津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御扶持方御切米御帳(15)

2023-06-10 06:57:30 | 先祖附

諸職人

一 貮拾人扶持        御鉄炮屋 宮村出雲・・・・・・・・・・・・・・田辺城籠城衆
一 拾人扶持          同   宮村七兵衛
一 右同断           同     清兵衛
一 右同断          御具足屋   忠兵衛
一 五人扶持          同   春田屋理兵衛
一 右同断           同     次郎左衛門
一 右同断           同     市左衛門
一 拾人扶持石             大道但馬休庵     (刀剣)
一 五人扶持              大道左兵衛      (同上)
一 拾人扶持              宣貞傳左衛門     (同上)
一 拾人扶持貮拾五石   御石火矢はり 前崎仁兵衛
一 四人扶持拾五石      御鞍うち 右田加右衛門
一 三人扶持          同     傳七
一 六人扶持貮拾石       御大工   作右衛門
一 五人扶持拾五石       同   横山次兵衛
一 四人扶持拾石        同   松原次郎左衛門
一 三人扶持拾五石       同   三澤喜左衛門
一 三人扶持拾石        同   寺廻仁左衛門
一 三人扶持七石        同     久左衛門
一 三人扶持          同   横山清兵衛
一 右同断           同   松原次郎右衛門
一 三人扶持拾石        御左官 内田新蔵
一 三人扶持五石 但江戸ニ相詰候時ハ壹人扶持御切米
         七石増被進候 同   湯川加右衛門
一 右同断     右同理   同   小森与兵衛
一 貮人扶持八石        瓦ふき 矢田部角左衛門
一 右同断           同   橋本助兵衛
一 貮人扶持八石   御数寄屋こもあみ 永峯仁兵衛
一 四人扶持拾五石    川尻御舟大工 若井久右衛門
一 右同断           同   林田九兵衛
一 右同断           同   若井茂左衛門

一 三人扶持          同   中山少兵衛
一 右同断           同   青木半兵衛
一 四人扶持拾五石    鶴崎御舟大工 井上与三左衛門
一 右同断           同   宮山喜兵衛
一 右同断           同   野■三右衛門
一 三人扶持拾石      川尻ろ大工 矢野佐右衛門
一 右同断           同     久左衛門
一 右同断         鶴崎ろ大工   理兵衛
一 貮人扶持八石        同     藤次郎
一 六人扶持拾五石      御ぬしや 白樫左兵衛
一 三人扶持三石        同     太郎助
一 五人扶持          同     七左衛門
一 三人扶持          同     作兵衛
一 右同断           同     与助
一 拾人扶持          さや師   次郎兵衛
一 六人扶持          銀屋    彦丞
一 拾人扶持         長崎銀屋   道助
一 三人扶持拾石        金具や   長七
一 三人扶持九石        同     左兵衛
一 拾人扶持          同     新五郎
一 三人扶持          とき屋   加兵衛
一 貮人扶持          御鍛冶   新六
一 三人扶持         御柄巻屋   権兵衛
一 四人扶持          糸屋    吉助
一 五人扶持          御釜屋   長兵衛
一 拾人扶持貮拾石      御引物屋   角引
一 貮人扶持五石       御青貝屋   権左衛門
一 三人扶持         かさりや   加右衛門
一 三人扶持三石        紺屋    太郎兵衛
一 右同断           同     清十郎
一 右同断           同     加右衛門
一 拾人扶持          へに屋 津貝太左衛門
一 三人扶持       なめしかわや   次郎右衛門
一 右同断           同     喜左衛門
一 右同断           同     次兵衛
一 右同断          御かわや   藤右衛門
一 右同断                                        御畳屋   次左衛門
一 右同断           同     理兵衛
一 三人扶持五石      御畳表うち 神原長兵衛
一 貮人扶持五石        同     長助
一 右同断           同     助市
一 壹人半扶持五石    御畳さし手傳   仁左衛門
一 右同断           同     甚右衛門
一 右同断           同     弥兵衛
一 貮人扶持三石      山鹿紙すき   藤左衛門
一 右同断           同     市左衛門
一 右同断           同     弥兵衛
一 右同断        玉名郡紙すき   孫兵衛
一 右同断           同     市丞
一 右同断           同     市右衛門
一 右同断           同     少左衛門
一 右同断           同     市次郎
一 右同断        らうそくかけ   七郎兵衛

〇御扶持方合三百六拾壹人半扶持
〇御切米合四百四拾八石
   外ニ貮人扶持拾四石ハ御増給扶持也
                人数八拾六人
                                   

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興(三斎)文書-元和九年」を読む (1)

2023-06-09 10:39:50 | 先祖附

忠興(三斎)文書-元和九年

355、正月二日書状(三斎・忠利共ニ在江戸)
 ・式紙ニツキ片山宗哲室ニ問ハン

356、正月廿護日書状
 ・花入ノ鑑定、
 ・高価ナラバ不用

357、二月十四日
 ・眩暈癒ラザル為剃髪ナラズ
 ・少時モ頭巾ヲ放得ザル為来客ヲ断ル

358、二月十九日
 ・酒井忠勝ヲ招クニツキ相客ノ人選ヲ諮ル

359、三月四日書状
 ・病中ノ中山照守ヨリ清心圓ヲ所望セラル、モシ今大路道三ノ薬ニ當ル時清心圓服用ノ故ト取沙汰アラン事ヲ憂ウ

360、三月十九日書状
 ・立花宗茂ヨリ茶入レ贈与之申入アリ
 ・世上ノ取沙汰ニナラバ一興ナリ

361、三月廿二日書状
 ・立花宗茂へノ返書ノ指示

362、三月(日未詳)書状
 ・立花宗茂ヘノ懇意、満足

363、四月五日書状
 ・妻木之徳ヨリ本多忠政来訪ノ意ヲ傳ヘラル
 ・小笠原忠知(忠利義兄弟)及ヒ相客ヲ招キタシ

364、五月三日書状
 ・加々爪忠澄ヨリ稲葉一通女(忠利孫女)ノコトヲ尋ネラル

365、五月(日未詳)書状
 ・略

366、(月日未詳)
 ・略

367、六月七日書状
 ・為見舞(丹後紬)令満足、
 ・氣相少好ユヘヤガテ上洛スベシ

 (三斎江戸出立、上洛)

