津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■再考小倉藩葡萄酒 (一)ミサ用葡萄酒

2021-03-20 06:57:54 | 小川研次氏論考

  ご厚誼をいただいている小倉藩葡萄酒研究会の小川研次氏から、論考「再考小倉藩葡萄酒」をお贈りいただいた。
私は葡萄酒そのものについては美味しくはたしなむものの、知識はなく門外漢である。
ただ、高祖母の実家・上田家の先祖の一族が日本で初めてといわれる「葡萄酒作り」に携わっていたということを知り、いろいろ調べてきた。
小川氏との出会いはこのことによってである。
         過去の関係ブログ
           ・細川小倉藩版ボジョレー・ヌーヴォー 2007-11-08
           ・黄飯・鳥めし・ナンハン料理 2013-09-03  
           ・大分合同新聞から 2013-10-23 
           ・すでに知られていましたよ・・「忠利ワイン」 2016-11-02

今回の論考「再考小倉藩葡萄酒」は「再考」とあるように、以前「小倉藩葡萄酒」という小冊子が刊行されご恵贈いただいた。
新聞やメディアで騒がれ始め、熊本大学永青文庫研究センターが2018年4月創刊した「永青文庫研究」にに、後藤典子氏により『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』が発表されるに及んで、「小倉藩葡萄酒」は大いに知られることになった。
地元では原料のがらみの栽培が始まり、葡萄酒の復元なども始まって地域おこしの一助にもなっている。
今回の論考についても、後藤氏の論考とは論点を異にするが、ガラシャ夫人をはじめとする切支丹細川氏に対する、小川氏の熱い思いがあふれている。
8回ほどにわたりご紹介申し上げる。

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         再考小倉藩葡萄酒          小倉藩葡萄酒研究会 小川研次

        はじめに
        小倉藩主細川忠利の命令による葡萄酒製造が行われていた。
        細川家古文書により寛永四年(1627)から肥後国転封の年寛永九年(1632)までの
        六年間の製造が確認された。(熊本大学永青文庫研究センター)
        さて、本稿の目的は「なぜ忠利は葡萄酒を造ったのか」を再考することである。
        熊本大学は葡萄酒を虚弱体質忠利の「御薬酒」と結論付けた。
                   (『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』後藤典子)
        著者はこの発表のおよそ一年前に拙稿『小倉藩葡萄酒事情』においてキリスト
        教の「ミサ用」とした。この相違についても考察してみよう。

        一、 ミサ用葡萄酒
        天正二十年(1592)、イエズス会の巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノは布
        教拡大に伴うミサ用葡萄酒の不足を解消するために、ローマに質問書を送る。
        「ミサ」とは、イエス・キリストの「最後の晩餐」に由来するカトリック教会
        の「聖体の秘跡」の典礼である。「聖体」はキリストの肉と血を象徴するパン
        と葡萄酒である。
        「日本に於いて野性の葡萄蔓(エビカズラ)からできる葡萄酒でミサを捧げてよ
        いでしょうか。この野生の葡萄蔓は粒はもっているが葉は小さくて、取れる葡
        萄酒もやや弱いものです。それ故ポルトガルの葡萄酒を足さないと長期の保存
        に耐えません。とはいえ、色、味、蔓はヨーロッパ産のと較べて遜色がある訳
        ではありません。この葡萄酒でミサをすることが許されるでしょうか。あるい
        はそうするのは少なくとも、船の到着が危ぶまれる時だけにした方がよいでし
        ょうか。その際、野生の蔓の葡萄酒とポルトガル産の葡萄酒を分量を少なめに
        して、混ぜ合わせてよいでしょうか。」
                (「日本の倫理上の諸問題について」『中世思想原典集成』)
        この質問書はイエズス会総長とローマ教皇に回答を求めたものだが、返書は六
        年後の1598年に日本に届いた。
        「ヨーロッパの葡萄酒がない間は、それを用いてミサをすることができます
        。」(同上)

        このことにより、日本製葡萄酒をミサ聖祭に使用が可能になったが、日本の在
        来種による葡萄酒はアルコール度数が低いために、ポルトガル産を混ぜること
        により長期保存に耐えることにした。
        「野生の葡萄蔓」は当時、キリスト教布教活動の拠点であった九州の「蘡薁・
        エビヅル」であり、東北地方の「ヤマブドウ」と異種である。
        慶長五年(1600)、豊前国へ入封した細川忠興はキリシタンとして死んだ妻玉子
        (洗礼名ガラシャ)のために毎年、命日に記念ミサを挙行した。
        ガラシャを洗礼に導いたスペイン人司祭グレゴリオ・デ・セスペデスは没する
        までの十一年間、小倉教会と中津教会の上長として献身的に尽くした。
        また、慶長十三年(1608)にマカオで司祭に叙階された天正遣欧少年使節の伊東
        マンショは小倉教会に勤め、セスペデスを支えた。
        実は、マンショとワインに関する貴重な記録が残されている。これは当時、日
        本に輸入されていたワインの姿を示唆し、小倉藩葡萄酒にも影響を与えたと考
        えられる。
        スペイン王(兼ポルトガル王)フェリペ二世のお抱え料理人フランシスコ・マル
        ティネス・モンチーノの著書『Gastronomi ia Alicante Conduchos de
        Navidad』(1585年)である。
        1584年12月末、マドリードでフェリペ二世との謁見を終えた天正遣欧少年使節
        の一行は、バレンシア州最南端の地アリカンテにいた。
        『フォンディリョン:アリカンテのブドウ園から造られる年代ものの甘いワイン
        は至福の喜びを与えてくれる。そして今、王子(使節)が試飲した時に「これが
        様々な国でとても有名なアリカンテのワインですね!」と言った。』
        「王子」は単数形で書かれているが、使節正使の伊東マンショと思われる。
        さらにモンチーノは貴重な情報を伝えている。
        「フォンディリョンの起源はヘレスの有名なワインのペドロ・ヒメネスと同じ
        であり、カルロス一世(1500~1588)の兵士が造ったことに始まる。」
        つまり、この時代にアリカンテとヘレスのワインが長い航海に耐えうる高品質
        であったことを意味する。
        現在のフォンディリョンは黒ブドウ「モナストレル=ムールヴェードル(仏)マタ
        ロ(豪)」を遅摘し、糖分を凝縮させるために天日干しをした後に発酵させるの
        だが、ソレラ・システムの大樽で八年以上熟成させる。酒精強化せずに酸化熟
        成させたアリカンテの伝統的なビノ・ランシオ(酸化熟成ワイン)である。

        「ペドロ・ヒメネスと同じ」とは、その独特な製法で、現在でも白ブドウ「ペ
        ドロ・ヒメネス」を天日干しているヘレスの超甘口シェリーは有名だ。
        現在、シェリーにも導入されているソレラ・システムの出現は十九世紀半ばと
        される。(『シェリー、ポート、マデイラの本』明比淑子著)
        当時のワインは酒精強化せずに、藁の上で干したり(ストローワイン)、吊るし
        たりして干し葡萄の糖度を上げた高アルコール度数の甘口ワインだった。この
        独特な製法はギリシア、イタリア、フランス、ポルトガルにも存在し、現在も
        伝わる。

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■小川研次氏論考「時枝平太夫」(十八)終焉の地・参考資料

2021-03-19 07:02:51 | 小川研次氏論考

十八、終焉の地

平太夫が亡くなる一年前の慶長十一年(一六〇六)に黒田藩に事件が起きる。
大隈城(益富城)の後藤又兵衛が突然出奔したのである。

「時枝中興の祖重記は黒田如水の招きにより一族郎党を引具し慶長五年黒田藩に列し同七年三千石領地被下同十一年嘉穂郡益富城主後藤又兵衛出奔後毛利但馬守(母利太兵衛)の居城たりし鞍手郡鷹取城を、その平太夫に賜はる其後長政公の御意に違ひ御勘気を蒙り閉門仰付黒崎に蟄居井上周防守に御預けとなり妻と下女刀持二人下僕三人召連れ候様仰付慶長十二年十月九日閉門のまゝ黒崎に病没現在の所に葬られたり。」(『八幡市舊蹟史』)

「長政公の御意に違ひ御勘気を蒙り」とあるが、具体的にその理由が明らかになる。福田千鶴著『後藤又兵衛』から一部引用させていただく。

「慶長十一年に後藤又兵衛が大隈城を出奔すると、長政はその跡に鷹取城を預けていた母利友信(太兵衛)を移し、鷹取城には時枝鎮継(重起とも)を置き、五千石を加増して一万石を与えようとした。(中略) 筑前入国にも従い、入国後は菅正利組に属して三千石を領した。鎮継はキリシタンであったため、長政は鎮継を鷹取城に移すにあたり棄教を命じたが、鎮継はこれを拒否した。そこで、知行召し上げとなり、黒田家家老の井上之房に預けられ、その知行黒崎に寓居し、数年して同地に没した。」

典拠は先述の貞享元年(一六八四)に完成した「庄野先祖之覚 貞享元年記」である。
時枝氏の麾下にあった宇佐宮社人庄野半大夫正直は平太夫鎮継とともに筑前国へ入った。

「御國ニても半大夫殿ハ平大夫どの家来ニて御座候、平大夫殿御知行五千石ニて候、其節後藤又兵衛殿大熊之城御明、他国之時、鷹取城代毛利但馬どの大隈ニ被遣、其跡ニ平大夫殿五千石之加増壱万石ニて、永満寺鷹取之城御預可被成と長政公被仰渡、其頃何も切支丹之宗門はやり、平大夫殿も切支丹ニて候間、彼宗門ころひ候へと被仰付候へ共、達て御理り被申候、左候ハゝ加勢も候や、此方知行不入ものとの御意ニて御取上、井上道柏ニ御預、黒崎ニ居申、無念ニ被存候か、気之病ニて果被申候、」(『福岡藩庄野家の由緒』)

ここにきて、「時枝平太夫鎮継」はキリシタンであったというルイス・フロイスの報告と整合性を見るのである。
平太夫の知行は三千石(「慶長分限帳」)だが、ここでは五千石と表示している。
さて、当時、長政は先述の通りキリシタンに理解を示していたが、家老級にキリシタンが居ることが許せなかったのか。
実は長政は父如水の葬儀をキリスト教式だけでなく、仏式の葬儀も挙げている。

「然し不思議な振舞いがあったというのは自らキリシタンの名乗りをあげて、その家来たちには改宗を勧めておきながら、同時に彼は仏僧を招いて父のために供養させたことであった。(中略) この確固たる信念の欠如が致命的な結果を生むことになった。彼はいつしかキリシタンに対して冷淡になり、同時に仏教徒を庇護するようになった。」(『キリシタン大名』ミカエル・シュタインシェン)

この仏式による葬儀は「マトス神父の回想録」によると「その後(教会での葬儀)、二十日ばかり後、筑前殿(長政)は父のために異教徒の方式の葬儀を行なった。とういうのは、彼が背教者であり、それを天下(幕府)に対して表したく、一方、彼はかほど主要なら国の領主であって、その葬儀を極めて盛大におこなわなければならなかったからである。」

稀代の英雄如水の葬儀にどれだけ弔問客が来るか、想像できるだろう。それはキリシタンだけでなく、多くは仏教徒である。長政は父の遺言に従い、先ずキリスト教式で葬儀を挙行したのである。「背教者」の顔を見せるのは、禁教令以降である。

さて、鎮継は棄教をしなかった理由により、黒崎城の井上周防守(道柏)に預けられ、鳴水村に蟄居したという。
しかし、この城代話は美談ではあるが、又兵衛出奔からの翌年、鎮継は静かに息を引き取った。失意の中「気之病」で亡くなったとあるが、棄教しなかった信念のある人物の姿ではない。
慶長十二年(一六〇七)三月に亡くなった妻を追いかけるように十月に鎮継は逝った。この年に流行した麻疹の罹患による死も疑う必要がある。(『日本疾病史』)

