津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■今日の京都新聞記事から「光秀の生国」

2020-01-15 18:01:12 | 新聞

謎の光秀出生地に新説、岐阜でなく滋賀? 新たな古文書発見
1/15(水) 10:00配信

 
 
「光秀の出生地を記した最古の史料」と江侍聞伝録に注目する滋賀県教委の井上さん(大津市瀬田南大萱町・県立図書館)
 前半生が謎とされる戦国武将明智光秀の出生地について、滋賀県多賀町中央部の「佐目」と明記した1672(寛文12)年編さんの古文書「江侍聞伝録(ごうじもんでんろく)(禄)」が、県立図書館(大津市)で確認された。同様の記述は、同一著者とみられる貞享年間(1684~88年)の「淡海温故録(おうみおんころく)」にもあるが、江侍聞伝録はそれより古く、調査をした県教育委員会の専門家は「成立年代がはっきり分かり、光秀の出生地を記した最も古い史料」と指摘している。

 【写真】新たに確認された「近江で出生」の古文書

 著者は木村重要(生没年不詳)で、佐目から十数キロ南西部に位置する近江国神崎郡(現在の滋賀県彦根、東近江市辺り)の人物とみられるという。江侍聞伝録は全2冊で、中世の近江国の土豪・地頭の家系を地域ごとに記している。
 自筆とみられ、1冊目に、明智十左衛門という侍が濃州(美濃国)から佐目の里に逃れて来て2、3代が住み、出生年は不明ながら「光秀」が生まれたと書かれている。信仰すれば千人を従える大将になれるという大黒天を、千人では物足りないと捨てた野心家の一面をうかがわせるエピソードもある。その後に完成した温故録のベースになったとみられ、織田信長を討った本能寺の変(1582年)後、豊臣秀吉と戦った山崎の戦いで多くの近江の人々の加勢を得られた理由については、「江州生国」(近江で生まれた)とする。
 光秀の出生地を巡っては、佐目の東に位置する美濃国(岐阜県)説がある。根拠とされ、安土桃山時代に活躍した立入宗継による覚書には、1579(天正7)年6月10日の出来事の一節に「美濃国住人ときの随分衆也 明智十兵衛尉」と記されている。光秀は当時、近江や丹波を拠点としており、「住人」は出身地を意味すると解釈されてきた。
 しかし、県教委文化財保護課の井上優さんによると、当時の武将は生まれた土地だけでなく、先祖の所領地も出自と位置づけており、近しい人物でない限り、出生地までは知り得なかったという。その上で、「『住人』は、光秀の生まれた地域、光秀の先祖の所領地、土岐氏の所領地のどれを指すのか判然としない」と話す。
 また、江侍聞伝録には、光秀の先祖の名は十左衛門という通称名のみ記されている。井上さんによると、当時は地位の高い人物でないと、諱(いみな)(元服時の正式な名前)が記録に残らない場合が多かったといい、「編さん時、通称名程度の情報しか伝わっていなかったのはかえってリアリティーがある。美濃出生説を見直す史料として意味がある」と注目している。

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■名古屋城「清正の石垣」

2019-05-10 16:51:18 | 新聞

                 

 熊本大学永青文庫研究センターが調査を続ける「松井文庫」から、加藤清正の名古屋城石垣建設に関する一級資料が発見された。
この石垣は清正が作ったといわれてはきたが、それを裏付ける資料が発見された訳で、また一つ熊本から発信のBIGニュースとなった。
熊本日日新聞の今日の朝刊をご披露しておく。

 以下は「熊本藩年表稿」にある、清正関連記事。

             

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■光秀研究会が小冊子無料配布 人物像やゆかりの地掲載/京都・福知山市

2019-04-24 08:58:36 | 新聞

            丹波新聞から引用 4/23(火) 11:02配信

                              

 丹波福知山明智光秀公研究会が「明智光秀公と福知山AtoZ」という小冊子を作り、無料配布している。光秀の人物像を史実や伝説、伝承などを通じて写真と文章で紹介している。

光秀や「赤鬼」ゆかりの地でマップ

 明智のAからZまでの26文字の頭文字により、光秀関連の文言を見つけ出し、福知山市を中心に丹波市、宮津市などのゆかりの地に会員が足を運び、写真を撮影した。CDサイズなので、コンパクトで見やすい。