368、六月廿日書状
 ・上洛ノ途中池鯉鮒ニ在リ        日本橋から330㌔、当時では10日の日程を擁したとされる、
 ・宿ヲ烏丸通リニ取ル、知行取ノ家来八九人ヲ聖護院ニ置キタシ

369、六月廿二日書状
 ・亀山ニ着ス
 ・(秀忠六月八日二条城入)廿五日参内

370、六月廿三日書状
 ・甲賀郡石部ニ在
 ・廿二日、土山ニテ書状ヲ披見ス
 ・明日聖護院ニ参著(6月24日京都到着す)

371、七月廿一日
 ・忠利之小笛・太鼓打之者、今夕此方へ廻附ヲ乞ウ

372、八月五日書状
 ・加々爪忠澄ニ所望ノ石場ヲ遣スベシ

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■あと三日となりました

2023-06-08 09:23:23 | 先祖附

 引越し迄あと3日となり、家具や本棚は空っぽになり、それに代わってダンボールが所狭しと並んで山を為している。
荷づくりのせいでギックリ腰の状態がかんばしくなく、悲鳴を上げながらそれでも荷造りをしなければならない現状に、この年になってからの引っ越しの辛さをしみじみと感じている。
娘の「断捨離・断捨離」の掛け声に、相当な量のものを処分したがなんといっても80余年の生きた証で捨てがたく、今日まで持ち続けてきたものもある。
「三年使わないもの・着ないものは捨てなさい」との娘のご託宣に、「老いては子に従え」の教えの如くに爺様は従順である。
どうやら11日(日)の当日は雨模様のようで、業者の皆さんにはご迷惑な事だが、荷物が入ればあとはのんびりと本や資料の仕分けをすればよい。

ブログについては一両日お休みの可能性がありますがお許しください。

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興(三斎)文書-元和八年」を読む (3)

2023-06-06 09:14:39 | 先祖附

 忠興(三斎)文書-元和八年

348、十一月廿一日書状(三斎江戸下向ノ途次、在吉田)
 ・忠利ヨリ天千代(後・興孝)母(清田氏)ニ贈ラレシ小袖、か様之儀不入気遣ニツキ返
 ・馬ヲ給候由、玄蕃(三斎甥)ヨリ二ッ到来、もはや入不申間返
 ・(十一月十日本丸修復成リ秀忠本丸に移徙ス、(家光西丸ニ移徙ス)
 ・今切・箱根関所ノ道具改厳シ
 ・船旅デ揺ラレ疲労、自筆ナラズ
 ・松平忠直狂気

349、十一月廿六日書状
 ・浅野長重笠間城ヲ預ケラル
 ・片山與安(宗哲)没ス
 ・越中ハ雪中ナル故落着ハ来年ナルヘシ・・・(松平忠直一件)

350、十二月八日書状(三斎江戸下向ノ途次、新居)
 ・(愛宕下)新邸ニ手直シハツキモノ故、先ズ本邸ニ赴
 ・小田原迄普請ノ者三十人ヲ差越サレタシ

351、十二月十四日書状
 ・三斎江戸屋敷ノ使用ニツキ忠利ニ申入ル、本邸ヲ残ラズ明ケテクレルニハ不及
 ・臺所ハ数寄屋ノ臺所ニテ濟
 ・座敷ハ床ノ間付ノ三斎部屋ト小姓部屋ニテ可
 ・忠利ト家臣ハ色付ノ書院廣間其他表ノ諸間ニ居ラルベシ
 ・明日江戸ニ著ス故急圍ヲ申付ケラルベシ

352、十二月十四日書状(三斎江戸下向ノ途次、戸塚)
 ・忠利ノ迎ノ使者来テ菓子等ヲ贈ラル

353、十二月廿五日書状
 ・歳暮ノ祝儀到来、祝着

354、十二月廿七日書状
 ・明日歳暮并忠利受領(忠利越中守ニ叙任)ノ御禮言上ノ予定
 ・曽我尚祐邸にて土井利勝ノ指示ヲ待ツ

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■お鍋様、父興秋の旧臣の召し抱えを願う

2023-06-03 09:05:23 | 先祖附

 寛永六年(1629)六月三日奉行所日録に次のような記録がある。

一、おなへ様ゟ、遠藤吉右衛門を以被仰聞候ハ、末岡小介替之儀申候へ共、于今相済不申候、就夫、
                     (志水伯耆)
  前かと與五郎様被召仕候清介と申もの、此中宗加ニ罷居申候、宗加御果候ニ付、前廉右之分ニ而
  おなへ殿被召仕候ハヽ、御奉公申上度由申候、いかゝ可有御座哉と被仰下候、

 細川興秋の遺児・おなべ様が遠藤吉右衛門なる人物を通して奉行所に仰せ聞かされたこととして、おなべ様の許に召し抱えていた末岡某の替りとして、以前父・與五郎に仕えていた清助が宗加(志水伯耆)の許に居たが宗加がこの度死去したことによりおなべ様にお仕えしたいと申しているとのこととして、奉行所の裁可を尋ねている。

 細川興秋は天正11年(1583)母・ガラシャが味土野幽閉中に産んだ忠興の次男である。
慶長9年(1604)11月、父忠興の命により江戸證人として江戸に下る途中出奔、大坂の陣に於いては西軍に参加し豊臣家没落後の元和元年(1615)6月、父忠興の命により、城州・東光院にて自決したとされている。33歳。
おなべ様の中の父・興秋の記憶とはどのようなものであったろうか。おなべ様の生母(氏家元政女)は興秋の死後すぐに飛鳥井中納言持信に再嫁したから、おなべ様は生母とも引き裂かれたのだろうか?
興秋の死から14年後のこの奉行所日帳が語る一つの記事が、興秋の不幸な最期を考える時切なく迫ってくる。

