ご厚誼をいただいている小倉藩葡萄酒研究会の小川研次氏から、論考「再考小倉藩葡萄酒」をお贈りいただいた。
私は葡萄酒そのものについては美味しくはたしなむものの、知識はなく門外漢である。
ただ、高祖母の実家・上田家の先祖の一族が日本で初めてといわれる「葡萄酒作り」に携わっていたということを知り、いろいろ調べてきた。
小川氏との出会いはこのことによってである。
過去の関係ブログ
・細川小倉藩版ボジョレー・ヌーヴォー 2007-11-08
・黄飯・鳥めし・ナンハン料理 2013-09-03
・大分合同新聞から 2013-10-23
・すでに知られていましたよ・・「忠利ワイン」 2016-11-02
今回の論考「再考小倉藩葡萄酒」は「再考」とあるように、以前「小倉藩葡萄酒」という小冊子が刊行されご恵贈いただいた。
新聞やメディアで騒がれ始め、熊本大学永青文庫研究センターが2018年4月創刊した「永青文庫研究」にに、後藤典子氏により『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』が発表されるに及んで、「小倉藩葡萄酒」は大いに知られることになった。
地元では原料のがらみの栽培が始まり、葡萄酒の復元なども始まって地域おこしの一助にもなっている。
今回の論考についても、後藤氏の論考とは論点を異にするが、ガラシャ夫人をはじめとする切支丹細川氏に対する、小川氏の熱い思いがあふれている。
8回ほどにわたりご紹介申し上げる。
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再考小倉藩葡萄酒 小倉藩葡萄酒研究会 小川研次
はじめに
小倉藩主細川忠利の命令による葡萄酒製造が行われていた。
細川家古文書により寛永四年(1627)から肥後国転封の年寛永九年(1632)までの
六年間の製造が確認された。(熊本大学永青文庫研究センター)
さて、本稿の目的は「なぜ忠利は葡萄酒を造ったのか」を再考することである。
熊本大学は葡萄酒を虚弱体質忠利の「御薬酒」と結論付けた。
(『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』後藤典子)
著者はこの発表のおよそ一年前に拙稿『小倉藩葡萄酒事情』においてキリスト
教の「ミサ用」とした。この相違についても考察してみよう。
一、 ミサ用葡萄酒
天正二十年(1592)、イエズス会の巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノは布
教拡大に伴うミサ用葡萄酒の不足を解消するために、ローマに質問書を送る。
「ミサ」とは、イエス・キリストの「最後の晩餐」に由来するカトリック教会
の「聖体の秘跡」の典礼である。「聖体」はキリストの肉と血を象徴するパン
と葡萄酒である。
「日本に於いて野性の葡萄蔓(エビカズラ)からできる葡萄酒でミサを捧げてよ
いでしょうか。この野生の葡萄蔓は粒はもっているが葉は小さくて、取れる葡
萄酒もやや弱いものです。それ故ポルトガルの葡萄酒を足さないと長期の保存
に耐えません。とはいえ、色、味、蔓はヨーロッパ産のと較べて遜色がある訳
ではありません。この葡萄酒でミサをすることが許されるでしょうか。あるい
はそうするのは少なくとも、船の到着が危ぶまれる時だけにした方がよいでし
ょうか。その際、野生の蔓の葡萄酒とポルトガル産の葡萄酒を分量を少なめに
して、混ぜ合わせてよいでしょうか。」
(「日本の倫理上の諸問題について」『中世思想原典集成』)
この質問書はイエズス会総長とローマ教皇に回答を求めたものだが、返書は六
年後の1598年に日本に届いた。
「ヨーロッパの葡萄酒がない間は、それを用いてミサをすることができます
。」(同上)
このことにより、日本製葡萄酒をミサ聖祭に使用が可能になったが、日本の在
来種による葡萄酒はアルコール度数が低いために、ポルトガル産を混ぜること
により長期保存に耐えることにした。
「野生の葡萄蔓」は当時、キリスト教布教活動の拠点であった九州の「蘡薁・
エビヅル」であり、東北地方の「ヤマブドウ」と異種である。
慶長五年(1600)、豊前国へ入封した細川忠興はキリシタンとして死んだ妻玉子
(洗礼名ガラシャ)のために毎年、命日に記念ミサを挙行した。
ガラシャを洗礼に導いたスペイン人司祭グレゴリオ・デ・セスペデスは没する
までの十一年間、小倉教会と中津教会の上長として献身的に尽くした。
また、慶長十三年(1608)にマカオで司祭に叙階された天正遣欧少年使節の伊東
マンショは小倉教会に勤め、セスペデスを支えた。
実は、マンショとワインに関する貴重な記録が残されている。これは当時、日
本に輸入されていたワインの姿を示唆し、小倉藩葡萄酒にも影響を与えたと考
えられる。
スペイン王(兼ポルトガル王)フェリペ二世のお抱え料理人フランシスコ・マル
ティネス・モンチーノの著書『Gastronomi ia Alicante Conduchos de
Navidad』(1585年)である。
1584年12月末、マドリードでフェリペ二世との謁見を終えた天正遣欧少年使節
の一行は、バレンシア州最南端の地アリカンテにいた。
『フォンディリョン:アリカンテのブドウ園から造られる年代ものの甘いワイン
は至福の喜びを与えてくれる。そして今、王子(使節)が試飲した時に「これが
様々な国でとても有名なアリカンテのワインですね!」と言った。』
「王子」は単数形で書かれているが、使節正使の伊東マンショと思われる。
さらにモンチーノは貴重な情報を伝えている。
「フォンディリョンの起源はヘレスの有名なワインのペドロ・ヒメネスと同じ
であり、カルロス一世(1500~1588)の兵士が造ったことに始まる。」
つまり、この時代にアリカンテとヘレスのワインが長い航海に耐えうる高品質
であったことを意味する。
現在のフォンディリョンは黒ブドウ「モナストレル=ムールヴェードル(仏)マタ
ロ(豪)」を遅摘し、糖分を凝縮させるために天日干しをした後に発酵させるの
だが、ソレラ・システムの大樽で八年以上熟成させる。酒精強化せずに酸化熟
成させたアリカンテの伝統的なビノ・ランシオ(酸化熟成ワイン)である。
「ペドロ・ヒメネスと同じ」とは、その独特な製法で、現在でも白ブドウ「ペ
ドロ・ヒメネス」を天日干しているヘレスの超甘口シェリーは有名だ。
現在、シェリーにも導入されているソレラ・システムの出現は十九世紀半ばと
される。(『シェリー、ポート、マデイラの本』明比淑子著)
当時のワインは酒精強化せずに、藁の上で干したり(ストローワイン)、吊るし
たりして干し葡萄の糖度を上げた高アルコール度数の甘口ワインだった。この
独特な製法はギリシア、イタリア、フランス、ポルトガルにも存在し、現在も
伝わる。