 ▽円通寺には、光秀自筆の「下馬札」や「禁制」が伝えられている▽光秀に腹心として仕えた斎藤利三は黒井城陥落後に入城し、光秀の命を受けてこの地を治めた。娘のお福が成長し、徳川三代将軍、家光の乳母になっている―ことなども紹介。本能寺の変の原因などにも迫っている。

 3000部印刷。JR福知山駅内の福知山観光案内所に置いている。

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 又亀岡市役所のHPには亀岡愛に満ちた「麒麟のまち亀岡‐光秀が理想を描いたまち」が紹介されている。

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■「味土野(みどの)ガラシャ大滝」の展望所と遊歩道が完成

2019-04-17 13:39:19 | 新聞

ガラシャゆかりの地の滝で開眼法要 京都・京丹後    毎日新聞から

 京都府京丹後市弥栄町味土野の「味土野(みどの)ガラシャ大滝」の展望所と遊歩道が完成し、展望所で16日、開眼法要が営まれた。市観光協会弥栄支部が整備を進めていたもので、近くには駐車場も設けて観光客誘致につなげたいという。

 大滝は標高約400メートルの山中にあり、地元では「味土野大滝」と呼ばれ、落差は50~60メートルある。住民によると、以前は滝つぼに大きなアマゴがたくさんおり、手づかみで捕っていた。木が生い茂る季節は府道から見えにくくなるため、弥栄支部が展望所を開設することになった。

 弥栄支部長の梅田肇さんによると、地元の野間連合区などと「麒麟(きりん)がくる京丹後プロジェクト推進協議会」をつくり、大滝を新しく「味土野ガラシャ大滝」と命名した。来年のNHKの大河ドラマが戦国武将・明智光秀の生涯を描く「麒麟がくる」と決まったためで、光秀の娘のガラシャが本能寺の変の後に幽閉された味土野を観光資源として生かすことが狙いだ。

 梅田さんによると、ガラシャが幽閉された女城をはじめ、護衛の武士が詰めたとされる男城の案内板などの整備も進め、総事業費は約300万円。施設の維持、管理は推進協議会で行う。女城には府立宮津高建築科によるあずまやの建設も予定している。ただ、展望所に至る府道は狭く、急な坂が続くため、整備が課題となっている。

 この日の開眼法要には20人が参列。味土野出身の木下肇さん(93)は「山の奥に眠る古里が世に出してもらい、見違えるようになった」とあいさつした。【塩田敏夫】

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■鎮魂の日

2019-04-15 08:28:22 | 新聞

 現在私が住んでいるAPは、地震直後に「仮の住まい」として慌てて引っ越したものだが、いわゆる「みなし仮設住宅」という取り扱いをうけた。
いまだ地震の避難民という訳だが、三年経過してその措置が期限となる。つまり家を建てるなり、借家を借りるなり自立しろという訳である。
ことばは優しいが役所は「さあ、どうする」と言わんばかりに、「今後」をどうするかを聞いてくる。
買い物や交通の便そのほか便利ですっかり馴染んでしまい、77×75の爺バアにとっては「もう引っ越しは勘弁・・」というのが正直な気持ちで、ここを「終の棲家」とすることに決めた。
「終活」を考えばならない年齢だが、いまだ資料や書籍類は増えるばかりだし、収納のためにあと一部屋ほしいところだが贅沢は言えぬ。

4月14日21時26分と16日01時25分、わずか28時間の間に二度の壊滅的被害をうけた方々でいまだ将来の展望が見えないまま、日々を過ごしておられる方々が多くある。
皆さんがそれぞれの苦難を乗り越えて、無言の努力をされている。そんな方々の事を思うと、私共のごときはいうべき言葉を失う。
平成の御代は必ずしも「平らかに成る」とはいかなかった。「令しく(うるわしく)平和」を望む新しい御代は、まさにそのような時代であってほしいと願うばかりである。
まだまだ長い道のりながら、熊本城はその雄姿を取り戻しつつある。

熊本は鎮魂の催しが各地で行われる。犠牲者に哀悼の意を表し、残された方々のご多幸をお祈り申し上げるばかりである。

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■加藤清正に「朝鮮出兵の命令書」発見さる

2019-03-28 07:31:36 | 新聞

                       秀吉から清正へ「朝鮮出兵の命令書」、本物発見 朝日新聞掲載文引用

                                         

                                                       豊臣秀吉から加藤清正に宛てた朱印状。日付の下に秀吉の朱印があり、末尾に「加藤主計頭(清正)」とある。
                                                                                                        2019年3月27日午後、愛知県刈谷市の刈谷市歴史博物館、上田潤氏撮影