 しかし三か月後の奉行所日帳はおなべ様の嬉しいニュースを記録している。 

  寛永六年九月十日            鳥うたい候て、
一、遠藤吉右衛門尉登城にて申候ハ、御なへ様今夜〇七つ時分ニ輙御祝被成候、江戸へ便宜御座ハヽ、
  御分を可被進之由、被仰由也、心得申候由申候、御息女之由申候也、

      長岡與五郎興秋                                                                     
           ‖---------                                        
      氏家元政女●          ‖----------伊千(のち、米田是長室)          
                                  南条元信
                6,000石




 

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興(三斎)文書-元和八年」を読む (2)

2023-06-03 05:47:59 | 先祖附

 忠興(三斎)文書-元和八年

337、五月朔日書状
 ・来九月、秀忠本丸移徙ノ進物
 ・久世廣宣中風之こと
 ・中津作事ニツキ土井利勝ノ請合ヲ得タレド、能請合ハ却テ成ルマジ
 ・秀忠日光社参、御供二万事ノ外警固厳重
 ・江戸城普請ニツキ大名衆賜暇
 ・細川玄蕃(興昌)ト井上正就ノ縁辺調ハズ、玄蕃妹縁談ハ未ダ公許ヲ得ズ
 ・松平忠直ノ出府遅々トシテ進マズ
 ・黒田‐藤堂間ノコト、我々関知セズ
 ・上記、秀忠移徙ノ進物伊丹康勝ト談合無用ノ由

338、五月十四日書状
 ・有吉立道ノ後妻ニ三渕好重女ヲ配セントス、忠利ノ意見ヲ乞ウ

339、六月十九日書状
 ・細川玄蕃妹縁談未ダ定ラズ
 ・五月十九日江戸城本丸修復ノ為秀忠ハ西ノ丸ニ移徙、家光ハ本多忠政邸へ  (実ハ家光ハ四月廿一日)
 ・曽我尚祐湯治

(元和八年夏・米田是季帰参ス)
913、月日未詳書状 御ち(門川備中女)宛書状
 ・米田是季ノ召抱ハ忠利ノ意次第

340、七月三日書状
 ・七夕ノ祝儀

341、七月十三日書状
 ・盆ノ祝儀(蓮飯三荷・三種)到来

342、七月二十六日書状
 ・前田利常室(秀忠女・球姫)死去ノコト
 ・松平忠直未ダ江戸へ下ラズ

343、八月十三日書状
 ・木下延俊女(忠興外孫)七月廿ニ日祝言、珎重候
 ・家光、川越ニ御成ノ予定(八月廿一日放鷹、酒井忠利邸泊)
 ・最上義俊改易ノ理由ヲ知リタシ
 ・藤堂家ノ婚礼ノコト

344、八月十六日書状
 ・(十四五年已前)石井筒献上二ツキ阿部正次ゟ問合セ受ルモ覚不申、小笠原民部・松井興長ニ小倉デ知ル者アラバ直申遣ス
 ・最上義俊改易赦免ノ説
 ・茶屋四郎(清次)病死
 ・三斎近日灸ヲ可仕コト

345、九月七日書状
 ・重陽ノ祝儀到来

346、九月十五日書状
 ・忠利迄最上氏改易ニツキ土井利勝自筆書状ヲ三斎へ届ク
 ・松平忠直、江戸下向ノ噂
 ・曽我尚祐病本復ス
 ・東国大名衆江戸ニ逗留ス

347、十月十七日書状
 ・本多正純改易、依怙ノ肝煎ナド発覚セバ、成敗モアルベシ
 ・黒田長政、本多ㇳ好誼アル故危カラン
 ・竹中重義・松倉重政等ハ才覚者ナレバ無事ナラン

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■池邉吉十郎宛西郷隆盛書簡ー2

2023-06-02 06:47:38 | 先祖附

 こちらは熊本県立図書館が所蔵する「西郷隆盛より池邉吉十郎あて書簡(C/206.4/サ/)」である。
読み下しにチャレンジしているが中途半端の状態で完読には至っていない。

         

        以使者迅速其意候 偖過      
        日御招■(請カ)申置たる石塘口之      
        水留メ之儀日々水勢増長
        致し所謂水海之如ク駈■味
        方へ不利ヲ来ス事無量
        唯今之処ニテ者何分城内ヘ
        乱入之見込附不申最モ當城者
        遉日本之三名城之一城なれは
        中々容易落城極候事見込仕
        之 況哉谷干城も當城槨ニ
        楯籠り必死之場合ニ見止ンヤ
        候 向後迚も数日ヲ経たるとも
        當城城内へ打入事出来
        不申候 加之田原坂 木戸米(木留)
        頻ニ襲来近衛兵非常
        打入申之使方も相知連候様子
        猶又近日者八代沖合嶋源へ
        海境ニ者早海軍就各
        来■■候段■卦■■且
        時ニ砲聲も曳聞へ候就
        テ者最早當所之本陣者甚
        覚束無し 依テ今日夜迄ニ當
        地ヲ退松橋へ夜退陣之事
        ニ相究候間先ニ夫方も直ニ同地ヘ
        速ニ御退陣被濟度願入候 猶
        拝眉之上可■速■他ニ術
        無之候 右早終リ以テ毎
        用御懸命■し候 謹言
            三月九日 西郷隆盛
        池邊吉十郎殿