著者は鎮継は高齢と病を理由に黒崎の地に隠居したと考え、キリシタン故の蟄居は後年に書かれたものとし、禁教令以前の長政のキリシタンへの理解を信じたい。
鎮継の終の住処は先述の「殿屋敷」であり、蟄居とは考えにくい。

イエズス会の「一六〇六、一六〇七年日本の諸事」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)に鎮継と思われる人物の記述がある。

「(筑前国の)領主の代官のようなある古いキリシタンを主要な道具となされた。彼は、しばらくの間デウス(神)の諸事にはひどく冷淡であったが、天から病に襲われて、己についてよく認識し、大いに改心し、自分が世話しているそれらのすべての領民に対するキリストの説教者となることによって、過去の悪しき模範の償いをすることに決めた。」

かつて僧官家だった鎮継が、信仰から離れていたが、如水の死により敬虔なるキリシタンに立ち返ったとも思える。
病身になった鎮継は少ない余生を如水との回想記憶とともに静かに信仰の中に生きようとしたのではなかろうか。

二〇〇五年、北九州市芸術振興財団埋蔵文化財調査室により黒崎城跡(田町二丁目)にてメダイ一点が発見された。

「これは黒崎の地にキリスト教が浸透していたことを示す初の資料である。」(『黒崎城跡3』北九州市埋蔵文化財調査報告書第375集)

長さ2.80cm、最大幅2.16cmのメダイの片面にはイエス・キリストの半身像、もう片面には聖母マリアの半身像が鋳だされている。 

鎮継は終焉の地に黒崎を自ら望んだのであろうか。郷里宇佐の土を二度と踏むことのなかった鎮継は妻とともに北九州市の地に静かに眠っている。

「時枝平太夫」の供養塔に手をあわせると寂寥たる思いが胸に溢れてきた。

                         (了)

参考資料

「佐田文書」『熊本県史料、中世篇第二』熊本県、一九六二年
「小山田文書」『大分縣史料』第一部(7)、宇佐八幡宮文書ニ諸家文書、大分県史料刊行会、大分県教育部研究所、一九五三年
「宮成文書」『宇佐神宮史』
「到津文書」『大分縣史料』第一部(24)、一九五三年
『大分県史料』33 第二部補遣五、大分県教委員会編、大分県中世文書研究会、一九八〇年
『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、一九九六年
『戦国期の豊前国における宇佐郡衆在地領主について』
小野精一『大宇佐郡史論』宇佐郡史談会、一九三一年
『大分郷土史料集成戦記篇』垣本言雄校訂、大分県郷土史料刊行会、一九三六年
『宇佐神宮史史料篇十四』宇佐神宮庁、二〇〇二年
ルイス・フロイス『日本史』松田毅一、川崎桃太訳、中央公論社、一九八九年
ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史1』中央公論新社、二〇〇〇年
吉永正春『九州のキリシタン大名』海鳥社、二〇〇四年
上妻博之編著『肥後切支丹史』エルピス、一九八九年
長野悠『豊前長野氏史話』今井書店、二〇一〇年
貝原益軒『改訂黒田家譜』第一巻、文献出版、一九八三年
貝原益軒『筑前国続風土記』第三巻、一七〇九年
渡辺重春『豊前志』二豊文献刊行会、一九三一年
苅田町ホームページ
『萩藩閥閲録』第一巻、山口県文書館、一九六七年
小和田哲男『黒田如水』ミネルヴァ書房、二〇一二年
朴哲著、谷口智子訳『グレゴリオ・デ・セスペデス』春風社、二〇一三年
『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第一期第四巻、松田毅一監訳、同朋舎、一九八八年
『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第一期第五巻、松田毅一監訳、同朋舎、
一九八八年
『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第二期第一巻、松田毅一監訳、同朋舎、
一九九〇年
キリシタン文化研究会編『キリシタン研究』第二十四輯、吉川弘文館、一九八四年
『松井文庫所蔵古文書調査報告書三』
上妻博之著、花岡興輝校訂『肥後切支丹史』エルビス、一九八九年
レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』吉田小五郎訳、岩波文庫、一九三八年
『キリシタン研究』第二十四輯、キリシタン文化研究会、吉川弘文館、一九八四年
『福岡藩分限帳集成』海鳥社、一九九九年
『黒田三藩分限帳』福岡地方史談話会、一九七八年
加藤一純『筑前国続風土記附録』文献出版、一九七七年
上野例蔵『八幡市舊蹟史』一九三六年
福田千鶴『後藤又兵衛』中央公論社、二〇一六年
『綿考輯録』出水神社発行、汲古書院発売、一九八九年
『RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌』
『戦国期の豊前国における宇佐郡衆在地領主について』
ミカエル・シュタイシェン『キリシタン大名』吉田小五郎訳、乾元社、一九五二年
フーベルト・チースリク『秋月のキリシタン』高祖敏明監修、教文館、2000年
福田千鶴『福岡藩士時枝氏の先祖墓参りー「遠賀紀行」を読む(1)―』九州産業大学国際文化学部紀要 第52号、二〇一二年
福田千鶴『福岡藩士時枝氏の先祖由緒地巡りー「遠賀紀行を読む」―』九州産業大学国際文化学部紀要 第54号、二〇一三年
福田千鶴『福岡藩士庄野家の由緒』九州産業大学国際文化学部紀要 第49号、二〇一一年
『郷土八幡』第4号、八幡郷土史界、二〇一四年
外園豊基『戦国期在地社会の研究』校倉書房、二〇〇三年
山根一史『戦国期の豊前国における宇佐郡衆在地領主について』
『キリシタン墓地調査報告書』熊本県天草市五和町御領所在の近世墓調査報告書、天草市観光文化部文化課、天草市立天草キリシタン館、二〇一九年
『鳴水・古屋敷遺跡』北九州市埋蔵文化財調査報告書第108集、財団法人北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室、1991年
『黒崎城跡3』北九州市埋蔵文化財調査報告書第375集、財団法人北九州市芸術文化振興財団埋蔵物文化財調査室、2007年
竹中岩夫『黒崎の成り立ち』八幡郷土史会、2004年
『日本国語大辞典』小学館、2001年
富士川遊『日本疾病史』平凡社、1969年
宮崎克則・福岡アーカイブ研究会編『古地図の中の福岡・博多』海鳥社、2005年
『角川日本地名大辞典』角川書店、1988年

 

 今回をもちまして小川研次氏論考「時枝平太夫」は完了いたしました。
次回からは同じく小川氏の「再考小倉藩葡萄酒」をご紹介します。

 

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■小川研次氏論考「時枝平太夫」(十六)子孫・(十七)キリシタン墓

2021-03-18 08:30:38 | 小川研次氏論考

十六、子孫

著者は一人の人物に注目する。寛保二年(一七四二)の黒崎代官「時枝次右衛門」である。 ちなみに同年、常春とされる「時枝長大夫」は粕屋郡代であった。(黒)
名からして、跡継ぎのいない平太夫鎮継没後、長政に四百石で召し出された弟次右衛門の系列とみる。(「元和分限帳」)
代官次右衛門は当然、黒崎にて平太夫夫妻の墓所のことを知り得たと思われる。
常春訪問の三十年以上前に次右衛門は先祖の墓について調べていたのではなかろうか。
常春の記録にも「近年古敷書付出、云伝へと云符合しければ、常春公今度庿参し給ひ、御塔所いさぎよく修補致し給へば、御霊益あらたならん、」(「遠賀紀行」)とあり、先祖について調べていた。

次右衛門は代官時代には墓所に行き、手入れをしていたが、任を解かれ黒崎から離れること三十年近くなった。そこで隠居後に再訪することにしたと推測すれば、常春は「時枝次右衛門」であったとも考えられる。 

しかし、現在の供養塔は常春とは同族別系の時枝家による建碑とみられる。
時枝重記供養塔は重記(鎮継)を祖として八代目の清七鎮安による。正面の戒名「松嶽院殿御霊前」の裏面に「文化三年(一八〇六)寅十月九日依于 二百年回重記公八代之嫡孫時枝清七鎮安建之」とあり、清七鎮安が二百回忌の折に建碑したものである。この時に戒名を刻んだとみられる。この供養塔は灯篭型式である。平太夫の「宇佐宮弥勒寺」を意識したのだろうか。
また、左面に「安政三年辰十月九日依于弍百五十年回九代子孫時枝中鎮遠祭之」とあり、安政三年(一八五六)に九代目の中鎮遠が二五〇回忌を記念して彫ったものである。
傍に平太夫の妻の「寿春妙永信女」と彫られた墓碑があるが、命日の横に「安政三年辰三月廿日依于弍百五十回九代孫時枝中鎮遠修之」と刻まれている。
つまり、同じく九代目の中鎮遠が既存の墓碑を補修したということである。
鎮安と鎮遠は父子と考えられる。

八代目清七鎮安は「文化分限帳」(一八〇四〜一八)「百三拾石 中庄 時枝中」とみられ、「天保分限帳」(一八三〇~四四)に「百三拾石 時枝中武兵太」とあるが、鎮安と同一人物と思われる。
九代目鎮遠は「安政分限帳」(一八五四~六〇)「百三拾石 中庄 時枝中」とある。「中庄」は現在の今泉・薬院一〜二丁目辺りである。(『福岡藩分限帳集成』)
また、「明治初年分限帳」(一八六八〜七〇)に「百三拾石 時枝清七郎鎮撫」とあり祖父の「清七」を継いでいることから、十代目と目される。

慶應元年(一八六五)に起きた「乙丑の獄(いっちゅうのごく)」で、主犯格の筑前勤王党の加藤司書らが、処刑された事件であるが、この時、藩主長溥(ながひろ)から調査を命じられた目付の中に「時枝中」の名があり、九代目の鎮遠であると考えられる。(黒)

一方、弥勒寺寺務の時枝家は時枝重明(一八三七~一九一二)が継いだが、明治二年(一八六九)の神仏分離令により廃絶となった。同九年に宇佐神宮の権禰宜となり、十九年に退職、二十二年に初代宇佐町長を務めた。実兄は国学者の奥並継(一八二四~一八九四)である。(『大分県歴史人物事典』)


十七、キリシタン墓

墓碑の話に戻るが、上述の通り「時枝平太夫」の墓は存在しないのである。
実は著者はもう一つの疑問を持っている。それは、平太夫の妻の戒名である。
夫婦ともにキリシタンであった。幕府による禁教令は一六一二年と一六一四年である。敢えて仏式の戒名を入れる必要はないのである。洗礼名や姓名である。そしてクルス(十字架)である。
妻の墓碑も建て替えられた又は手を入れられた可能性はある。元はこのような加工された石材ではなく、平太夫と同じ「自然石」だった。先述の「遠賀紀行」にも「御塔銘わからざれば」とあり、妻の戒名も後年に刻まれたものである。
九代目鎮遠が「修之」時に現在の形にした可能性はある。

キリシタンとして逝った平太夫夫婦のキリシタン墓は間違いなく存在していたはずだ。当時のキリシタン葬は「伸展葬」で長墓であった。形状は伏碑である。(写真参照、大分県臼杵市のキリシタン墓)
しかし、禁教令以降は幕府は「座棺」で戒名のある立碑を義務付けた。(『キリシタン墓地調査報告書』)
やがて、禁教令により弾圧から保護するために、村人(キリシタン)たちが埋めた可能性がある。
そして無銘の自然石を建て、「村民様」と呼び、密かにキリシタン柱石の平太夫に祈りを捧げていたのではなかろうか。しかし現在、当時の自然石墓碑さえも見ることができない。
しかし、鎮継夫婦が眠る貴船神社の裏山「葉山」を望む供養塔は彼らを静かに見守っている。

大分県臼杵市掻懐(かきざき)のキリシタン墓

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■小川研次氏論考「時枝平太夫」(十四)平太夫墓の謎・(十五)供養塔

2021-03-17 07:21:48 | 小川研次氏論考

十四、平太夫墓の謎

福岡県北九州市八幡西区東鳴水五丁目三番に鎮座する貴船神社に「時枝平太夫」とその妻の墓が伝わる。
「時枝重記(しげのり) 慶長十二年十月九日」とあり一六〇七年に没している。筑前国に入ってわずか七年である。また如水の死から三年後である。
「重記」とあるが、「鎮継」と同一人物であろうか。
まず、この墓については検証を要する。それは不可解な点があるからだ。

