ぴえーるさんはご自分のブログで、「細川忠興の官位を考える」として、忠興の越中守叙任の時期について考察されている。「寛政重修諸家譜」は文禄二年~三年、「系図纂要」は文禄二年六月、「藩翰譜」は天正十三年だとし、「山上宗二記」に長岡越中守とあり宗二記の編年から天正期に間違いないだろうとされ、又大谷由己の「柴田合戦記」(奥書天正十一年)に長岡越中守忠興とある、と指摘される。
(いつもながら、いろいろお詳しいことに驚嘆する)
綿考輯録をひもとくと、「越中守」が正式に見えるのは、天正十二年五月十一日付け、小牧の戦いで活躍した西川与助・山本又三郎に秀吉が与えた感状に、「長岡越中守殿手」とあるのが初見だと思われる。翌天正十三年七月十一日秀吉は関白に叙任されるが、この時忠興は「叙従四位下被任侍従」羽柴姓を賜り「羽柴越中守」となったと記している。慶長五年細川姓に復し、羽柴の名乗りは15年でついえた。
最近ぴえーるさんはBBSを閉鎖された。為に、あえてここにご紹介するものである。
(いつもながら、いろいろお詳しいことに驚嘆する)
綿考輯録をひもとくと、「越中守」が正式に見えるのは、天正十二年五月十一日付け、小牧の戦いで活躍した西川与助・山本又三郎に秀吉が与えた感状に、「長岡越中守殿手」とあるのが初見だと思われる。翌天正十三年七月十一日秀吉は関白に叙任されるが、この時忠興は「叙従四位下被任侍従」羽柴姓を賜り「羽柴越中守」となったと記している。慶長五年細川姓に復し、羽柴の名乗りは15年でついえた。
最近ぴえーるさんはBBSを閉鎖された。為に、あえてここにご紹介するものである。