 この書簡を見ると熊本城下の水攻めは池邉が提案したことが判るし、西郷はそれが味方にとっても不利になると言っている。
熊本城攻撃については「當城者遉(さすが)日本之三名城之一城なれは中々容易落城極候事見込仕之」とし、落城させるのは難しいと判断していることが判る。
有明海には政府軍の軍艦が姿を現したし、松橋あたりまで本陣を後退させたいといい、池辺にも退陣するように促している。
しかしながら、熊本城攻撃は実行され官軍・薩軍ともに多大な被害が出た。水攻めは双方に一時の休息を与えたかもしれない。
そして松橋への本陣の交代は果たして実行されたのか。
熊本史談会6月例会では、熊本に於ける「西南の役」研究の第一人者・勇知之先生のお話しの二回目をお聞きする。
この書簡についても、ご説明があることだろう。面白いお話が聞けそうである。

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■御扶持方御切米御帳(10)

2023-06-01 10:40:30 | 先祖附

 所々御番衆(1)

一 貮人扶持八石        御本丸東御門番 坂井勘兵衛
一 貮人扶持五石            同   加藤与左衛門
一 右同断               同   樋井市左衛門
一 右同断       御本丸御数寄屋下御門番 麻生三右衛門
一 右同断               同   天野久兵衛
一 右同断               同   吉田久左衛門
一 右同断               同   花岡次郎左衛門
一 右同断               同   大野源兵衛
一 貮人扶持五石        御本丸闇御門番 右田与右衛門
一 右同断               同   土屋太郎右衛門
一 右同断               同   野村九郎兵衛
一 右同断               同   田中久左衛門
一 右同断               同   高瀬少左衛門
一 右同断         御本丸四ッ辻御門番 今永弥左衛門
一 右同断               同   西 善左衛門
一 右同断               同   篠田吉左衛門
一 右同断          御本丸御裏御門番 田中六兵衛
一 右同断               同   渡 長左衛門
一 右同断               同   塚本与左衛門
一 右同断            竹御丸御門番 門岡忠左衛門
一 右同断               同   井上彦左衛門
一 右同断               同   山田茂左衛門
一 右同断               同   松尾勘左衛門
一 右同断           竹御丸下御門番 塚本吉右衛門
一 右同断               同   吉村源左衛門
一 貮人扶持五石            同   堀 孫右衛門
一 貮人扶持拾石            同   柿本喜左衛門
一 貮人扶持八石          御天守手傳 佐田理右衛門
一 右同断               同   安見専右衛門
一 右同断               同   安藤清左衛門
一 右同断               同   清原喜兵衛
一 右同断               同   高見与三兵衛
一 右同断               同   榎本久右衛門
一 貮人扶持拾石            同   真野吉右衛門
一 右同断               同   矢野清右衛門
一 右同断               同   市丸勘左衛門
一 貮人扶持五石         西大手御門番 福井市左衛門
一 右同断               同   江崎加兵衛
一 右同断               同   村田惣兵衛
一 右同断               同   緒方何右衛門
一 右同断               同   深町茂右衛門
一 右同断               同   伊藤善兵衛
一 貮人扶持七石         南大手御門番 今橋喜兵衛
一 右同断               同   井口善太夫
一 右同断               同   上田五右衛門
一 貮人扶持三石            同     三丞
一 貮人扶持五石         北大手御門番 佐藤新兵衛
一 右同断               同   土方久太夫
一 右同断               同   松尾藤右衛門
一 右同断          御奉行所口御門番 河内又兵衛
一 右同断               同   小島角右衛門
一 右同断               同   小野与兵衛
一 右同断               同   杉山与兵衛

一 三人扶持八石         同所刀懸ノ番 林 傳兵衛
一 右同断               同   月方惣左衛門
一 右同断               同   土方三左衛門
一 右同断               同   八坂次右衛門
一 右同断               同   尾藤仁右衛門
一 貮人扶持五石          時太鼓御番 岩屋清助
一 右同断               同   尾崎長兵衛
一 右同断               同   津野傳左衛門
一 右同断               同   岩松長左衛門
一 右同断               同   山本与三左衛門
一 右同断               同   高宇田市左衛門


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■大日本近世史料・細川家史料「忠興(三斎)文書-元和八年」を読む (1)

2023-05-31 07:00:41 | 先祖附

 忠興(三斎)文書-元和八年

327、正月三日書状(三斎在国・忠利江戸12月14日着)
 ・年頭ノ祝儀 

328、正月十六日書状
 ・金森可重遺物(染付鹿之香炉)を給い礼状が延引、心外

329、正月廿一日書状
 ・三斎江戸屋敷(愛宕下?)の作事
 ・忠利(12月16日)・新發智(光尚・21日)、秀忠並びに夫人ニ謁す
 ・松平忠直未タ参府セズ
 ・忠利、秀忠ヨリ鷹ノ鶴、米ヲ拝領ス
 ・秀忠西丸ニ移リ、家光川越ニ赴ク

330、正月廿一日書状
 ・忠利屋敷ト三斎屋敷トハ程遠シ、屋敷普請ノ進捗ヲ督促ス

331、二月十七日書状
 ・家中京借銀ノ三斎袖判證文ヲ取返シ烏丸光賢室(三斎女・萬姫)ニ預ク
 ・幕府年寄衆ニ御振舞アリ
 ・加藤明成邸火事
 ・松平忠直ニツキ沙汰ナシ
 ・忠利、諸大名妻子江戸移居ニツキ土井利勝ト談合ス
 ・家中人質ノ交替ノ件ハ既ニ承知スミ

332、二月十七日書状
 ・元和五・六年、湯布院・横灘ノ幕府蔵入地ノ勘定一覧拝見、幕府蔵奉行大唐米ヲ請取ザルニヨリ賣替ニ手間取ル
 ・江戸蔵前堀割工事ノ為米ノ蔵入ヲ延引ス、切手到着次第算用スベシ

333、二月十七日書状
 ・細川興昌(忠興甥)従五位下玄蕃頭ニ叙任
 ・愛宕下屋敷、事済候コト

334、三月九日書状
 ・松平忠直御煩ノ使・近藤縫殿、帰路落馬ニテ死ス
 ・三斎屋敷ノ作事ノ念ノ入ㇾ具合ハ奉行次第、早期完成ヲ申付ラレタシ

335、(月日未詳)覺書  略す

336、四月晦日書状
 ・端午ノ祝儀、祝着

337、五月朔日書状
 ・

          

