二月か三月に一度くらい悪友が連絡して来るが、最近そのサイクルが短くなった。
話はというといつもの通りの他愛のない話ばかりなのだが、どうやら私の健康を心配してくれての事らしい。
「生死確認かい」と問うたら「それもある」と正直である。ありがたい話でお互い元気で頑張ろうとエールを交換して話は終わることになる。
奥様がご病気とか、亡くされて一人住まいとか、故あって男やもめとか、周囲を見回してもそんな方はたくさんおられる。
スーパーなどに買い物に出かけると、そんな類の方だろうと思われる方にいつも出くわす。
奥様のリクエストでもあろうか、メモを見ながらウロウロされている様は私と同様である。
今日は21日、今月中の妻の退院はどうやらアウトのようだ。もし退院となるとその旨の話があるのだそうだが、それがまだない。
9月いっぱいお互い頑張らねばならないようだ。余りにも暑いこの夏は、クーラーを効かせて家にこもっているが図書館に出かけるのもはばかられる。
ただひたすら読書を重ねていて、最近では冥土の土産のストックが増えてきた。若いころこれだけ打ち込んで勉強していたら、何かもっと違う世界が見られたのではないかと思ったりもする。
愚痴を言っても始まらない。生きて居ての物種だ。もうしばらく健康でいて、悪友の元気な「生死確認」の連絡を楽しみたいものだ。
「元気でな」「お前もな」・・・と。
細川家の菩提寺の一つ泰勝寺は、細川幽齋公の諱号「泰勝院殿」に由来する。慶長15年(1610)8月20日に逝去された。
京都紫野の大徳寺に嫡子・忠興が菩提所として「高桐院」を建立したが、幽齋自身の墓所はここにはない。
南禅寺之塔頭「天授庵」に葬られている。
幽齋が死去した時期、嫡子・忠興は小倉に居城していたから、当然国許の墓所・泰勝院が建立された。
寛永九年忠興の子・忠利が熊本に移封されると、忠興は八代城に入り幽齋の墓所も八代へ移されている。
熊本の泰勝寺が建立されたのは、寛永14年忠利の手により、幽齋・麝香夫人及び忠利の母・ガラシャの菩提を弔うために立田の地に建立された。当時は泰勝院と呼ばれていたらしい。
のちに忠興のお墓と共に「四つ御廟」と呼ばれるまったく同じ大きさの墓石が四つ並んで大変印象的である。
護熙さまのご夫人・佳代子さまは日頃「細川家では女性が大切にされた証拠」だと良く話されていたことを思い出す。
立田の泰勝寺はガラシャの子・忠利によって建立された。忠利は父・忠興より先に亡くなっているから、忠興の死後、光尚によって四つ御廟は完成形を見たことになる。
そういう歴史的背景を考えて、あの素敵な(・・?・・)御廟をみると、また感慨深いものがある。
幽齋公が亡くなられて414年、「幽齋公没後400年祭」からすでに14年が経過した。当時のあわただしさを思い出している。