 豊臣秀吉(1537~98)が、武将加藤清正(1562~1611)に宛てて朝鮮出兵を命じた朱印状が見つかった。
愛知県刈谷市の市歴史博物館が27日発表した。「文禄の役」で清正が出兵する直前に出されたものとみられる。

朱印状は縦21.5㎝、横125.5㎝で軸装されている。竜のようなマークが特徴の秀吉の朱印があることや書状の紙質・形状などから本物と断定した。
清正に対し、「(第1軍の)小西行長らに朝鮮出兵を命じたので、お前も出陣せよ。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断しないように」と伝える。
また、「先に行った者たちが道中で詰まっているので、皆で相談してスムーズに進めるように」という趣旨の秀吉らしい細かい指示もある。
3月23日の日付があり、文禄の役で第2軍を率いて4月に出兵した1592年のものと推測される。

博物館によると、内容自体は福岡藩の黒田家に伝わる古文書に引用されている黒田長政ら3人の大名宛ての同日付の朱印状と同じで、同様の命令書が中国や九州の大名へ広く出されたと推測されていた。
だが、3月23日付の命令書の実物が見つかったのは初めてという。

秀吉の文書に詳しい名古屋市博物館分館蓬左(ほうさ)文庫の鳥居和之文庫長は「一次史料が発見されたことで黒田家文書の内容が事実だとわかる。
また、清正の後、加藤家が断絶したため清正の資料は散逸しており貴重だ」と評価する。

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                                       去九日之書状今日
                                             廿三日到来、加披見候、
                                             先書ニ如被仰遣候、対馬守・摂津守高麗ヘ定而
                                             可相越候条、其方も
                                             至高麗船付令着
                                             岸、取固候て早々注進
                                             可申候、異国者手ぬるく候
                                             とて、少も不可由断候、
                                             九州・四国・中国衆
                                             何茂高麗ヘ渡海之
                                             儀、被仰遣候、御先勢
                                             路次つかへ候ニ付而、廿
                                             五日御動座候、猶以
                                             城々堅相拵、皆々申
                                             談無卒尓様可成
                                             其意候也、

                                             三月廿三日(朱印)



                                                   加藤主計頭とのへ

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                       刈谷市は加藤清正室・清浄院の兄・水野勝成の領地であった。清浄院は清正死後、兄・勝成を頼っている。
                      この書状は清浄院が水野家にもたらしたものか・・・?              津々堂

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■熊本城見学通路

2018-12-24 17:54:08 | 新聞

             

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■日向往還跡

2018-12-05 14:48:01 | 新聞

 昨日の新聞に掲載された「旧・日向往還」の切通しの跡が、熊本大学病院構内で発見された。
新しく建築を行うに当たっては、文化財指定区域ではその土地の持ち主に発掘の義務が課せられている。
これだけのものが発見されると、費用もさることながら時間的にも相当かかると思われる。
しかし、この様な往時の遺構が完全な形で見つかることは、珍しい事だろう。
調査地から水平に表示されている道は、鎮西学園まえの道路だと思われる。
水前寺成趣園と書かれている処にある縦のラインは、出水小学校前の通りか、そして水平方向に延びる道は砂取方向に抜ける道だと思われる。
遺構はすでに埋め戻されているようだが、以前にも関連する報道があったように思うが、記憶が定かではない。

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■西日本新聞「小倉ワイン」関連記事ニ題

2018-10-15 09:23:43 | 新聞

  400年の時を超え…細川家ワイン再興 熊本藩主の古文書を基に  
 小倉藩ワインを論文に 元学芸員が発表 江戸初期、細川忠利命じ犀川大村で 

 いろんな方々のご努力で小倉藩細川家ワインが再興されつつある。忠利公の命によりその製造に当たった上田太郎右衛門はわが曽祖母の御先祖様、今回は720㎖瓶4~5本という事だが、いつの日か市販される其節には是非とも購入したいと待ち望んでいる。

                  過去の関係ブログ
            細川小倉藩版ボジョレー・ヌーヴォー 2007-11-08
            ・黄飯・鳥めし・ナンハン料理 2013-09-03  
            ・大分合同新聞から 2013-10-23 
            ・すでに知られていましたよ・・「忠利ワイン」 2016-11-02


 