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興(三斎)文書-元和七年」を読む (3)

2023-05-25 10:34:27 | 先祖附

忠興(三斎)文書-元和七年

311、九月廿八日書状
 ・鷹ノ鶴二ッ給、令満足候

312、九月廿八日書状
 ・上方町人ニ豊前ノ山林ヲ請ケシム

313、九月廿八日書状
 ・老後ノ慰ミノタメ鷹場ヲ所望ス
 ・惣国鉄炮留
 ・四郡ヲ三斎餌差場トセラレタシ

314、十月三日書状
 ・梅若ノ能面ヲ請取ル

315、十月七日書状
 ・亥ノ祝儀、令満足候

316、十月十一日書状
 ・常ニ目まいノ氣分

317、十月十二日書状
 ・鴈一ッ給、令満足候

318、十月十三日書状
 ・隠居見舞不参ニツキ無分別ヲ申シ後悔ス 
    (原文=我々隠居不見廻者共之事、此以前無分別ニてむさと志たる儀を申、後悔ニ候) 記事301、309参照されたし

 ・中山勘解由一両日中肥後下向

319、十月十八日書状
 ・家臣ヨリノ銀子返済ノコトナド聞届クル氣力全クナシ
  公儀傍輩ノコト以外ハ耳ニ入ルゝニ及ズ
 ・家中縁辺(結婚)ノコトハ関知セズ

320、十月十九日書状
 ・能興行ニ折給、満足

321、十月廿日書状
 ・家臣ニ取替タル家ノ代銀及ビ大坂ノ川舟ヲ忠利ニ渡ス

322、十月廿六日書状
 ・移徙祝儀ノタメ忠利中津ニ立寄ルノ要ナシ
 ・国中貸米ノコト
 ・立花宗茂書状拝見
 ・(忠興女相婿)臼杵藩主・稲葉典通と日出藩主・木下延俊ノ不仲ヲ和解セシメン

323、十一月五日書状
 ・臺子棕梠箒ナドヲ贈ラル

324、十一月十三日書状
 ・算用ノ餘米ヲ家中ニ貸すベシ

325、十一月廿日書状
 ・国中ヘノ貸米(500石程)
 ・家中貸銀取立分五十貫目ヲ請取ル
 ・大坂ニテ取立タル銀ヲ中津ニ送ラレタシ
 ・小身者ノ借米借銀取立
 ・三渕伊賀(好重=忠興叔父)借米可成取立、残候米ハ借状可被申付
 ・忠興袖判ノ上方借銀
 ・忠利江戸召連ノ者ノ借銀借米ヲ切米ト差引ク、銀子出入ノ者ハ穿鑿中

 (忠利十一月下旬小倉出立、京都吉田滞在を経て、十二月十四日江戸到着)

326、十二月廿七日書状
 ・松平忠直ノコト
 ・歳暮ノ祝儀、令満足候

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興(三斎)文書-元和七年」を読む (2)

2023-05-24 06:41:47 | 先祖附

忠興(三斎)文書-元和七年

299、九月三日書状
 ・忠利、嫡子六丸ヲ江戸ニ同道セントス
 ・忠利室・千代姫ノ江戸下向ハ土井利勝ト相談ス
 ・万事仕置ハ忠利ノ意向次第

300、九月四日書状
 ・為重陽之祝儀、喜悦

301、九月五日書状
 ・忠興隠居後、未ダ見舞ニ不参ノ者アリ
 ・重テノ催促ニモ不参ハ訝シ
 ・外聞モアレバ然ルベキ様申付ラレタシ

302、九月八日書状
 ・たいらぎ十七送給、祝着

303、九月十一日書状
 ・大坂廻米ノ運賃ハ六分
 ・国中浦々ヨリ小倉ニ廻ス米ノ運賃高シ

304、九月十二日書状
 ・祇園神事能、十一日雨天ニヨリ一日日延

305、九月十六日書状
 ・花畠ノ柿ノ初成一籠(十五)給、祝着

306、九月十九日書状
 ・忠利中津知行取ノ小物成ヲ忠興ニ附ス、(三斎返)中津侍ノ小物成ハ忠利ノ取ルベキモノ
 ・銀米ニ事欠カバ書立合力ヲ乞ハン

307、九月廿日書状
 ・給人へ貸付ケタル米銀ノ取立、中津召連ノ者家モナキ故知行ノ口明ヲ早ム
 ・中津城普請竣工セザルモ歩小姓等ヲ小倉ニ返ス

308、九月廿ニ日書状
 ・小者・仲間ヲ返す

309、九月廿六日書状
 ・大坂普請無精者ノ処分
 ・国中ノ苦労ユヘ無用ノ者中津ヘノ見舞ハ不要 (301、九月五日の書状により多くの侍が中津に見舞に押し寄せたため)
 ・忠利ニ台所人ヲ返す

310、九月廿七日書状
 ・小倉北ノ丸ノ植木ヲ中津ニ移ス

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■幽齋「九州道の記」五月廿三日条

2023-05-23 06:54:20 | 先祖附

     くれわたる鐘の御崎をゆく舟に我は忘れずふるさとの夢

 九州道の記。五月廿三日條「赤間關を出て行けるに、雨の名残にや波かぜの荒き故
に、小倉に泊りて、明る夜をこめて舟よそひして、筑州箱崎をさして行に、船人の、
これなむ金が御崎といふ、昔鐘を求め舟に載てきたり、汀近く成て取落して、今に有
と云。日和のよき時は龍頭などみゆるよしを語る。勅撰名寄には、金と云字を書たり
と覺えけるが、鐘にて有べきなどと友達抔に語りける次に、萬葉に、我は忘れずしか
のすべ神と哉覽讀たる事など思ひ出て」。さて右一首をしるし、續いて「かやうに云
戯れ、こぎ行程に、夕浪荒くなりて、やう/\志賀の島に著て、金剛山の宮司の坊に
やどりて」云々。この記事興味多し。二條流の幽齋、なか/\勉強家で、又、強記で、
勅撰名寄の文字を正し、萬葉の歌まで想ひ出し、同舟の友達等(勿論、西征の諸將)
に講義してゐるのである。鐘御崎、筑前國宗像郡の岬角で、響灘に突出してゐる。續
                 (博か)
西遊記に見える梵鐘傳説を、吉田東吾傳士は「附會ならむ」と斷じ、金御崎が正し
く、昔金を採掘したる所といふやうに述べてゐる。萬葉の歌といふは、巻第七雑歌、

