眠れない。
色々考えていたら「太平の眠りをさます蒸気船・・」の歌が突然浮かんできた。
あれこれ考えてこんな歌になった。

      南海の眠りをさますか豊後灘
          耐えてくれよと夜も寝られず

相変わらずのくだらぬ作だが、こんなことを考えていたら眠りに落ちた。
被害のすくなからんことを願いつつ・・

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■信長の子孫に光秀の子孫が嫁ぎまして・・・

2024-04-07 06:49:13 | 徒然

 江戸城内での細川宗孝の死に関する資料をご紹介する中で、宗孝の妹聟・織田信舊が幕府の指示があったとはいえ、心からの支援を
してくれたことは特筆に値する。
その信舊の正室・はガラシャの血を引いており、明智の血が流れて
いる。
つまり信長の子孫に、光秀の子孫が嫁いだということになる。
しかしながら二人の間には子がなく、もしお子があればどうなっていたことだろうと妄想するのである。
現代まで続いていたら、TVあたりでも取り上げられて織田信成氏より有名になったことだろう。

明智光秀ーーー玉(ガラシャ)
       ‖ーーーーーー忠利ーーー光尚ーーー+ーーー綱利==宜紀ーーー+ーーー宗孝==重賢ーーーー治年
     細川忠興                           |                ⇧      |       ⇧
                    +ーーー利重ーーー利武   +ーーーーーーーーーー 重賢
                                                                                  |
                                                                                  +ーーーー                                                                      
         高長系織田家初代                 ‖
織田信長ーーー信雄ーーー高長ーーー長頼ーーー信武ーーー信休ーーー+ーーー信朝=== 信舊          
                       |        ⇧
                       +ーーーーーーーーーーーーー信舊

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■隱見細倉記・閑話休題-「江戸城小用所」

2024-04-05 06:44:29 | 徒然

 隱見細倉記-2で「1、小用所繪圖之事(省略)」としたところ、久しぶりに悪友が連絡してきて、どうして省略するのかと文句を言ってきた。
縷々説明するが判ってくれないから、写真を撮ってメールした。
すぐさま返事があって「いやすまん。こっじゃーなんのこつやらいっちょんわからん」(これでは何のことやら一向判らん)と謝ってきた。
その絵図を皆様にもご披露するが、(省略)の意味はご理解いただけるであろう。

          

 この記録をした人物については良くわからないが、陪臣の身では城中に入る機会はなく、人の話を聞いてこの様にまとめたのだろう。
ただ一人、この事件の際宗孝公御付の生田又助が城内に入ることを許されているから、話の出所は又助であろう。
江戸城本丸の絵図と見比べても何とも理解が難しい。

                                           
    

                                            江戸東京博物館・図録「江戸城」-136・御本丸御役詰割之図から引用

 大手門から至る玄関が左上に見える。大廊下様のものが右上の大広間に繋がっているが、ここが細川越中守の控えの間である。
右の白地の空間は大きな中庭(明=空き地)の、その右手の御廊下が「松の廊下」である。

その「明」の左手に「柳の間」が見えその左手が「小用所」か。そして更に左手に「蘇鉄の間」が見える。
この絵図からすると、上記小用所繪圖は何とも理解しがたい。

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■健軍窯・近重治太郎先生御作

2024-04-03 14:59:25 | 徒然

          

 私が茶道肥後古流を勉強していた時代、健軍窯の窯元であり肥後古流の教授であられた近重治太郎先生御作の平茶碗を手に入れることができた。
違う社中の男性諸氏との交流が「お茶」ならぬ「おちゃけ(酒)」で深まったことが、15年ほどお稽古を続けることができた。
社中は違えど、お茶会などで先生にもいろいろお教えいただいた。
御茶碗は数点持っていたが、地震の折割れたものもあり、2021:2:25■願望を書いた通りだが、高麗手・三島手とはいかなかったが、懐かしい近重先生の御作を手に入れるまで3年経過してしまった。
御抹茶と新しい茶せんを購入して、お薄を一服楽しみたいと思う。

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■行く方知れずの万年筆

2024-04-02 08:07:37 | 徒然

 愛用の万年筆が行方知れずになって久しい。そのうちにひょっこり顔を出すだろうと思っていたが、その気配がない。
それ故に、手紙のご返事などは勢いタイピングすることにしている。
あて名書きはボールペンではまずいだろうと思い、筆ペンで書いていたが、今度はこちらがインク切れとなってしまった。

 一方では、この際買い替えるかという思いもあり、インクはブルーに変えペン先もブロート(太字)が良いなとか考えたりもして、インターネットで値段を調べたりしている。
それでも今日は本格的に万年筆さがしにかかろうと思っている。