寛政十年(一七九五)頃に福岡藩士加藤一純、鷹取周成により編まれた『筑前国続風土記附録』の「鳴水村」の条に「村中貴船社の後林の中に古き墓あり。里民時枝重記か墓といふ。長政公に仕へし時枝平太夫なるへし。傍に其妻の墓もあり。」と記されていて、明らかに夫婦の墓碑二基存在していた。

「鳴水村」だが、一九九〇年、北九州市による「鳴水・古屋敷遺跡」の発掘調査が行われた。貴船神社に隣接する東鳴水四丁目一〜三番に位置し、河頭山(ごうとうやま、標高二一三m)の西側山裾部にあたる。長崎街道以前に「古道」という幹線路が通っていたという。(『黒崎の成り立ち』)

「堀立柱建物跡や井戸などの生活遺構とともに、輸入陶磁器、龍泉窯の青磁椀などが副葬された土壙墓など数基検出されており、(略) 中世においてこの台地一帯に多くの人々が生活を営んでいたものと思われる。」(『鳴水・古屋敷遺跡』)

この一帯に平太夫は住んでいたと考えられる。

安永四年(一七七五)四月四日、平太夫の子孫時枝常春が鳴水村の平太夫住居跡と墓所を訪ねていた。

「住居の所今もいちじるしく、村民は殿屋敷と云、山の北の方也、門有し所を木戸と云、内畠と成、二、三反程有」(「遠賀紀行」『福岡藩士時枝氏の先祖墓参り』福田千鶴)

「山の北」は河頭山の北側で「殿屋敷」はのちに「古屋敷」と呼ばれることになったと考えられるが、かなり大きな屋敷である。常春が見たのは屋敷跡の畠であった。また、平太夫の墓所の具体的な記録が残されている。

「御塔所は村(鳴水)より三町程行、小高き山に貴船の社有、其上平なる所に石垣築廻し自然石の塔有、村民殿の墓と云伝へ尊敬す、御塔の石垣の内より松一本生出、今は大木と成る。(中略) 北の方弍間程隔て塔有、是は御室の墓也」(同上)

昭和十一年(一九三六)に発行された上野例蔵著『八幡市舊蹟史』(きゅうせきし)に「時枝重記夫婦の墓 字葉山(貴船社の裏大
松の下)にあり」と記され、「石碑二個あり、一ニ時枝重記 慶長十二年十月九日 一ニ時枝重記室 慶長十二年三月二十日」
「其側に松嶽院殿御霊前とあり安政三年(一八五六)辰十月九日依て二百五十年回九代の孫時枝中鎮遠祭之と云ふ碑あり」とある。

これらの墓碑は貴船神社の裏手にある「葉山」の大きな松の木の下にあったという。この「葉山」は「山なみの中で、人里近い低山。端近い小山」の意である。『日本国語大辞典』)
『八幡市舊蹟史』の「石碑二個」は夫婦の名前が彫られた自然石とその傍の妻の「戒名」のある石碑とも考えられる。それは、「其側」にある碑と合わせると三基になり、かつては夫婦二基だったのが、現在の三基と一致するからだ。
この三基の石碑は現在の位置に移されたのは、ここ十数年間のことである。
つまり、私たちは原風景ではなく二次的な風景を見ているのである。


手前「説明文」から見る平太夫(右)と妻の供養塔(貴船神社)


十五、供養塔

三基の石碑を分析してみよう。
まず、自然石に彫られた文は二基の古墓を説明している。

「古墳二 南 時枝重記 慶長十二年十月九日卒 北 同室 同年三月二〇日 安永末初夏日彫之」

安永末とは(一七八一年)である。重記夫婦が没してから一七〇年以上経っているが、この碑文により「平太夫」が「重記」と知ることができる。

二基の古墓は南側に重記と北側に妻の墓を指している。墓が西向きだったと考えられる。妻の命日は奇しくも如水と同じ三月二〇日である。

この石碑は時枝重記子孫時枝常春が祖先の地を訪ねた折、鳴水に在る重記等を祭る墓所を参拝し建碑したものである。

「石屋吉郎兵衛召連、鳴水村へ行、御塔銘わからざればいかがせんと評議す。幸に御塔脇に縦横三尺斗の石有、此石に彫付べしとて決断し給ひ、黒崎旅宿へ帰り、石に彫付文字常春公書給ふ、」(「遠賀紀行」)

これが現在に伝わる「説明文」の石碑である。安永四年(一七七五)四月八日、石屋弟子宇兵衛の手によるが、(同上) 「安永末」と刻んだ。

この段階で既に「銘」が不明なのである。つまり、無銘の自然石が二基建っていたことになる。常春は戒名ではなく、俗名「重記」を記したのである。
この根拠は不明だが、『黒田三藩分限帳』に「重起」とあるが、誤字なのか。
また、奇妙なことに「武蔵守の時、秀吉公九州下向の節、速に従ひければ、黒田孝高公の与力にせらる、武蔵守は翌年致仕し給ひ、平大夫重記、孝高公・長政公に従ひ、日本・朝鮮にて武名を顕わし、高禄を得て福岡に来り仕へり、誠に当家中興なり」(「遠賀紀行」)とあり、天正十六年(一五八八)に武蔵守鎮継は隠居し、「重記」が文禄の役に参戦したとある。つまり鎮継と重記は別人としているのである。常春の系図に「重記」があったのだろうか。
しかし、先出の「時枝平大夫鎮継と申時枝城之城主」とする「庄野先祖之覚 貞享元年記」(一六八四年)は「遠賀紀行」(一七七五年)に百年近く先行し、また「黒田家譜」や「宇佐神宮史」により、鎮継は「重記」と同一人物と見るべきであろう。

「遠賀紀行」を収集した元福岡藩士の長野誠(一八〇七~一八九一)によると常春は時枝長大夫重政の老号とし、その養子を「平大夫重直」と考察している。
この一族は「長」の通名が特徴であるが、「明治初年分限帳」(一八六八〜七〇)の「二百十石 時枝長十郎 荒戸三番丁」とあり、後述する「時枝家」とは同族別系であると考えられる。

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■小川研次氏論考「時枝平太夫」(十三)如水追悼記念聖堂

2021-03-16 09:40:27 | 小川研次氏論考

十三、如水追悼記念聖堂

「(如水の遺体は)博多の町の郊外にあったキリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬した」(前出「マトス神父の回想録」)

さて、如水の遺体はどこに埋葬されたのであろうか。それは長政が遺言通りに追悼記念聖堂を建立した場所である。
一六〇五年には博多に新しく教会(如水追悼記念聖堂)が建てられた。

「彼(長政)の父が自分の埋葬場所として彼に委ねていたので、殿の許可を得て美しい教会が建てられ、博多にある最も見事な寺院となった。」(『1605年日本の諸事』『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)

既に五千人のキリシタンがいたが、この年に新たに六百人が受洗した。翌年の一六〇六年には、如水の三回忌にあたる記念追悼ミサが挙行された。

「長崎から準管区長フランシスコ・パシオ神父が多数の神父と修道士を連れて、我らの教会堂において如水の葬祭を行うために来た。これに筑前国殿(長政)およびその国の大身はみな参列した。(中略) 殿は我らの家で食事をし、また城内での食事に我ら一同を招待した。」(「マトス神父の回想録」)

さらに、準管区長一行は小倉に向かう。
「博多から準管区長神父は越中殿(細川忠興)の妻であった夫人の追悼式のため、小倉へ行った。その時、筑前殿は自分の厩舎から同宿やイルマンたちのため馬と乗物を芦屋まで提供し、そこからみんな船で小倉へ行った。」(同上)

ガラシャの七回忌に当たる。長政のキリシタンへの寛容なる姿勢が伝わる。

平太夫鎮継は「重だった家臣」「大身」として葬儀や記念祭追悼ミサに参列したのは容易に想像できる。また如水との絆が深かった鎮継の悲しみも察することができる。

貝原益軒『筑前国続風土記』(一七〇九年)に勝立寺に関する記述がある。

「慶長八年(一六〇三)四月二十五日、博多妙典寺において、日忠と耶蘇の僧いるまん(修道士)と、宗旨の優劣を論じ、問答に及び、日忠あらそい勝ける故、長政公感じたまい、耶蘇が居たりし寺地を給わり、此所に梵刹を建させ、宗論勝て立たる寺なればとて、勝立寺と號を給りける。」

日蓮宗妙典寺(博多区中呉服町9-1)にて、日蓮宗の僧とキリスト教の修道士が論争した「石城問答」(せきじょうもんどう)である。「石城」は博多のことで、生の松原の元寇防塁にちなむ。
日忠は勝利し、キリシタン寺の土地を譲渡されたとあるが、一六〇三年は如水も生存しており、また長政も家康に気を遣いながらもキリスト教に協力的であったので矛盾している。

日蓮宗勝立寺(中央区天神四丁目1-5)は、須崎に近く、那珂川河口の左岸に位置する。かつて博多から中島橋を渡った所の橋口町である。この付近は、延宝二年(一六七四)には藩の獄屋ができ、牢屋町と称された。また、後の宗門改の寺となる。(『角川日本地名大辞典』)

さて、「マトス神父の回想録」によると「博多の町郊外」とは、那珂川左岸の福岡側を指している。(当時は右岸側は博多町、左岸の城下町は福岡)(『古地図の中の福岡・博多』) つまり、居住している博多側から見ているのである。
一六〇四年頃は、須崎浜の「松林」もあったと推測できる。
このことから、如水追悼記念聖堂である教会は勝立寺の地にあったと考えられる。

一六一二年の禁教令に対し、長政は「天下の主(将軍)に自らの正当性を主張できることを望んでいたので、彼の最も親しい家来たちに信仰を棄てるように命じた。しかし、これが彼の意図でないことを示すために、信仰に特に熱心な数名の者だけに命令し、他の者には苦難を与えず、比較的身分の低い者や農民たちにはいっそう苦しめはしなかった。」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)と上級家臣だけに棄教を命じている。

また、長政は司祭にキリシタン家臣の名簿を作成するように依頼したが、拒否されている。「殿は名簿に記されている数人を困らせるつもりはなく、数人を隠しておくよりは、(名簿を作って)何千人ものキリシタンを救うほうがよいではないか」と言われたが、再度拒否された。(同)

長政はキリシタン保護の姿勢を崩さなかったが、ついに幕府に知れることになる。

「今年、彼が国王の政庁へ参勤した際に、国の支配者たちは、教会を破壊して神父たちを領内から追放しなければ罰すると彼を威嚇した。そこで、彼は国へ帰ってくると、たいそう丁重に神父にこのことを知らせ、神父が修道士たちや説教者たちとともに長崎へ行くように指示した。管区長神父には、自分としては他に方法がなかったことでもあるので、今回の措置をゆるしてもらいたい、また、神父たちにはキリシタンを世話するために、都合のよい時には、いつでも自由に来て差し支えないと述べた。」(「一六一三年度の日本諸事」同)

長政がやむなく教会の破却を命じた。先述の勝立寺の寺地は教会破却後の一六一三年以降に譲渡されたと見る。
その時、如水の遺体はどうしたのだろう。
一六〇六年、長政は父の菩提寺として京都大徳寺塔頭として龍光院を建立し、如水の墓碑を建てた。そして教会破却後に遺体(遺骨)を移したのであろうか。分骨も考えられるが。
また、崇福寺(博多区千代)にも墓所を設けたが、一九五〇年の発掘調査により「空っぽ」と判明した。(四月十八日付朝日新聞夕刊)
キリシタンとして逝った父の御霊救済にはキリスト教式でなければならないことは、かつて洗礼を受けた長政は理解していたに違いない。