    ちはやぶる
 千磐破金之御崎をすぎぬとも我は忘れじ志賀のすめ神

を指す。幽齋これを本歌に取つて、自分は志賀の神よりも故郷の方が忘れ難い、と
「戯れ」たのである。初句「暮れわたる」は單に時刻を現がすのみでなく、第二句
「鐘」にかかつて、入相の響きをも持たせてゐる。〇新村出博士著「南蠻記」昭和十八年五月刊
の中に「沈鐘の傳説」といふ一偏あり、幽齋の書いた鐘にも言及して、「後人の附會
     〇  〇
にもせよ鐘神と解して置いて、此海中の沈鐘をば宗像志賀の諸將の所爲とすることも
出來よう」云々と述べられた。

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和六年」を読む (2)

2023-05-19 06:10:18 | 先祖附

忠興文書-元和六年(閏十二月廿五日、忠興致仕し隠居す)

211、六月八日書状
 ・木下延俊(忠興女婿)ノ家臣丹羽九郎兵衛幕府ニ目安ヲ上グ
 ・同上、幕府取上ズ
 ・同上、九郎兵衛妻子ヲ捕フ
 ・同上、土井利勝ノ帰府ヲ待チ九郎兵衛ノ身柄ヲ延俊ニ渡ス様ニ才覚
 ・延俊女(忠興孫)ノ縁談・・・(未だ確定せず)

212、六月八日書状
 ・(松井家江戸證人)松井政次帰国ス(替り之證人に松井興長母・自得院江戸着による)
 ・栗石ノ売却
 ・和子入内ノ進物ハ不要ノ由ナルモ便宜次第差上ゲベシ
 ・市橋長勝歿シ、甥長政家督ヲ相続ス、驚申候事
 ・小倉城修理ヲ許サル
 ・酒井忠行ト松平定勝女トノ婚礼
 ・先年五百石積以上ノ船ヲ禁止スルニ大船建造ノ噂アリ、小倉藩ニハ四百石以上ノ船ナシ
 ・黒田長政竹千代及徳川頼房トノ縁談ヲ才覚ス
 ・長政危篤ノ事小倉ニテハ噂ナシ

213、六月八日書状
 ・興元女(忠興姪)ヲ善悪ニ構ハズ嫁セシメタシ、
 ・興昌、井上正就女トノ縁談ノ吉左右ヲ待ツ

214、六月晦日書状
 ・(六月十八日和子入内)土井利勝ヨリ入内ノ祝儀ハ手軽ニスベシトノ指示アリ
  国松ニ緞子・銀子ヲ進献スベシ
 ・藤堂高次トノ親交ヲ勧ム
 ・忠利、毛利高成ト佐久間安政女ノ婚約ヲ斡旋ス
 ・奉公人之儀、知足院ハ各別ニ候間、抱可申候
 ・竹千代・国松叙位ノ祝儀ニツキ土井利勝ヨリ指図アリ
 ・大阪城普請ハ十月中ニ終ラン
 ・江戸下向ハ一月トナラン

215、七月三日書状
 ・江戸・小倉・京上方ニ流行病
 ・烏丸光賢室(忠興女・萬姫)男児出産
 ・上方・小倉大水
 ・黒田長政病癒ニテ出仕
 ・長政、権門ト姻戚タラント才覚ス
 ・後藤又一郎(又兵衛子息)ノ病、唐人薬ノ使用
 ・立花宗茂ノ書状詳報セザルハ不念
 ・在国ノ大名ヨリ幕府出頭衆へ普請ノ様子ヲ報ズル者アレド左様ノコト厭ナリ
 ・普請ニ遅レズ石垣を崩サズ竣工スレバコトナシ

216、八月十日書状
 ・志んほち(六丸=光尚)病気・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・志んほち= 新發智)
 ・忠利、加藤嘉明と入魂、左様ニ可在之こと
 ・黒田長政徳川頼房トノ縁談を才覚ス
 ・小倉ニ唐船著ク

217、九月十日書状
 ・竹千代任官ノ祝儀ノ進物ニ付土井利勝ノ指示未無之
  銀子十五貫目・金入緞子二十端ヲ送ル
  入内祝儀ノ進物ノ輕キハ大阪城普請ニ支出多キ諸大名ヲ勞ル為ナラン
 ・木下延俊家臣ノ目安
 ・與安法印女、本多正純養女トナシ松倉勝家ニ嫁
 ・島津家久トノ親交ハ無用
 ・田中忠政ノ訃(柳川城主‐元和六年八月七日歿)
 ・柳川藩仕置ノ為岡田将監下向予定ノ報懇切、小倉ヲ通ラバ謝礼セン

218、九月十日書状
 ・細川興昌(矢田部藩主・忠興甥)及び同人姉ノ夫々ノ縁談ノ吉左右
 ・忠興眼病再発ス

219、九月二十三日書状
 ・土井利勝ヨリ至急出府スベシトノ指図アリ
 ・遠路病中ノコトナレバ十月中出発ハ不可能ナラン

220、十月十三日書状
 ・忠興去四日小倉出船ー九日摂津傳法著ー十日大坂普請場見廻ー十一日出京ー十二日御入内御礼
 ・土井利勝ノ指図ヲ誤報シテ急ギ出発、下々甚ダ迷惑、以降ユルユルと可参
 ・竹千代元服任官ノ祝儀ハ濟、国松不明
 ・忠利、故田中忠政ノ屋敷ヲ望ムー忠利夫人為ト望ハ如何?