 
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■熊日新聞報道「米田家屋敷平面図を発見」

2018-10-02 13:14:15 | 新聞

 昨日の熊本日日新聞の報道である。実は私も「米田家屋敷図」を入手して、17年7月8日ブログ「■家老米田邸絵図」でご紹介した。
当方の物は「控」ではないかと思われる。「万延元年製作」などの注記がない。
但しこの方の絵図は、半分ではないのか、私の持っている絵図(下の写真)の右半分と思われる。
私の絵図は写真を撮る時、中央で糊張りが剥がれているので、重ね合わせている
又私は、別に同様の小さな絵図も同時に入手、カラーコピーをとって、原本はどちらかに寄付しようかと思っていた処であった。

建築設計を生業としていた者としても大変興味深いものがある。専門家の徹底的な研究を期待したい。
しかしこのような奇特な方がおられ、史料が生き返る。敬意を表したい。

          
                           私蔵の平面図

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■細川宣紀公の甲冑、所在判明 地震機に調査

2017-04-23 09:01:38 | 新聞

 わが熊本史談会の会員大矢野氏からすでにお聞きしていた話だが、今般所蔵される甲冑の素性来歴が判明し公表された。

           画像 大矢野家に残された甲冑。永青文庫に残る預かり証と一致した

 熊本市西区の自営業大矢野種康さん(69)所有の甲冑[かっちゅう]が、専門家の調査で、江戸時代の4代熊本藩主・細川宣紀[のぶのり](1676~1732)のものであることが分かった。決め手は、熊本大付属図書館に寄託されている永青文庫(東京)の古文書。熊本地震をきっかけに、史料の記述と甲冑の所在が一致した。

 細川家は1871(明治4)年の廃藩置県後、多数の武器武具を家臣に寄託した。細川家ゆかりの古文書類を保管する永青文庫には、預かった家臣らの證書[しょうしょ](預かり証)約200通が残され、熊本大の図書館に寄託されている。

 大矢野さん宅の甲冑には「宣紀公」「一番」と書かれた木札2枚が付いていた。同大永青文庫研究センターの稲葉継陽センター長が史料を検索したところ、「宣紀公一番」の具足(甲冑)を預かったとする「熊本縣[けん]士族 大矢野次郎八」の證書があり、木札と一致した。永青文庫の證書の内容が実際に裏付けられたのは初めてという。種康さんによると、大矢野家は「小[こ]姓[しょう]」として藩主の身の回りの世話をしていた。

 大矢野さんの自宅は熊本地震で半壊。改築に備えて今年3月、熊本被災史料レスキューネットワーク(代表・稲葉センター長)に甲冑の一時預かりを依頼し、調査のきっかけとなった。甲冑は県内の保管庫に移された。

 大矢野さんは「細川家から頂いたと聞いていたが、こんなに貴重なものだとは思わなかった。素性が分かってうれしい」。稲葉センター長は「レスキューを通じ、所有者に由緒来歴を知ってもらえた。蓄積した調査研究の成果が生かせた」と話している。(飛松佐和子)

 
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■3月29日熊本県立図書館・再オープン

2017-03-11 14:57:32 | 新聞

県立図書館、29日に全面開館                                                          熊本日日新聞から

県立図書館、29日に全面開館の写真、図解
本が並べられ、復旧工事をほぼ終えた県立図書館2階フロア。29日に全面開館する=熊本市中央区
 熊本地震の影響で一部を除いて閉館中だった県立図書館(熊本市中央区)が、29日に全面開館する。一般書や外国語の書籍貸し出し、新聞、行政資料などの閲覧を中心に、地震前と同様の利用が可能になる。

 地震で室内の照明が落ち、天井のガラス製仕切りが割れた。書籍も散乱し、職員が1冊ずつ元に戻してきた。今月中旬に復旧工事が完了する。

 現在は1階の子ども図書館と、併設のくまもと文学・歴史館のみ利用でき、2~4階は立ち入り禁止。1階の視聴覚カウンター周辺で実施している臨時の貸し出し・閲覧サービスは24~27日、検索機器や図書の配置換えのため休止する。

 29、30日は終了時間を早め、午前9時半~午後5時15分まで。通常の平日は午後7時、土日祝日は午後5時15分まで。火曜と毎月最終金曜は休館。(飛松佐和子)
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■長崎新聞から

2017-03-06 11:45:04 | 新聞

 

県内トピックス (2017年2月17日更新)
長崎新聞
原城落城のとき特別展盛況
貴重な古文書を熱心に見学する来場者=南島原市、原城図書館
貴重な古文書を熱心に見学する来場者=南島原市、原城図書館