しかし、敬虔なキリシタンは信仰の灯火を消さなかった。 元和三年(一六一七)八月二十六日の「イエズス会士コーロス徴収文書」に署名したキリシタンは筑前国のコンフラリア(信徒組織)の組頭として三十九名もいた。(『近世初期日本関係南蛮史料の研究』) 
中には、末次家の「末次惣右衛門トメイ」、末次興善(コスメ)の養子とされる「末次善入ドミンゴ」や神屋宗湛の身内と思われる「神屋肥後右衛門バルタサル」の名もある。
崇福寺の黒田如水の墓

 

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■小川研次氏論考「時枝平太夫」(十一)筑前国・(十二)如水の死

2021-03-15 06:56:29 | 小川研次氏論考

十一、筑前国

如水軍は薩摩の島津討伐のために九州を南下したが、徳川家康と島津義久との和議により停戦となり、軍を引き上げた。隠居の身でありながら、ほぼ九州を押さえた如水の戦いは、まさに九州の関ヶ原の戦いであった。

慶長五年(一六〇〇)末、五十二万石の筑前国転封を受けた長政と共に名島へ移る。

「甲斐守(長政)は、豊前と引き換えに、それよりも大なる筑前を拝領した。この領内には、千人以上のキリシタンを数える博多やその付近で同じく多数の信者のいる村々があった。甲斐守の家臣は、その大部分がまたキリシタンであり、自らは備前中納言(宇喜多秀家)の従弟で有徳のドン・ヨハネ明石掃部と、その家臣三百人、ドン・シメオン・フィンデナリ(毛利秀包)の子フランシスコと久留米のキリシタン武士の大部分を家臣に加えた。」(一六〇一年『日本切支丹宗門史』)

大大名となった黒田家は多くの家臣を必要とした。「明石掃部」の「家臣三百人」はかなり誇張されているが、掃部と家臣は一二五〇石を受けている。(『福岡藩分限帳集成』) 秀包(ひでかね)の子フランシスコは元鎮(もとしげ)だが、長州藩に仕えた。

時枝平太夫鎮継は宇佐の時枝城に居たが、黒田家に従することになる。三千石の大身となった。(「慶長分限帳」『福岡藩分限帳集成』)
「慶長年中士中寺社知行書附」にも「三千石 時枝平太夫重起」とある。(『黒田三藩分限帳』)

筑前国転封直前の十二月十日、平太夫は吉田又助と共に築城郡の「築城郡高物成目録」を作成していた。(『戦国期在地社会の研究』外園豊基)(長谷雄文書十四号『大分県史料』10) 
又助は長政が宇都宮鎮房を謀殺する際に、中津城で鎮房に酌をすすめる命を受けていた。父は黒田二十四騎の吉田長利である。

「時枝重明系図」に「是歳、時枝鎮継、黒田家と共に筑前に移る」とあり、「同十五年秀吉公九州御征伐之時黒田家ニ属シ、於所々軍労有之故ニ、同家移筑前ニ時、尚又随従終ニ不帰」(『宇佐神宮史』)とある。「隆令、実宮成大宮司公建宿袮二男也、鎮継移住筑前之後、有故当家相続」とあるが、先述の通り、隆令は鎮継筑前移住前に相続していた。
鎮継は二度と郷里宇佐の地を踏むことはなかった。


十二、如水の死

慶長九年(一六〇四)三月二十日、如水は没した。

『黒田家譜』では、「三月如水福岡にて病に臥せり。(中略) 医療驗(いりょうしるし)なくして終に三月二十日辰の刻に身まかり給う。」そして、「那珂郡十里松の内崇福寺に葬る。」とある。しかし、イエズス会の司祭により、史実が明らかになる。

「シメアン官兵衛殿は都の伏見の政庁で亡くなった。息子に自身の遺体を博多の教会に埋葬するようにと頼み、教会の建築のために一千クルザード以上の喜捨を残した。」(「1603,1604年日本の諸事」『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)

キリシタンとして逝った如水の長政への遺言である。そして長政はその通りに実行した。また、父の死後、「この嗣子は別人に変貌し」(同) キリシタンに理解を示したのである。「家来たちは誰でも望む者は、それを信仰してよろしい」(同)
長政は家臣らの信仰を許したのだが、この姿勢は徳川幕府による禁教令が発令される一六一二年まで続くことになる。

伏見の藩邸で没した如水の遺体は博多の司祭館に運ばれ、「葬式は、いとも厳粛に執行はれ、一家全部と共に其席に連なっていた甲斐守(長政)は、心の底から感激した。」(『日本切支丹宗門史』)
この葬式に参加したイエズス会の司祭ガブリエル・デ・マトスが詳細に伝えている。

「彼の遺体が上(京都)から博多に到着した時、いったん我らの所に安置され、そして僅か数日の間に極めて綺麗に装飾の施された龕(がん)、すなわち彼を納めた小さな葬台(棺)が出来上がった。それで四月のある夜の十時と十一時の間、我らは彼を、博多の町の郊外にあったキリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬した。葬列の時、彼の嫡男筑前殿(長政)およびその領国の重だった家臣が彼の遺体に付き添い、年寄衆、諸城の城番が龕を担い、彼の弟で真の立派なキリシタンであった惣右衛門(直之)が十字架をかかげ、その一人の息子左平次殿(直基)と町の支配人宗也(徳永宗也)の孫で高木彦左衛門の息子とが松明を持ち、ペロ(ペドロ)・ラモン神父と私はカッパ(祭服)を着て、修道士ニコラオ(永原)と同宿たちはソブレリチェス(短白衣)を着ていた。」(「マトス神父の回想録」『キリシタン研究』第二十四輯)

では、「我らの所」はどこだろう。

筑前国転封後、長政はキリシタンの父如水や叔父黒田直之のために、司祭館の土地を寄進していた。

「(長政は)博多の同じ市内に彼らの居住する修道院と教会を作るためにすこぶる良く、便利な地所を司祭たちに与えた。実際には、司祭たちは都、大阪、長崎以外に住んではならぬ、またキリシタンをこれ以上新たに増やしてはならぬ、と内府様(家康)が禁じていたので、甲斐守は条件を一つつけた。それは、司祭たちは、宗教的な僧院の外観を呈するような教会や修道院を建ててはならず、その市(まち)の名望ある市民の家屋かなにかのようにすること。」(「1601,1602年日本の諸事」『イエズス会日本報告集』)

長政は用心深く、修道院を建てることを条件に許可した。この修道院は司祭らが生活するための司祭館である。
また、如水は「司祭たちのために与えられた地所を没収されないように、蔵(倉庫)と呼ばれる家屋を一棟」(同) 自身の名義にして寄贈している。

しかし、一六〇一年にそこを訪れたマトスによると「彼(ラモン神父)に、浜の近く、かなり不便な狭い地所を与えられた。」(「マトス神父の回想録」) とあり、重要な情報である。

三年後の一六〇四年には「(筑前国)に司祭二名と修道士二名が居住している。そのうちの二人は通常、博多の市(まち)、そこにある修道院と教会にいる。他の二人は秋月に常駐している」(「1603,1604年日本の諸事」)

「秋月」にいた司祭はマトスである。この地にはキリシタン黒田直之の庇護の元に多くのキリシタンが生まれた。さて、この博多の「修道院と教会」が如水の遺体が最初に運ばれた「我らの所」である。

平成十年、奈良屋町の博多小学校建設に伴い、発掘調査が行われた。
キリスト教布教の痕跡としてメダイ二個とメダイとクルス(十字架)を作るための土製鋳型が見つかった。
ここは豪商神屋宗湛の屋敷跡である。秀吉が招かれたという。敷地内に建てた秀吉を祀る豊国神社は今も伝わる。
では、何故、この地にキリシタン遺物があったのだろうか。
一人の人物が浮かぶ。

永禄八年(一五六五)、修道士ルイス・デ・アルメイダが堺の日比屋了珪邸に身を寄せていた時の記述に「その翌日の九時にディオゴ了珪は、私と一人の日本人修道士、さらにもう一人コスメ・コウゼンの許へ使者を寄こしました。このコスメという人は日本で何かにつけ我らのことを世話してくれる、金持で非常に善良なキリシタンであります。」(『完訳フロイス日本史1』) とある。

また、一五八二年のイエズス会総長宛のフロイスの書簡に記されている。

「同領内(秋月)に古きキリシタンが二人あった。一人は父でコスメといい、またその子はジャコべ(ヤコブ)と称した。両人ともコンパニア(イエズス会)の親友で富裕なる商人であるため、殿(秋月種実)は彼らを尊敬していた。」(『イエズス会日本年報(上)』)

「コスメ・コウゼン」は博多の末次興善である。敬虔なキリシタンであり、博多教会の最大のスポンサーであった。のちに次男平蔵政直とともに長崎へ進出し、南蛮貿易で莫大な財産を築き、今に興善町の名を残す。
博多での商いを継いだ長男与三郎広正も洗礼名ヤコブを持つキリシタンであった。この末次家の屋敷は市小路町中番西側にあり、奈良屋町の神屋邸と隣合わせであった。(『博多駅今昔地図』はかた部ランド協議会)

アルメイダが興善と最初に出会ったのは一五六一年と考えられ、豊前から平戸へ布教活動へ行く時に博多に入った。そこには興善の寄進により教会が建てられていた。また、屋敷を宣教師らに提供し宿主となっていた。(『イエズス会日本書翰集 原訳文編之四』) この教会は興善の敷地内と考えられる。

天正十五年(一五八七)、九州平定を果たした豊臣秀吉は焼け野原になった博多の復興を石田三成や官兵衛らに命じた。博多の有力商人らの協力により「太閤町割」が完成する。末次家はこの時に上述の地所を得たのか、以前から在住していたのか不明であるが、「修道院と教会」を設けていたことは容易に想像できる。
この地が如水の遺体が運ばれた「我らの所」と

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■小川研次氏論考「時枝平太夫」(九)平太夫改宗・(十)石垣原の戦い

2021-03-14 06:52:38 | 小川研次氏論考

九、平太夫改宗

セスペデスの帰国後の興味深い報告があるが、長崎にいたルイス・フロイスがセスペデスの記録を基に書いたものである。(一五九六年十二月十三日付、長崎発信)

『一五九六年イエズス会日本年報』に「ある司祭が一人の修道士とともに朝鮮に行っていた時、たまたまキリシタンたちを訪れたことがあるが、その際に彼は宇佐宮という領国で主要な神社の祭司職をしていた時枝という名の豊後の高貴な神官に会った。」そして「長い議論をしたが、ついに道理ある効力に負け、朝鮮で真理と完全さを認めて福音の法を納得した。」とある。
「司祭と修道士」はセスペデス神父と日本人修道士レオ・コファンであり、「時枝」は平太夫鎮継である。官兵衛・長政の機張城を訪ねた時に鎮継と出会ったのである。

イエズス会の記録によると官兵衛と共に朝鮮に渡っていた「時枝」は「神官」の身であって武将である。代々、弥勒寺の寺務を司っている時枝家にとってはキリスト教を簡単に受け入れる事は出来なかった。それゆえに、朝鮮では「議論」に負けたが(イエズス会の言い分)、洗練を受けていないのである。確かに藩主官兵衛はキリシタンであるが、信仰に関しては別であった。
さらにフロイスの筆は進む。

「朝鮮でこの人物に説教した同じ修道士が彼の郷里(宇佐)を通過した時、この(神官)は彼に会えたことを非常に喜び、しきりに幾度も懇願して自分は家族全員でキリシタン宗門を受け入れることを考えているので、しばらくそこに滞在するようにと頼んだ。そこで修道士は滞在し、二、三ヶ月足らずでこの者の妻は、他の二十人の人々と一緒に洗礼を授かりキリストの教会に入った。」

修道士レオ・コファンは宇佐の時枝城に二,三ヶ月滞在し時枝一族に洗礼を施したとある。一五九六年のことである。文禄三年(一五九四)に「其の後海辺の處々の城に在し諸大将皆日本に帰りける。」(黒) とあり、鎮継やセスペデス一行もこの年に日本に戻ったと考えられる。洗礼までの二年間に鎮継の気持ちの変化があったのだろうか。やはり、官兵衛の影響が強いと考えられる。当然、修道士滞在も官兵衛の知るところである。