221、十月十六日書状
 ・廿日ゟ廿ニ日ノ間吉田出立、十三泊程ニテ江戸到着ノ予定
 ・忠興江戸入ノ際、曽我古祐・妻木之徳・細川玄蕃ノ出迎ヲ留ムベシ

222、十月十六日書状
 ・柳河在番中ノ内藤政長・秋元泰朝ノ書状ヲ預リテ先ニ送ル

223、十一月三日書状
 ・忠利ヨリ迎トシテ書状菓子筋子ヲ送ラル

224、十一月四日書状
 ・三嶋ニ著ス
 ・出迎ハ無用
 ・忠利帰国ノ暇ハ忠興ノ江戸到着後タルベシ
 ・民部卿局ト前後シテ下向ス

225、十一月六日書状
 ・七日江戸到着ノ予定 
 ・振舞ニハ心安キ衆ヲ招クベシ

226、閏十二月七日書状(忠興十一月七日江戸到着、忠利ハ同月廿八日江戸出立・帰国ノ途ニ就ク)
 ・忠興病ム
 ・忠利先月十五日吉田参著、女御ヘノ祝儀ヲ済シ下国ス

*忠興元和六年閏十二月廿五日致仕、薙髪シテ三斎宗立ト號ス、
 元和七年四月十日帰国ノ途次、京都吉田ニ立寄リ、ヤガテ帰国シ、小倉ヨリ中津ニ移ル
 忠利モ江戸ヨリ帰国、封ヲ嗣ギ、六月廿三日中津ヨリ小倉ニ移ル
1911、烏丸萬宛閏十二月廿五日書状(大日本近世史料・細川家史料八 p72~73)

(226~278は年未詳のものが紹介されている。これについてはここでは取り上げず、次回からは元和七年へ続く)

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■御扶持方御切米御帳(3)

2023-05-17 08:21:32 | 先祖附

御竹様(忠利女・当時10歳)
 一 三人扶持八石              御乳人

 一 貮人扶持拾石              おかち
 一 貮人扶持五石              おさこ
 一 貮人扶持五石              おいぬ
 一 右同断                 おすき
 一 壹人扶持六石              ちゃあ
 一 貮人扶持拾石              おくめ
 一 壹石五斗                あさきり
 一 右同断                 よし
 一 壹石                  ちやこ
 一 壹石五斗                はき
 一 貮石                  ふく

真如院殿方
 一 三人扶持三拾石                真如院殿・・・・・・・・・・・・・・・・・(忠利女・藤生母 後・高見権右衛門室か?)
                     勝千代殿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(忠利末子・元知か?)
 一 三人扶持八石              御乳人
                     おくろ殿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(不明)
 一 壹人扶持三石              御乳人
 一 貮人扶持五石              さん
 一 貮人扶持七石              こな
 一 貮人扶持六石              あちや
 一 壹石五斗                つね
 一 右同断                 かん
 一 壹石五斗                あき
 一 壹石                  さゝ

御六様(後綱利・当時3歳)
 一 貮人扶持銀貮拾五枚           上壹人御仕著代
 一 貮人扶持同五枚             右之下女貮人分
 一 貮人扶持同拾五枚            御乳人
 一 貮人扶持同三枚             下御乳人
 一 貮人扶持同貮枚             下女壹人
 一 貮人扶持金小判八両           御さし壹人
 一 壹人扶持同壹両貮歩           右之下女壹人
 一 貮人扶持同三両             御しめし洗貮人
 一 壹人扶持銀貮百目・但白米五合完之    御腰元使壹人
 一 壹人扶持銀貮百目・但白米五合完之也   跡部太左衛門娘
 一 貮人扶持・内壹人扶持ハ中米之白米五合完 おゆき
 一 金小判四両                同人
 一 貮人扶持・内壹人扶持ハ中米之白米五合完 おかや
 一 金小判四両                同人
 一 貮人扶持・内壹人扶持ハ中米之白米五合完 おくり
 一 金小判四両                同人
 一 貮人扶持・内壹人扶持ハ中米之白米五合完 おかち
 一 金小判四両                同人

御藤様(忠利女・12歳)
 一 三人扶持貮拾石             おなあ
 一 三人扶持貮拾石             おすま
 一 貮人扶持拾貮石             おひこ
 一 壹人扶持五石               いま
 一 三人扶持拾貮石             御乳人
 一 貮人扶持拾貮石             おつま
 一 右同断                 おたい
 一 貮人扶持拾石              おやな
 一 貮人扶持拾石              おかね
 一 貮人扶持九石              おふり
 一 右同断                 おきち
 一 貮人扶持九石              おつる
 一 壹人扶持弐石弐斗            とう
 一 五扶持・壹人扶持ハ中米之白米五合完   尾上殿
 一 金小判貮拾両               同人
 一 貮人扶持拾貮石             おゆき
 一 貮石貮斗                もみち
 一 五石                  夕きり
 一 三石                  あこ
 一 五石                  かや
 一 貮石貮斗                ちよ
 一 銀子貮枚                なへ
 一 五石                  むへ
 一 三石                  こな
 一 銀子貮枚                たけ
 一 貮石貮斗                あいこ

 〇御扶持方合百三拾人扶持 内七人扶持ハ白米
 〇御切米四百八拾六石三斗
 〇金小判四拾八両貮歩
 〇銀子四貫三百貮拾貮匁
 
 

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和六年」を読む (1)