 卯の花腐し父の万年筆太し という仁平勝氏の句があることを知ったが、父の遺品であった万年筆は昭和28年の水害で、多くの書籍類と共に流失してしまった。
その後も親友から贈られた万年筆は、ペン先が駄目になり取り替えようと思っていたが、これは先の大地震後行方不明になったままである。

 

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■春日大社の事・・

2024-03-31 21:21:48 | 徒然

 今日の「光る君へ」が終わった後、藤原氏由緒の春日大社の紹介が出てきた。
ふと思い出したことがある。母がまだ存命のころだから22・23年ほど前だと思うが、春日大社から奉納のご案内を頂戴したことがある。
いまだに「何故」という気持ちがあるのだが、一応は苗字に「藤」がついている我家だが、これは2代目が母方の苗字を継いだからで、私は出自を藤原氏だとは思っていない。
しかし、さすがにそのまま放っておくわけにもいかず、母が幾ばくかの御寄附をしたようである。
母が春日大社に詣でたということもなく、私もいまだかって出かけたことはないから、思い当たることがない。
「藤」をつけた苗字の半分くらいは、明治維新後につけられたものだというが、春日大社に寄付をしたからと言って、我が家も藤原一族の詰めの端に入れていただいたことにはなるまい。




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■TVの前に釘付けになれる番組

2024-03-28 20:51:15 | 徒然

 NHKの「プロジェクトX」が新しく始まることが、特集番組でご披露があった。
ブラタモリは終わったし、ニュース以外には、新日本風土記くらいしか必ず見る番組がなくなってしまっていたから、これは大いに楽しみである。
民放各局も番組改編に当たり、担当MCが変わったり、何か目新しい番組も登場するかもしれない。
暇人の爺様を、TVに釘付けにしてくれるような企画を提供してほしい。

膳場貴子アナがNHK登場には驚いたが、相変わらずお美しい。そうだ、サンデーモーニングも又見ることにしよう。

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■九州にもいそうなもん

2024-03-28 15:45:35 | 徒然

                   ほととぎす         しのびね
         卯の花の匂う垣根に 時鳥早も来鳴きて 忍音もらす夏は来ぬ

 私も良く知っている唱歌だが、正式名称は「夏は来ぬ」だったかな?
この唱歌を、小学生の高学年らしい女の子が数名で歌いながらして下校していた。歌い終わるとにぎやかなおしゃべりとなった。
「卯の花を知っていますか?」「時鳥をみたことありますか?」「忍音って何のことですか?」
がやがや言いながら通り過ぎて行ったが、考えてみると爺もよく理解できていない。

 「卯の花」についてはかって、富安風生の句に 書淫の目あげて卯の花腐(くた)しかな という句があることを■書淫・・・・でご紹介した。
 ホトトギスについても同様俳句がらみで■時鳥厠半に出かねたりでご紹介した。

 よくよく考えると、そもそも九州には時鳥(ほととぎす)は住んでいないらしいから、どういう鳥なのかもよく理解できていない。
正岡子規の子規の読みがほととぎすであり、主宰した結社がホトトギスであり、時鳥という鳥の口の中が赤く血を吐くようだというので命名したと聞く。俳句などにもよく歌われているが、九州人には良く理解できない。

 随分以前、ある方に手紙で、季節の挨拶の意味で「ホトトギスが鳴き始める季節ですね」と書いたところ、関東圏でもホトトギスの鳴き声はもう随分聞きませんというお返事をいただいたことを思い出す。
九州人としては、なんだか取り残された気持ちさえする。阿蘇には古歌が残されているというから、現在でも、どこか山中にはいそうなもんと思うのだが如何だろうか。


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■開花宣言あって「ようやく春ですね~」

2024-03-26 15:05:06 | 徒然

       さくら咲いて、なるほど日本の春で  種田山頭火

 菜種梅雨が続く中でようやく熊本も桜の開花宣伝がありました。やはり日本の春は桜、「ようやく春ですね~」

強い雨が数日続きましたが、御昼過ぎにはすっかりあがり久しぶりのまばゆいばかりの日差しです。
近所の自衛隊前の桜並木も、古い桜が随分切り倒されてしまいましたし、毎年いち早く花をつける正門左の樹も切り倒されてしまい、残念なことになりました。

 老人共にはいつもと変わらぬ春ですが、孫娘が大学を出て東京に就職して熊本を離れます。
それも渋谷のど真ん中に職場があるらしく、喜々としています。若い人は良いですね。いつまでも平和な日本であってほしいと願います。
爺様としては帰省の時にしか会えませんから、あと何回会えるかなと、少々感傷的になります。
そしてあと何回、春を迎えることができるのかと思ったりします。

        あと幾とせ 出会うか 桜の花日和  津々

      

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