明国との交渉決裂から慶長二年(一五九七)、秀吉は再び朝鮮半島に日本軍を送り込んだ。慶長の役である。しかし、翌年、秀吉の死によって終止符を打つことになる。

尚、セスペデスは一五九九年に官兵衛の招聘により中津に住むことになる。
「中津において、如水の保護でグレゴリオ・デ・セスペデス神父」(「マトス神父の回想録」『キリシタン研究』第二十四輯)
中津教会で平和の鐘の音色が響き渡っていたのも束の間、慶長五年(一六〇〇)に天下の大事件が起こる。関ヶ原の戦いである。


十、石垣原の戦い

慶長五年(一六〇〇)六月十六日、徳川家康は会津の上杉景勝を討つために大阪を発った。黒田長政や細川忠興らも加わった。
この隙に石田三成は毛利輝元を総大将に擁立して挙兵した。
「石田治部少の乱」である。世に言う関ヶ原の戦いである。

長政の母櫛橋光(くしはしてる)と新妻・栄姫は大阪城下の天満屋敷にいた。これは「秀吉公の時より、天下諸大名の妻子を大阪の面々の屋敷人質に置たり」(黒)とあり、三成は敵方大名の妻子を大阪城に人質にすることにより、優位に戦おうとした。
しかし、長政は「我が母上と妻とを、ひそかに恙なく本国に下すべし。」(黒)
と家臣に言いつけていた。この二人の脱出作戦を敢行したのが母利太兵衛(ぼりたへえ・友信)である。商人の姿に変え、二人を俵に包んであたかも商品に見せかけて、なんとか屋敷から出ることができた。
ところが、舟で逃げることにしていたが、川番所の警備もあり厳しい状況であった。
この時、「鉄砲の音夥しく聞こえ、城近く火事出来たるを、彼番所の者たち共見て、急ぎ小舟に乗りて馳行けれは、番所には人々すくなに見えけるか」(黒)
太兵衛は急いで二人の宿所に行き、「只今船に乗せ申さん」と大きな箱に隠し、船に乗せ川番所を無事に通過できたのである。
七月十七日の夜だった。この「城近く火事」は細川忠興邸である。
石田方の人質要請に忠興正室の玉子(ガラシャ)は「我今敵の手にわたり城中に入て諸人に面をさらしなば、大なる恥辱なるべし。又越中守殿(忠興)、家康公への忠義のさわりとも成ぬべし。」(黒)と自害したのである。家臣の小笠原少斎、河喜多(川北)石見らは、屋敷に火をかけ切腹した。
玉子は長男忠隆の新妻(前田利家の娘)や侍女らを逃したばかりでなく、長政の母と妻までも救ったことにもなる。

中津城で隠居していた如水(官兵衛)は三成の乱が確定すると、「九州にある石田か黨類を悉く誅伐すへし」(黒)と兵を集めることにした。
九月九日の出陣に向けて出来るだけ多くの兵を集めるために「金銀多く取出し渡かれける。」その結果、「九千餘人」も集まった。
陣備は一番に母利太兵衛、二番に黒田兵庫助、三番に栗山四郎右衛門、五番に野村市右衛門、六番に母利與三兵衛・時枝平太夫、七番に久野次左衛門・曾我部五右衛門、そして「黒田安大夫」の名がある。(黒)

九月十日夜、細川忠興の飛地領である豊後木付(杵築)の杵築城が大友義統の攻撃目標となった。城代は松井康之・有吉次郎右衛門である。
五、六千人の軍が城を攻めたのである。
この情報を得た如水は杵築城の援軍を出すことにし、「井上九郎右衛門・久野次左衛門・野村市右衛門・後藤左門・時枝平太夫・母利與三兵衛・曾我部五右衛門・池田久郎兵衛・黒田安大夫等」に三千餘人の兵を連れ向かわせた。(黒)
杵築城は攻められ残すところは本丸だけとなったが、黒田援軍が迫ってきたと聞いた義統軍は早々に引き上げ、本陣の立石に戻った。立石は父宗麟の勝戦の地であった。

九月十三日、如水軍は義統を討つために石垣原(別府市)に向かい、両軍は対峙した。この時の先陣を切ったのは時枝平太夫・母利與三兵衛である。
ところが、敵はジリジリと引いていくのである。実はこれは義統軍の罠であった。「釣り野伏せ」である。
「母利・時枝、敵の偽(いつわり)て逃るをバしらずして」(黒) 敵の本陣へ向かったのである。術中にはまった平太夫らは、三方から敵の猛攻にあう。
「母利與三兵衛・時枝平太夫もしばし支えて戦けるが」(黒) 敵将吉弘統幸(むねゆき)が猛兵に押し立てられ攻めてきたので、引いたが、「身方(味方)に討るゝ者多かりけり。時枝平太夫は人数をあつめ、眞丸に成て引けるが、所々にて踏とまり守返し、敵を防きてぞ引退ける。」(黒) 
この時、味方八十人、敵は十騎討たれたとしている。(黒)

二陣の若武者久野次左衛門と曾我部五右衛門も討たれた。
そこで、如水は三陣の井上九郎右衛門・野村市右衛門・後藤左門を投入し、大友軍を敗る。敵将吉弘統幸(むねゆき)や宗像掃部(かもん)も討ち取られた。
九月十五日、大友義統は妹婿である母利太兵衛を通して降伏した。
しかし、九月十九日付「松井康之・有吉立行連署状案」によると、先陣は久野・曽我部・母利(與)・時枝、二陣に井上・野村・後藤又兵衛息となっており、兵力もそれぞれ千名余りとしている。(『松井文庫所蔵古文書調査報告書三』)

のちの黒崎城主となる井上九郎右衛門(之房・ゆきふさ)は二百二十七、野村市右衛門は百八十八もの首級を討ち取った。平太夫は苦戦しながらも十二だったが、感状なしである。(黒)
また「長岡越中守(忠興)家人にハ、魚住右衛門兵衛・中村次郎右衛門といひし者、松井・有吉に属せしが、二人勇勝れたりとて如水より感書を與へらる。」(黒)
とある。ちなみに次郎右衛門はキリシタンであった。(『肥後切支丹史』)
右衛門兵衛も息子の与右衛門がキリシタンであったことから、おそらくキリシタンであったと考えられる。

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■小川研次氏論考「時枝平太夫」(六)中島誅伐・(七)秀吉の野望・(八)キリシタン官兵衛

2021-03-12 06:17:47 | 小川研次氏論考

六、中島誅伐

小野精一著『大宇佐郡史論』から中島誅伐に関する記述を一部紹介しよう。

天正十三年(一五八五)十月二日、宿敵中島統次(むねよし)により時枝城を陥落され、芸州に逃れた鎮継は再び統次と戦うこととなる。
時は天正十七年(一五八九)三月一日である。
しかし、今回は黒田長政を将に三千騎という大軍と共に高家城(たけいじょう・宇佐市東高家字堀添)を目指した。
先鋒を任された鎮継は鬨を揚げて正門を攻めたが、突然、門が開き中島勢百四十騎が躍り出た。しかし、中島勢の敗色は明らかであった。
統次は最後の一戦に馬を陣頭に突撃しようとしたところに、恒吉縫殿助が抱きとめ「ひとまず豊後に落ち、大友家に頼み給え、殊に臼野の松尾民部は外戚なれば、彼に暫く身を隠し、重ねて本望を達せられよ」と諫められ、向野谷に逃げ落ちた。
外戚の松尾氏を頼ったが、黒田に内通され、黒田勢三百騎に囲まれた。統次はついに自刃する。

長政の次の標的は小倉(おぐら)城主渡邊統政(むねまさ)である。
しかし、統政は和睦を申し出た。その後、長政は時枝城に入り、人馬を休め、兵に酒などを振舞った。
それから間もなく、土岐忠秀、赤尾孫三郎など宇佐郡の国士らが長政の軍門に降った。最後は敷田の萩原親時だったが、同じく降った。
このように宇佐郡衆との政治的交渉を時枝城で行われていたことから、鎮継が明らかに群衆のリーダーであった。


七、秀吉の野望

天正十九年(一五九一)、秀吉は「日本国は既に悉く掌に入ぬ。この上は秀次に日本を渡し、大明国に入て四百州の王になるへし」(黒) と近臣らに告げ、まず朝鮮へ軍を送り込むことにした。文禄の役である。
天正二十年 (一五九二)三月一日、朝鮮へ渡る軍の次第が定められた。
黒田甲斐守(長政)は三番隊で総数五千人の軍である。その陣備に「二の先 百二人 時枝平太夫」の段がある。また同じ備に「二百五十五人 後藤又兵衛」も並ぶ。平太夫鎮継は又兵衛と共に備頭に任じられていた。

もう一人、同じ備頭に「四十人 黒田安太夫」の名があるが、黒田吉右衛門(宮成公基)の第三子(号黒田蔵人)とされる。(『宇佐神宮史』史料篇 巻十四)
この安太夫は朝鮮にて武勇伝を残す。

「黒田安大夫は唐人の矢にあたり、股を馬の太腹に射付られるが、其矢をもぬかず、即当の敵に馳かかり、太刀を以てかぶとの鉢を日本人のさかやき(月代)のなりのごとく横さまに切はなしければ、敵は其まま馬より落て死にけり。名誉の利剣なりける。長政より其戦功を賞して馬を賜りける。此安大夫は豊前宇佐の城主宮成吉右衛門が嫡子なり。」(黒)

安太夫(蔵人)は、のちに黒田家に千石にて仕えるが、福島家、細川家と争奪戦の的となる。元和六年(一六二〇)に細川家に召抱えられることになる。(『綿考輯録』巻二十)

四月に長政は総数十五万八八○○人の軍勢と共に渡海した。


八、キリシタン官兵衛

文禄二年(一五九三)、一番隊隊長のキリシタン大名小西行長の招きにより、イエズス会士の司祭グレゴリオ・デ・セスペデスが朝鮮に渡った。
天正十五年(一五八七)に秀吉による伴天連追放令が発令されており、非常に危険だが、行長の強い要望に応えた。朝鮮半島に上陸した最初の西洋人宣教師となる。
セスペデスの書簡に「聖人暦の聖フアンの日」とあり、一五九三年十二月二十七日に対馬から朝鮮に渡ったと考えられる。(『グレゴリオ・デ・セスペデス』朴哲)

セスペデスは大阪教会で細川忠興の正室玉子と会った唯一の司祭であり、洗礼を指導した霊的指導者であった。慶長五年(一六〇〇)に豊前国に入封した忠興の元でガラシャのミサを挙行した。

さて、セスペデスは行長の熊川倭城(こもかい)に日本人修道士レオ・コファンと滞在していたが、官兵衛と長政の強い要請により機張城(くちゃん)に向かった。十五日間の滞在の際に彼らや家臣らに説教したり、告白を受けたりし、また家臣らに洗礼を施した。
敬虔なキリシタン官兵衛は後日、再び修道士を呼んだ程であった。

イエズス会ローマ文書館に所存されている未発表史料であるセスペデスの書簡の一部を長文になるが、キリシタン官兵衛を知る貴重な記録なので紹介する。
文禄三年(一五九四)の夏と推定される。熊川倭城にて書かれた日本準管区長ペドロ・ゴメス宛の書簡である。(『グレゴリオ・デ・セスペデス』)

