大塚退野先生のご子孫とはかって資料をお送りいただくなど交流がある。
さて「退野」をどう読むのかという疑問がずっとあったが、やはりこれは音読みで「たいや」と読むのが順当だろうと思うが如何だろう。
「たいの」と読む方もおられるが、そうなると重箱読みになる。
この退野という号は自らお付けになられたものではない。退野は本名・大塚藤左衛門久成、41歳に至り丹左衛門と改名している。
号は初め蹇齋、のちに孚齋とした。退野の号は番頭の中瀬柯庭(助之允)が付けたという。丹左衛門が致仕後のことであったらしいが、私は「野に退く」の意であろうと単純に考えているが、中瀬の頭には退野の朱子学に転じたきっかけとなった「李退渓」の「退」を絡ませたのではないかとも思ったりする。
「退野の字御考下され是亦忝奉存候、御思召付至極と心付、其儘用申候、猶更出處も御座候て別て本意に叶申候」と書簡に托しているが、「出處も御座候て」という文言が気にかかる。
種々出典:今村孝三氏論考「大塚退野の生涯と著書」より
インターネットで全く偶然、「大塚退野の生涯と其の著書」という論考に出くわした。大正10年に「文學士・今村孝三」が著した論考である。
大塚退野とは横井小楠が師と仰いだ人物である。「国を憂へ君を愛するの誠彌深節に有之、眞儒とも可申人物に御座候、ー拙子本意事此人を慕ひ學び候事に御座候」とは、小楠が久留米藩の本庄某に與へた書簡の一節である。
退野は初め陽明学を学んだが、後には朱子学に転じたと言われる。それは李退渓の「自省録」を読み初めて朱子学を志したという。
本来日本の朱子学は遠く鎌倉時代に全総によってもたらされた。(と承知してきた)しかしながら小楠が学ぶ朱子学は、李退渓の学説によるものである。
私が不思議に思うのは、今村氏は「内田周平・熊本學風の歴史的觀察」という文章を引用して「要之、退野の旨とする所は知行合一、躬行實踐なり。熊本に於ける實學派の泰斗横井小楠、その親友元田東野、荻昌國等甚退野を慕ひ、その道を傳ふ。實學の名穪退野の學より來れりと云はれる。」を引用しているが、知行合一、躬行實踐まさしく陽明学の教えではないのかと理解していた。
熊本における陽明学は、幕府により陽明学が異学とされると寛文九年十月、有為の士が追放されるという出来事があった。
このことは、高野和人氏著「肥後の書家・陽明学者ー北嶋雪山」の生涯に詳しいが、浅学菲才の身では、李退渓の朱子学と陽明学の違いが良く理解できない。
朱子学と陽明学の関係は大方重複する部分を持ちながらもその深意の部分は明らかに異なっていると言われるが、知行合一、躬行實踐などという言葉が出てくると爺様はすっかり頭がこんがらがってくる。
そこで、「遅ればせながら読むー朱子学と陽明学 (ちくま学芸文庫 コ 41-1)」という事で、この本を注文した。
私の疑問に答えてくれるでしょうか?