 島原・天草の乱(1637~38年)や禁教期の様子を古文書など25点で紹介する南島原市と西南学院大学博物館(福岡市)の特別展「原城落城のとき-禁教・潜伏への道のり」が、南島原市南有馬町の原城図書館で開かれている。無料。3月20日まで(休館日の火曜と毎月最終金曜は休み)。

 乱発生直後の緊迫した様子を記した書状の写しや、天草四郎の首を取った幕府軍兵士の戦功報告、乱の約90年後にまとめられた物語調の軍記、禁教政策を広める立て札、並べて十字架に見立てるための銭貨8枚などを展示している。

 初日の15日は市教委文化財調査員の南浦利早学芸員の解説があり、県内各地の約50人が参加。会員2人と来た島原観光ボランティアガイド(島原市)の相良信一会長(69)は「客に島原半島の歴史を伝える私らにとっても原城跡は重要な場所。貴重な史料と解説で、現場兵士の苦労など当時の場面がリアルに目に浮かぶ。大変勉強になる」と話した。

 18日午後2時~4時には熊本大の稲葉継陽(つぐはる)教授の講演「島原・天草一揆と『天下泰平』」が南島原市西有家町のカムスである。参加申し込みは市教委世界遺産登録推進室(電0957・73・6705)。

 

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■すでに知られていましたよ・・「忠利ワイン」

2016-11-02 15:07:37 | 新聞

毎日新聞WEBサイト(11月2日16時20分)に於いて「江戸初期に製造指示か 熊本大で古文書発見」という記事が出ている。
      http://mainichi.jp/articles/20161102/k00/00e/040/264000c

 小倉藩(北九州市など)の藩主だった細川忠利(ただとし)が江戸時代初期、ワインとみられるぶどう酒造りを家臣に命じた古文書が熊本大の永青(えいせい)文庫研究センター(熊本市)で見つかった。日本のワイン造りは明治初期に本格化したとされ、江戸初期の関連記録が確認されるのはまれ。小倉藩のぶどう酒が国産ワインの最古の記録との夢も膨らみ、10月に「ワイン特区」となった北九州などで話題になりそうだ。
 研究センター所蔵で、藩主の命令を記録した文書「奉書」によると、旧暦の1628(寛永5)年8月28日、忠利が家臣の上田太郎右衛門にぶどう酒造りを命じた。忠利は同9月15日には、太郎右衛門から別の家臣にぶどう酒造りの技を教えるように命じている。太郎右衛門の領地があった仲津(なかつ)郡(福岡県行橋市など)で原料にしたとみられる野ブドウ「ガラミ」を採集した記録も確認された。
 忠利が貿易拠点だった長崎や平戸に藩の出先機関を置き、「いかにも甘き」ワインを輸入するよう命じた直筆の手紙も見つかっており、研究センター長の稲葉継陽(つぐはる)教授(歴史学)は「忠利の並々ならぬ熱意を感じる。輸入ワインでは足りず、国産品を造ったと考えて不思議ではない」と話す。
 日本ワイナリー協会(東京)と山梨県によると、日本のワイン造りを記録で確認できるのは、明治初期の1870年代に山梨の2人の青年が外国人の指導を受けて醸造に取り組んだのが最も古い。それ以前は不明という。
 小倉藩があった北九州市は10月、政府から生産農家が新規参入しやすくなるワイン特区の認定を受け、市も地元産ワインのブランド化を目指している。ワイン造りを目指す同市若松区の農家、藤田佳三(けいぞう)さん(37)は2年後に自前の醸造所でボトル詰めする計画。小倉藩のぶどう酒造りへの「情熱」と重ね合わせて、「400年の時を超え、北九州をワインの産地にしたい」と意気込んでいる。

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このことは以前からよく知られている処であり、このサイトでもご紹介している。最初の記事は9年も前の事だ。なんだかな~ 

    ■ 細川小倉藩版ボジョレー・ヌーヴォー  2007-11-08

     ■ 大分合同新聞から  2013-10-23

  

コメント (2)
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■4月30日・熊本日日新聞

2016-04-30 11:08:20 | 新聞
紙面(一部)を公開しています。
PDFファイルのため、パソコン、スマートフォンでご覧いただけます。

 4月30日紙面
【朝刊】
1面 http://kumanichi.com/pdf/20160430_001.pdf

社会面(1) http://kumanichi.com/pdf/20160430_002.pdf

社会面(2) http://kumanichi.com/pdf/20160430_003.pdf
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