2023-05-17 05:49:38 | 先祖附

忠興文書-元和六年

199、正月十日書状
 ・幕府へ年頭ノ祝儀トシテ諸白樽ヲ進上ス
 ・忠利春甫ノ墨蹟ヲ望ム、忠利ニハ定家ノ和歌ヲ進ス、利休ノ墨蹟モアルカ
 ・天千代(興孝=江戸證人)二幕府首脳ノ音信
 ・黒田蔵人召抱
 ・大坂城普請ニ付大坂城普請奉行(守田守次)ヨリ書状
 ・同上、土井利勝ノ斡旋
 ・木下延俊女ノ縁談
 ・竹千代ニ鷹野道具進上
 ・忠利・天千代ニ秀忠ヨリ鷹ノ鳥ヲ拝領
 ・利休作竹ノ花筒、車僧(くるまぞう)ト名付ヶタル由来
 ・氣相散々にて書中しとろニ可在之候

200、正月十日書状
 ・松井興長母(康之室・自得院=沼田光長女)江戸證人ニテ江戸へ下ル
 ・くり石ヲ売却ス
 ・人抱ニツキ土井利勝ト談合シ幕府ノ許可ヲ受ク

201、正月十八日書状
 ・筑紫主水(後、広門)ノ身上ニツキ土井利勝ノ斡旋ヲ依頼ス

202、正月晦日書状
 ・松井興長母病ミ京都ニテ加療ノ後江戸へ下ル
 ・同上・江戸到着セバ松井政之(自得院甥=沼田与次郎光次)ハ返サルゝ筈

203、二月五日書状
 ・藤堂高虎、忠利ニ石ヲ伏見ヨリ大坂へ日雇ニテ運ブコトヲ勧ム
 ・細川興元女ノ縁談ニツキ報ズベシ
 ・人抱ノ許可
 ・東国大名衆江戸城普請ヲ分担ス
 ・浅野長晟、老臣浅野氏意ヲ成敗ス
 ・大阪城普請ノ用意
 ・山名禪高屋敷、成候は可有才覚候事
 ・大坂普請奉行自筆之はし書披見
 ・忠利、島津家久ト親交ヲ結ブ

204、二月五日書状
 ・大阪城日用ニテ普請ノ分ヲ再普請ス
 ・江戸城普請用石ノ調達ヲ命ゼラシ町人ニ伊豆ノ石場ノ石ヲ売ル
 ・五郎太石ノ売却
 ・秀忠鷹狩

205、三月十九日書状
 ・南蛮花ノ種給候、喜悦
 ・江戸城普請ニ付石ヲ献上ス
 ・竹千代・国松兄弟ノ上洛ノ時日判明次第急報スベシ
 ・伊丹勝長ト中川忠勝女トノ婚姻
 ・酒井忠世弟・西尾忠永死去訃報
 ・伊達政宗忠利ノ水指ヲ所望ス
 ・蜂須賀至鎮(忠利相婿)ノ訃報、無是非
 ・中津居住ノしんほち(六丸=光尚)ノ蟲氣、患ニハ非ず
 ・戸田氏銕・日下部五郎八殿、我等二肝煎
 ・松平忠重ト木下延俊(室・忠興女加賀)女縁談
 ・家臣死亡ノ跡知ニテノ人抱ニ付将軍ノ内意ヲ伺ウ
 ・小倉城修理ハ幕府ノ得ルモ行ハズ
 ・大阪城普請ハ遅滞セズ
 ・谷衛友役儀ヲ宥免サル

206、三月廿六日書状
 ・竹千代・国松兄弟ノ上洛ハ四月タルベキニ付進物ヲ送ル
 ・(和子)御入内内定シ五月上旬出立ニ付進物ヲ送ル
 ・小笠原忠知ニ具足甲ヲ贈ル
 ・南禅寺塔頭聴松院入院ノコトニ付、金地院(崇傳)ト圭西堂(前建長寺住持・忠興母光壽院甥)ノ出入
 ・忠興上洛ノ可否ヲ利勝ニ問ウ
 ・幕府年寄衆大坂へ赴ク
 ・進物ニ金銀ヲ添フルハ利勝指示次第、当座借ニテ才覚スベシ

207、三月廿六日書状
 ・藤堂高虎・黒田長政不和
 ・黒田長政女、竹千代ニ入嫁ノ噂ハ確カナルベシ、徳川頼房トノ事ハ如何
 ・土井利勝ト伊丹康勝ノ不和

208、三月廿九日書状
 ・大阪城普請ニ付奉行衆ノ指令ニ理屈申ス者アリ
 ・半役ノ衆数多アル故、普請ニ遅レザル様申クベシ
 ・西之丸北大角ノ石垣普請ヲ所望ス
 ・黒田長政領内ノ城ヲ破却ス、大坂城高石垣七十間分ノ普請を所望ス
 ・曽我尚祐、忠興ニ公役軽減ノ分別ヲ勧ム
 ・咳氣ヲ散々ニ患フ

209、三月廿九日書状
 ・和子入内ノ日取
 ・竹千代・国松兄弟ノ上洛ハ当年延期
 ・右三人ヘノ進物
 ・忠興上洛ノ可否ヲ土井利勝ニ尋ヌベシ
 ・三河・遠江・信濃譜代衆ハ上洛、東国衆ハ江戸逗留
 ・黒田長政縁辺ノ事きゝ度候

210、四月十八日書状
 ・和子入内ニ付上洛或ハ使者差遣無用トノ觸状アリ
 ・伊丹康勝ノ肝煎ニテ進物ヲ献上ス
 ・松井興長母・自得院、(江戸證人トシテ)江戸ニ著ス、松井政之ヤガテ帰国セン
 ・和子上洛ニ付土井利勝ノ通達
 ・五百坪ノ栗石
 ・来年江戸城普請ニ付秀忠駿府滞在ノコトは不定ナラズ
 ・妻木之徳(貞徳二男・旗本1,000石)女房衆親類ノ者召抱・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→妻木勘兵衛カ?
 ・木下延俊女(忠興孫)ノ縁談
 ・大阪城普請ニツキ大坂普請奉行(渡邊勝)細川家ノ為大ニ斡旋ス

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