「私は高麗国の主たる国境付近の一つを担っている黒田官兵衛殿シモンとその息子の甲斐守(長政)のことを知りました。私は熊川倭城にいたので、この者たちは付き人を私のもとに送りました。彼らは自分たちの城塞に来てほしいと強く願い、船を寄こしました。ですから、私と修道士はこの者たちの城塞に行き、十五日間そこに留まりました。私と修道士は黒田官兵衛殿シモンの邸宅にいました。息子は別の邸宅にいました。この者たちは毎日一、二回公教要理の説教を聞きたいと願いました。キリスト教徒の者もいれば、異教徒の者もいましたが、有力な武将や従者たちも彼らとともにいました。黒田官兵衛殿シモンとその息子、そのほかにもその場にいたキリスト教徒たちが私に告白し、すべての者たちが大いに救われました。そして、まだ異教徒であった武将や従者たちも、すべての者が洗礼を授かりました。したがって、現在ではこの地の指導者たちとその家族はすべてがキリスト教徒です。関白殿に抱いていた恐怖心と畏敬の念からではありませんが、私がこの地にいることを隠しておくことが良いことだと思われました。信頼のおける人々のおかげで、私の存在は関白殿に知られることはなく、この地で多くの人々に洗礼を授けることができました。
その姿勢は素晴らしいものでした。黒田官兵衛殿シモンは主への奉仕を喜びとともに行い、救済への強い願いとともに神のご加護を求めるために毎日いくらかの時間を費やす姿をすべての者たちに見せました。信仰に関する書物を読み、祈ることを決めた黒田官兵衛殿シモンはそれを堅く守り、従者たちにも同じことを命じました。祈りの時間に黒田官兵衛殿シモンの邪魔をする様な者は一人もいませんでした。時々、黒田官兵衛殿シモンは書物を外に持って行きました。書物を持って出かけることは、このようなことを決断したときを思い出すためだと黒田官兵衛殿シモンは言いました。数週間が過ぎ、黒田官兵衛殿シモンは再びその修道士を呼び出しました。黒田官兵衛殿シモンはこの修道士をもう数日間自分のところに滞在させ、修道士の説教を聞いたり、個人の良心に対する懐疑心や神に感謝を述べる行為について修道士に尋ねたりするためでした。(中略)
私たちが布教活動を行わないなら、日本に留まることができると官兵衛殿が何度も言いました。」

一五九四年は日本は中国側と和平交渉に画策している時である。休戦期にセスペデスは積極的に活動していた。
文禄三年(一五九四)の『黒田家譜』に「朝鮮在陣の日本勢の内、諸城警衛の兵の外は、悉く日本に帰りしが、長政は機張の城を守り居給へば、当春は猶帰国し給わず。大明と和議調いて後、敵も皆退散せしかは、軍はなくて異国に逗留し給う。」とあり、官兵衛父子は機張城に滞在していた。

書簡の内容から敬虔なキリシタン官兵衛を見ることができる。
時枝平太夫鎮継はこの官兵衛の姿を見ていたが、宇佐宮弥勒寺の僧官家である鎮継は容易に受け入れることはできなかったとみられる。

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■小川研次氏論考「時枝平太夫」(四)九州仕置 (五)城井誅伐

2021-03-10 16:34:40 | 小川研次氏論考

四、九州仕置

秀吉は天正十五年(一五八七)三月に大軍と共に九州に上陸し、南下していく、ついに四月、薩摩に入った秀吉の軍門に島津義久は降る。
同年七月三日、秀吉は小倉城にて九州仕置をし、官兵衛は豊前国「京都(みやこ)・築城・中津(仲津)・上毛(こうげ)・下毛・宇佐」(黒)の六郡を拝領した。また、同日の知行宛行状に興味深いものがある。

「今度、御恩地として、豊前国京都・築城・上毛・下毛・中津・宇佐内に於いて、検地の上を以て千石の事、宛行われ畢(おわんぬ)。全く領知致し、黒田勘解由に与力せしめ、自今以後、忠勤抽んずべく候也。天正十五年七月三日 (秀吉朱印)
時枝武蔵守とのへ」(北九州市立自然史・歴史博物館蔵)

秀吉は武蔵守(鎮継)を官兵衛の家臣としてではなく、与力として迎えた。
地侍の懐柔策とも取れるが、鎮継は先述の通り天正十三年(一五八五)に時枝城を捨て小早川隆景の元へ敗走していた。しかし、鎮継の武将としての力量や地侍へのリーダーシップを見込んでの知行割当であったとみる。
何よりも鎮継と官兵衛との強い絆を感じる。
ちなみに長野三郎左衛門は小早川隆景の与力として筑後国へ移った。(『豊前長野氏史話』)
しかし、豊前国では反豊臣の煙が燻っていた。そしてこの時こそ、鎮継の本領が発揮されることとなる。


五、城井誅伐

『黒田家譜巻之五』は「天正十五年(一五八七)の秋、豊前入国以後の事をしるす」とあり、官兵衛は豊前入国し、「時枝の城にて、領地の仕置を沙汰し、三カ条の制法を出し給ふ。」とある。主人親夫に背く者や殺人・窃盗などに対して厳罰に行うとしている。
歴史学者の小和田哲男氏は「三カ条の定は、如水が時枝城から出したといわれるのも、このころの如水と時枝武蔵守の関係をうかがう上において興味深い。」『黒田如水』)としている。

さて、豊前萱切城(かやきりじょう)城主宇都宮鎮房(城井しげふさ)に対して、秀吉は伊予国への転封を命令した。しかし、鎮房はこの知行宛行状を返上したのだ。
先祖伝来の仲津郡城井(築上郡築上町)を離れることができなかったのである。
折しも肥後国で一揆が起き、官兵衛は鎮圧のために赴いたところに、肥前や豊前で一揆が蜂起されたのである。
「然る処に、豊前の国士等所々に兵を起し、各城に立籠るよし、」(黒)
十月一日、馬ヶ岳城にいた長政に一報が届いた。

「其外豊前の国士、時枝の城主時枝平大夫、 其弟宇佐の城主宮成吉右衛門、廣津の城主廣津治部大輔等は、孝高豊前を領し給ふ時、はやく出て旗下に属し馳走しける。」(黒)

平太夫鎮継と「弟」の宮成吉右衛門とあるが、「弟」ではない。先述したが、宇佐宮大宮司宮成公建の次子隆令(たかよし)の子である。隆令が時枝家を相続したところから、混乱したのだろう。また、「孝高(官兵衛)豊前を領し給ふ」以前に既に麾下していた。早速、豊前国士三人衆は長政のもとへ駆けつけたのである。

さて、長政は側近の反対を押し切り、二千余の兵と共に宇都宮誅伐へ城井を目指すことになるが、敗北を喫する。黒田軍唯一の黒星となった岩丸山の戦いである。二十歳の長政は「先手敗軍せし事遺恨至極なり。引返して勝負を決すべし」(黒)と敵軍へ向かっていくところに、黒田三左衛門(一成)が必死に馬を止め、「犬死でござるぞ」と諫めた。三左衛門は官兵衛の恩人加藤重徳の次男であり、官兵衛の養子となっていた。

官兵衛実弟の兵庫助(利高)が居城高盛への帰路で「然るに宇佐郡の一揆、又豊後境の一揆とひとつになり、宮成吉右衛門か居たりし宇佐の城をせむる由」(黒)と聞き、宇佐城に馬を走らせた。
「時枝の城よりも、時枝平大夫出て、宇佐の城へ馳向ひ、兵庫と同じく後攻して、散々にたたかいひけるが、」(黒) 敵方は討たれ、残兵は逃げていった。
一方、長政は特に時枝城には兵を送り込んで固めていた。
宇佐郡の国士らの警戒から、黒田兵庫助と母里太兵衛に担当させ、兵庫助は人物だったとみえ、「宇佐の神主宮成吉右衛門も兵庫助におもひ付て、いよいよ忠を励しける。」(黒)とある。又、「彼郡の者共、多くは宇佐八幡の社人なれは、宮成か下知を背かず。かくありし故、宇佐には其の後、乱を起す者なく静謐になりぬ。長政、宮成がはやく降参し、宇佐の城をよく持ちこたへ忠節有しを感じて、黒田の姓をさづけ、家禄を與え給ふ。」(黒) 
こうして宇佐宮大宮司だった宮成吉右衛門は黒田吉右衛門政本となる。
また、時代が下るが、慶長元年(一五九六)に如水(官兵衛)の意見により、吉右衛門の息女と到津公兼の子豊寿が結ばれて、豊寿は大宮司宮成公尚(きみひさ)となる。これは吉右衛門の長子で大宮司だった松千代丸の早世による。(「宮成文書」『宇佐神宮史』)
慶長五年(一六〇〇)、黒田家は筑前国へ転封するが、「慶長分限帳」(『福岡藩分限帳集成』)に「黒田吉右衛門政本」の名がないが、後述する第三子の「千石 黒田安太夫」『黒田三藩分限帳』)、「寛文分限帳」(一六六一〜七三)に「千百石 黒田吉右衛門政仲」とある。

やがて、宇佐群衆一揆は鎮圧され、城井谷の宇都宮鎮房もついに観念し、和睦を申し出た。
しかし、翌年天正十六年(一五八八)に、長政は鎮房を中津城での宴席に招き、謀殺した。家臣らは寺町の合元寺(中津市寺町九七三番)に籠ったが、黒田勢から皆殺しされ、その血が門前の壁を赤く染めた。何度も塗り替えたが血が滲み出るので、赤塗りにしたという伝承が伝わる。


別名赤壁寺といわれる合元寺

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■小川研次氏論考「時枝平太夫」(三)九州上陸

2021-03-09 06:36:04 | 小川研次氏論考

三、九州上陸

「小倉の城は戦闘を交えることなく降伏した。」(日)

「豊前の凶徒等、小倉・宇留津の両城にたて籠る。高橋右近元種か端城なり。毛利右馬頭輝元小倉の城を取巻、孝高指南して是を責られしに、城主罪を謝して降参しける。其後孝高は小倉の城に居給ふ。吉川・小早川も小倉より取つづき、一里ばかり先へ出張て陣を取。」(黒)

島津氏に加担していた香春岳城(福岡県田川郡)城主の高橋元種は小倉城を端城(はじろ)としていた。元種の実父は秋月種実で小倉城主高橋鑑種(あきたね)の養子となっていた。鑑種病死の時、わずか九歳の幼君であった。
毛利軍は小倉城を包囲した。典拠不明だが城代は小幡玄蕃で城内で自刃したとある。(苅田町公式ホームページ) 天正十四年(一五八六)十月四日とみられる。
また、十一月十五日、吉川元春は小倉城で病没している。

官兵衛の戦略は先ず、豊前制圧であった。

「官兵衛殿は、同所から海辺にある敵の城に向かって出発したが、その城には避難してきている村の全住民以外には、千人の戦闘員が内部に立て籠もっていた。城への侵入は困難をきわめ、濠の水は一人の人間の胸のあたりまで達していた。官兵衛殿は(Vo)の聖母の祝日の午後四時に勇猛果敢な攻撃を試みた。その戦闘で味方の兵五百人が殺され、千人以上が負傷したが、官兵衛殿は怯むことなく、武力を持って城内に侵入し、一人残らず三千五百人を超える敵兵を殺戮した。」(日)

「敵二千餘人籠たりしを、千人餘は首を取、残る男女三百七十三人をば生捕にし磔にかけられる。」(黒)

フロイスは「海辺にある敵の城」とし、城名を記していない。
周防灘に面している豊前宇留津城(うるづじょう・福岡県築上郡築上町宇留津)である。この城は塩田城(えんたじょう)という別名を持つ。(椎名町教育委員会、異説あり)
賀来(加来)氏が守る宇留津城の戦いは、壮絶であった。

『萩藩閥閲録』に「宇留津之出丸に嘉久(賀来、加来)入道専慶・同孫兵衛久盛其外數多楯籠候、」とあり、宇留津城主は入道専慶で孫兵衛久盛はその男子である。また、「両豊記」には「加来與次郎、同新右衛門、同孫兵衛」とあるが、専慶が與次郎で、新右衛門は叔父の加来源助景勝、孫兵衛は久盛である。
與次郎は父入道専順が香春城の高橋元種に人質になっていたが、隆景らの降参条件の領土安堵案にもかかわらず、「孝子の道にあらず」と父を見捨てることができず黒田勢に挑んだ。現在でも地元築上町では「宇留津城哀史」として民劇などで語り継がれている。

十一月二十日の秀吉感状に「豊前宇留津城去る七日ニ責め崩し、千余首を刎ねられ、其の外男女残らずはた者(磔)に相かけられ候儀、心地よき次第に候」(黒)とあり、十一月七日に官兵衛と隆景により落城としている。しかし、『日本史』では「聖母の祝日」とあり、「無原罪の聖マリアの祝日」を指しているとみられ、西暦十二月八日である。(一四七七年「クム・プラエエクセセルサ」『RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌』)
旧暦では十月二十八日になるが、この日の午後四時に突撃をしたとあり、『黒田家譜』の十日前である。
この差はなんだろう。まず、宇留津城の「濠」は、現地では後年、「塩田沼」(えんたぬま)と呼ばれていた。現地の案内板から一部引用する。

「天正十四年秋、豊臣秀吉の先手の中国勢等二万八千騎が攻め寄せて攻めあぐんでいる折、一匹の白犬が現れ堀の周囲を廻っていたが、やがてある箇所よりすたすたと泳ぎ渡った。これを見逃さなかった黒田軍は、ここぞ浅瀬だとばかり総攻撃にかかり宇留津城は僅か一日して陥落」(椎田町教育委員会)

「白い犬」とは興味深いが、この濠は難所であったことがわかる。

『日本史』と『黒田家譜』の敵方犠牲者の数は若干違いがあるものの、かなりの数という意味では一致している。
しかし、『黒田家譜』には「味方の兵五百人の戦死者と千人以上の負傷者」(日)の記述はない。
つまり、この戦いは敵方の「千人餘の首」(黒)を刎ねるほどの、裏返すと官兵衛はそれほどの苦戦を強いられたのである。このことから、宇留津城は十月二十八日に攻撃し十一月七日に陥落したと考える方が妥当かも知れない。

「吉川・小早川・黒田官兵衛孝高・同甲斐守長政、其外毛利家之諸将攻懸候剋、搦手北ノ門隆景一手之勢を以仕寄を附相攻候處、秀包采配を取て早ク可乗揚之由下知附、家来椋梨越前を初數多堀に乗候所を城中より矢鉄炮を以防戦之、椋梨越前・清水善右衛門・谷川勘八を初十騎計討死仕候、」(『萩藩閥閲録』)

秀吉書状に「其方搦手隆景先手ニ進、城中に乗込」(『萩藩閥閲録』)とあり、隆景軍の猛将小早川秀包(ひでかね)勢が先陣であった。のちの久留米藩主で、大友宗麟の娘を正室とし、ともにキリシタンであった。
また、『日本史』にも記されている。

「その城(宇留津城)の攻撃にあたった最初の人々の中に、既述の小早川殿(隆景)の秘書がいた。(中略) 秘書の死去は小早川殿に深甚の悲嘆をもたらし、大いなる愛情を抱いていただけに彼は、その死を泣いて悲しんだ。」

このことにより先陣は小早川勢であったことがわかる。
秘書は隆景が情愛を持っていた小姓であろう。下関で洗礼を受けた若き小姓の死は隆景の悲しみを誘った。

「城邊の死骸ども皆海へ流し捨て、掃除させて軍兵を入置。諸軍勢は神田へ歸りけり。」(「両豊記」) 「神田」は苅田の松山城で宇留津城攻めの前に陣をひいていた。宇留津城の西に別府村城(築上郡築上町上別府)があり、「天正の頃、黒田家の旗下、時枝平太夫居る。」(『豊前志』)とあり、一時期、鎮継が在城していたと伝わる。

この戦いの勝利により秀吉先遣隊は九州平定への大きな一歩を踏み出すことができたのである。
そして、重要な働きをしたのが、長野三郎左衛門、時枝平太夫鎮継ら豊前国士らであり、翌年、九州平定後の秀吉による論功行賞により明らかになる。
やがて、官兵衛らは、端城の障子岳城(京都郡みやこ町)を落とし、元種の本拠地田川郡の香春城へ向かう。

「官兵衛殿の軍勢は、同所から高橋(元種)の居城に向かったが、彼は豊後(大友氏)の大敵であり、諸悪の根元である秋月殿の息子である。その城中には、六、七千人の戦闘員のほかに、男女、子どもを混えて五万人あまりの者がいた。官兵衛殿は四十日以上を攻撃に費やした。この間、ほとんど毎日彼我の戦闘が繰り返されたが、ついに彼の巧妙な戦術により、また少なからぬ危険を覚悟の上ではあるが、水攻めによって彼らを降伏せしめた。」(日)

十二月一日、元種は降伏し開城した。


宇留津城跡の碑(福岡県築上郡築上町)

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■小川研次氏論考「時枝平太夫」(ニ)九州平定

2021-03-08 13:16:10 | 小川研次氏論考

二、九州平定
島津氏は九州を丸ごと飲み込む勢いだった。絶体絶命を目前にしたかつての九州の雄大友宗麟は豊臣秀吉に救援を求める。
天正十四年(一五八六)四月六日、宗麟は大阪で秀吉と謁見した。
関白秀吉は停戦命令や九州国分けの和解案を既に拒否していた島津氏征伐を決心する。
征伐隊の軍監(軍奉行)になった黒田孝高(官兵衛)は、中国や四国勢の兵を九州に送り込むことにした。毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らの中国軍を主力とした。
まず、毛利勢は赤間関(下関)に集結した。
当時、下関にいたイエズス会士ルイス・フロイスの『日本史』と貝原益軒の『黒田家譜 第一巻』(一六七一~一七〇四編纂)を比較して状況を時系列に見てみよう。(『改訂黒田家譜』『日本史』11第六〇章、第六一章)

興味深いのは、黒田官兵衛は敬虔なキリシタンにも関わらず、『黒田家譜』には切支丹の「き」や耶蘇教の「や」も全く記載されていない。元禄元年(一六八八)に完成して光之・綱政に献上したが、改修を命ぜられた。益軒は忠実に書いていたかもしれないが、いずれにしても抹消されたことだろう。むしろ、官兵衛の側にいた「目撃者」フロイスの方が史実を反映していると考える。
フロイスは下関に四、五ヶ月滞在しており、名著『日本史』第一部を完成させている。

「副管区長(コエリョ)師は当(一五)八六年九月一六日に臼杵を出発し、山口の市(まち)から一日半の旅程にある長門国下関に向かった。(中略) 副管区長がかの海峡(関門海峡)に着くと、ちょうど時を同じくして、関白の命令によって毛利麾下(きか)の九カ国のすべての重立った殿や貴人たちが海峡を渡り、薩摩の国主と戦い、敵が本年武力をもって征服した諸国を奪回しようと集結し始めていた。」(『日本史』以下(日))

日本イエズス会副管区長ガスパル・コエリョが旧暦天正十四年(一五八六)八月四日に豊後の臼杵を出て、下関に着いていたことになる。

『黒田家譜』によると、「孝高(官兵衛)を軍奉行として、豊前へ指し下さる。豊前国は上方より九州への渡口なれば也。(中略) 七、八月は海上風波あらき時なれば、陸中を下るべしと仰せ付けられ、七月二十五日京都を立て山陽道にかかり、十餘日を経て豊前の小倉に着。(中略) 吉川駿河守元春、小早川左衛門佐隆景を豊前へ差下さる。此両人は八月十日に芸州を発して豊前へ向かう。輝元は同十六日に居城芸州広島を立て、数日を経て豊前の国門司の関に着陣し」とあるが、官兵衛は八月の十日前後に小倉に着いたことになる。また、元春と隆景は十日に芸州、輝元は十六日に豊前国を目指して広島を出発し、数日後には豊前に到着。しかし、京都からの途中、官兵衛は吉田郡山城(広島県安芸高田市)、山口、下関に寄っていることが、『日本史』により明らかになる。

「それから数日かが経つて、副管区長師は、新しい山口の司祭館の地所を見たり、自分を待っている古くからのキリシタンに会って彼らを慰めようとして、下関から山口に赴いた。その様な折に、関白殿の側近で小寺官兵衛殿と称する貴人が、都地方から陸路来訪した。」(日)

「彼(官兵衛)は国主(毛利)輝元が居住する政庁の所在地吉田の市(まち)に到着する時、ただちに輝元と単刀直入、司祭に与えるべき地所の事で話をし、その交渉を終えて山口に向かった。そして山口の市(まち)において副管区長と面会した。」(日)

「古くからのキリシタン」は、山口で布教の種を撒いたフランシスコ・ザビエルの信徒である。
官兵衛は山口に入る前に、吉田郡山城の毛利輝元と会い、作戦会議や教会について話し合った。そして、コエリョとフロイスは山口で官兵衛と再び会うことになる。『黒田家譜』では、官兵衛は小倉にいる時期である。
同年三月、大阪城にてコエリョとフロイスは秀吉に謁見していた。その時、官兵衛も同席していた。(1586年10月17日付「フロイス書簡」)

天正十三年(一五八五)九月から小早川隆景は伊予国の統治を始めた。鎮継は天正十三年十月に隆景を頼ったとされることから、伊予にいたと考えられる。

フロイスによる記録はないが、山口にいた官兵衛は上関から下関まで海路を利用したのではないか。

鎮継の家臣であった宇佐宮社人庄野半大夫正直を祖とする子孫らの由緒書「庄野先祖之覚 貞享元年記」(一六八四年五月成立)から一部引用する。(『福岡藩士庄野家の由緒』福田千鶴)

「時枝平大夫鎮継と申時枝城之城主、豊後大友宗麟義統之旗下、後ハ中不和故、豊後より十三年攻申由、終不落、内々是を無念ニ存ル折節、如水公中津に御打入ニ付、此由承、御迎ニ上ノ関迄被出、尤、如水公も九州打入、豊前時枝之城主聞及候間、何とそ手ニ入、九州をしつめ度と思召砌、上ノ関ニて始て御目見仕上、則君臣之契約と伝承、」

天正十三年(一五八五)は鎮継が親大友氏の中島統次に時枝城を陥落させられた年である。無念に思っていた時に官兵衛が中津(豊前国)へ入ることを聞き及び、上関まで迎えに行ったとあるが、この時が両者の初見であったという。
鎮継の人生に多大な影響を与える官兵衛との出会いである。

伊予にいた隆景の指示であろう。官兵衛の豊前攻略に重要な情報をもたらすのは鎮継をおいて他にはいない。二人は意気投合したに違いない。
鎮継は官兵衛の戦略に従い豊前に渡り、宇佐郡衆らと折衝したと思われる。

隆景手配の船は、もちろん日本最大の海賊といわれた能島村上水軍であろう。この時、官兵衛とともにコエリョらも同船していたのかも知れない。
村上水軍は司祭らが安全に瀬戸内海を航行するために、家紋の入った旗を提供していた。(1586年10月17日付「フロイス書簡」)


能島村上の拠点であった上関は水軍戦略上、重要な基地であり、官兵衛がそれを知るために利用したともいえる。

「コエリョ師が山口から下関に戻った後数日を経て、国主輝元の叔父小早川(隆景)殿と、その主席家老が下関に到着した。司祭が小早川殿を訪問したい旨を表明する時、官兵衛殿も自ら進んで司祭に同行した。」(日)

ここから、コエリョと官兵衛は隆景の下関到着前に既にいたことになる。

十月十日付の秀吉書状に官兵衛からの「九月二十八日と十月二日の書状」が秀吉の元に届いたのが十日であったとあり、そこには「輝元・元春・隆景が関戸(下関)に到着したら、長野が従ずる意思表示し、山田、廣津、中八屋、時枝、宮成も恭順し、それぞれの城を自由に使用することを申し出ている」とある。(『黒田家文書』『黒田家譜』以下(黒)) そもそも長野氏、宇佐郡衆の時枝、宮成は親毛利氏であった。

時代不詳としながらも「宇都宮衆知行表」(『豊前長野氏史話』)というものが伝わっているが、この頃の城主を知る上で参考になるので引用する。

「馬嶽城 二万石 長野三郎左衛門」「山田城 一万石 山田右近太夫元房」
「広津城 二千石 広津角兵弘種」「隅田城 二千七百石 中八屋藤左衛門宗種」「時枝城 二千石 時枝図書六郎兵衛」

後述するが、敵方となる「香春城 三千九百石 高橋九郎元種」「潤津城(宇留津城) 三千八百石 初、潤津日向守 加来孫兵衛元邦」とある。この石高から二つの城が重要な軍事拠点であったことが分かる。

『豊前志』に「潤津日向守高衡居る、後、加来新外記の子、孫兵衛元邦居る。」とあり、天正七年(一五七九)としている。(『賀来考』賀来秀三) つまり、「知行書」はそれ以降と考えられ、時枝城の時枝図書六郎兵衛は天正十三年(一五八五)の鎮継が芸州に走っていた時の城主(城代)であろうか。

「豊前の国士多く降参しける中にも、馬が岳の城主長野三郎左衛門、時枝の城主時枝平大夫、宇佐の城主宮成吉右衛門など、早々孝高の手に属しける。」(黒)

この三武将は官兵衛と共に豊前において重要な働きをすることになる。

「山口の国主輝元も約三千の兵を率いてそこから一里の所に到着し、ある僧院に投宿した。副管区長コエリョ師は、先に山口で地所を下付されたことで礼を述べに赴いたが、この訪問にあたっては、官兵衛殿が特に司祭に同行した。」(日)

コエリョが官兵衛と共に、輝元を訪ねている。下関から一里とは、長府辺りの毛利家所縁の菩提寺であったのだろう。長福院(功山寺)か。

「この選定された地所(下関)には、上の方に一つ丘があって見晴らしがよく、もっとも好都合だったので、そこに教会を建てることが決まった。だがそのためにますその丘を地均しする必要があった。しかし、町民は異教とばかりであったから、我らにはそうするだけの能力がなかった。時に官兵衛殿は、四日後軍勢を率いて下関を出立せねばならなかったし、軍事の事で準備に多忙を極めていたにもかかわらず、その話が伝わると、彼は己のことを差し置いて、鉄砲隊の指揮官と家来の兵士たちを遣わして丘の地均しをさせた。」(日)

下関の教会建立に関する記述だが、戦争の準備真っ只中に官兵衛がキリシタンの世話をしていることに驚きだが、誇張癖のあるフロイスだけに致し方ない。(巡察使ヴァリニャーノ評『日本史』1) 確かに官兵衛はキリシタン希望者を小倉から下関へ送り、司祭による洗礼を受けさせていた。中にはのちに細川家に仕える能島村上水軍の村上景広もいた。(『日本史』11)
さて、「四日後」だが、起点日が不明である。推測だが、上述の経過から九月二十九日と思われる。
十月十四日付秀吉書状に「右馬頭三日渡海、小倉城取巻に依」(黒)とあり、十月三日に右馬頭輝元が下関から小倉に入ったことが判明している。

「官兵衛殿は、下関から二里距たった所にある小倉という、敵の城を包囲するために同所(下関)を出発した。彼は通常、戦場においては日本人で説教ができる修道士を一、二名手元に留め、」(日)ていた。

この日本人修道士の一人はジョアン・デ ・トーレスである。のちに小倉で司祭グレゴリオ・デ ・セスペデスと共に活動することとなる。
フロイスは下関に留まったが、修道士ジョアンは官兵衛に従った。このことにより、イエズス会士は今後の戦争の状況を知り得ることが可能になった。官兵衛は輝元と共に小倉に入った。

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■小川研次氏論考「時枝平太夫」(一)宇佐郡衆

2021-03-07 07:02:32 | 小川研次氏論考

 大分県宇佐市下時枝に「時枝城」があり、その城主が時枝平太夫( 鎮継)である。
鎮継と名乗るから大友氏ゆかりの名前かと思うと、反大友の急先鋒ともいうべき人物である。
細川氏を勉強する私からすると、黒田蔵人という人物が頭に浮かぶ。平太夫の二男だとされる。
平太夫は黒田氏に仕えたが、息蔵人は細川家に仕えた。細川家の猛烈な誘いが効を奏した。
蔵人の妻は黒田如水を有岡城から助け出した、加藤重徳の長女である。しかし蔵人は再婚している。継室は細川忠興によって誅伐された長岡肥後の室であった女性である。
今般、小倉葡萄酒研究会の小川研次氏から、30数頁にわたる論考をお贈りいただいた。
小川氏には過去にもいくつかの論考をお贈りいただいているが、今回も御許しを得て10~15回ほどに分けてご紹介申し上げる。
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            時枝平太夫(ときえだへいだゆう)             
                                                                                                                                         小倉藩葡萄酒研究会 小川研次
一、宇佐郡衆
弘治三年(一五五七)四月三日、西国の名門大内氏を継いだ大内義長は毛利元就軍に包囲され、長門の長福院(現・功山寺)にて自死した。義長は豊後国主大友義鎮(よししげ・宗麟)の実弟であった。
同日、大友氏は豊前国の宇佐郡衆に「御両家」の忠節を賞している。「御両家」は大内家、大友家を指す。書状には郡衆旗頭の佐田隆居(たかおき)を筆頭に十五名の名が並んでいる。その一人に「時枝亀徳」(かめのり)の名があるが、「鎮継」(しげつぐ)である。(「佐田文書」『熊本県史料』)
これは、前年の弘治二年(一五五六)、大友氏に降った宇佐郡衆の忠節を確認すると共に、毛利氏への備えでもある。群衆の「宇佐郡三十六士」にも「時枝平太夫鎮継」の名もある。(『大宇佐郡史論』)
ところが、翌年の弘治四年(一五五八)の「大友氏発給宇佐郡衆宛文書」から忽然と「鎮継」の名が消える。代わりに「時枝隆令」(たかよし)の名が上がる。(『戦国期の豊前国における宇佐郡衆在地領主について』) 
また、同年十二月一日の「吉岡長増奉書案文」に「時枝兵部少輔」の名があるが、隆令のことである。(「到津文書」『大分県史料』(24))
このことは「鎮継」から「隆令」に代が変わったことを意味する。

さて、時枝家だが、時枝左馬助惟光(これみつ)を祖とし、山城国八幡の慶安寺の子であったが、宇佐の弥勒寺の寺務役として、宇佐郡時枝村に住し、平太夫鎮継に至る。(『大宇佐郡史論』)(「両豊記」『大分郷土史料集成、戦記篇』)
当時、宇佐宮と弥勒寺は同地にあった。
「寺務社務両人事、車左右輪の如し、神事法会以相対候」(「小山田文書」『大分県史料』第一部(7)) つまり、社官家と僧官家は一枚岩だったのである。

天文十一年(一五四二)に宇佐宮大宮司補任となった宮成公建の次子「隆令」が時枝家を相続したのである。時枝系図では「宗安―鎮継―隆令」となっている。(「時枝重明系図」『宇佐神宮史』) 

隆令が相続したのは、上述のように弘治四年(一五五八)と推定され、鎮継の年齢は十代であっただろう。

宇佐宮大宮司家と弥勒寺は反大友氏であった。それは宇佐宮大宮司家(含弥勒寺)と大友氏の寺社奉行であった奈田八幡大宮司の奈田鑑基(なだあきもと)との確執である。永禄四年(一五六一)七月、宇佐宮大宮司の到津公澄の館を焼討ちや謀殺するなど、宇佐宮への政治的介入を強めていた。娘を大友義鎮に嫁がせ(奈田夫人)、息子は田原家に養子に出すなど(田原親賢・ちかかた)、大友家で権勢を強め、更に宇佐宮へ圧力をかけた。社官衆の反発は必至であった。

天正七年(一五七九)四月三十日、宇佐宮は奈田鑑基の非道を「所行希代之悪逆也」として大友氏に訴えた。「弥勒寺寺務時枝屋敷分并四十町」も押領されとあるが、大宮司家と共に時枝隆令は宇佐宮境内の弥勒寺領内に居住していた。(「小山田文書」『大分県史料』第一部(7)) 
一方、鎮継は糸口村の時枝城(宇佐市下時枝)にいた。

このような状況から、危機感を持つ宇佐宮は、幼少の頃から武勇の才を持つ鎮継に将来の武将として期待をし、僧官家であった時枝家は「隆令」に相続させ、武人として生きることを決意させたのではなかろうか。
やがて反大友氏の首領となった鎮継は毛利氏と通じ、親大友氏の赤尾氏や中島氏へ攻撃をかけることになる。

天正六年(一五七八)、大友宗麟は日向国で薩摩国主島津義久と対峙する。世に言う耳川の戦いである。しかし、総大将田原親賢の統率力の無さで敗北を喫することになる。
この戦をきっかけに大友氏は勢力を落としていくことになる。

筑前の秋月種実(たねざね)、筑紫広門(つくしひろかど)、原田親種(ちかたね)らは、肥前の龍造寺隆信と組み反大友氏の狼煙を上げた。また、時枝鎮継は土井城主佐野親重とともに、親大友氏の赤尾氏を滅したのちに、中島統次(むねつぐ)を攻めることにした。時は天正七年(一五七九)九月二十日である。この時、統次の実兄吉直が討たれたが、互いの損傷から引き分けとなり、和解となった。しかし、翌年に鎮継は和解を反古し、中島城を攻めた。この時は大友氏の援護の可能性から引き返したのである。(『大宇佐郡史論』)
この背景には、国東の田原本家の田原親宏(ちかひろ)・親貫(ちかつら、娘婿)父子が大友氏に反旗を翻したことに起因すると考えられる。急逝した父の遺志を継いだ親貫は天正七年(一五七九)十二月、国東水軍を率いて府内を目指したが、荒天のために引き返している。
やがて、鞍懸城(くらかけじょう・豊後高田)に籠り、大友宗麟嫡子の義統(よしむね)に反意を公然とした。また、南部衆の田北紹鉄(じょうてつ)も親貫と通じ、熊牟礼城(速見郡庄内)に籠城してしまった。この二人の反旗は大友氏への最大の危機となった。この時に鎮継は宿敵中島氏に仕掛けたのだ。
義統の指示には動かなかった大友氏重臣らは、父宗麟(義鎮)が前線に出陣することで従うことになった。天正八年(一五八〇)四月、まず田北の熊牟礼城が落とされ、十月九日、大友軍の総攻撃により鞍懸城はついに陥落した。(『九州のキリシタン大名』)

敗走した親貫は宇佐郡の善光寺村に身を寄せていたが、時枝氏から殺されたと伝わる。反大友氏の親貫を殺すだろうか。典拠は『大友家文書録』であることから、創作の感が拭えない。むしろ、鞍懸城での自刃説の方が妥当と考える。(『大分県史料』33 第二部補遣5)

天正八年(一五八〇)七月九日、「時枝鎮継、䦰(くじ)を下し、向後ハ香春表」に到着するようにと萩原鎮次に催促している。(「萩原文書」『宇佐神宮史』) 
同年七月十五日、大友義統は宇佐郡に長嶺與一郎入道を出陣するために、佐田鎮綱(しげつな)の協力を要請している。鎮綱は隆居の嫡子である。
この年の宇佐郡は敵味方共に一触即発の緊迫状態にあった。

天正十年(一五八二)十二月二十四日、鎮継は豊前善光寺(宇佐市下時枝)に燈料として田畠一町を寄進する。「願主時枝武蔵守仲原鎮継」は「天下泰平」「武運長久」「息災延命」など祈願をし、親大友氏の宇佐郡衆の駆逐を誓う。(『大宇佐郡史論』)

天正十二年(一五八四)正月五日、宇佐宮大宮司の宮成公基が嫡子松千代丸に大宮司の職を譲った。実は、この公基は時枝家を相続した「隆令」の男子であった。(「宮成文書」) 宇佐宮も武装化していたが、還俗して武将となり、鎮継と共に戦う決意表明でもあったのだろう。のちに黒田家に属し、宮成吉右衛門(黒田吉右衛門政本)と称する。

翌年の天正十三年(一五八五)十月二日、時枝城は中島統次により陥落される。この時、鎮継は小早川隆景を頼りに芸州(安芸国)へ逃れた。(「両豊記」)


  宇佐神宮境内の弥勒寺跡 

 

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