津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■今日は興文公のご命日です

2016-07-05 08:27:18 | 歴史

 天明五年七月五日は宇土支藩・五代藩主細川興文公の命日である。同時代をいきた本藩当主細川重賢公とならび名君と称せられた。
肥後人名辞書に曰く

延享二年宇土細川の封を襲ぎ宇土郡三萬石を領す。是より先宇土の藩政漸く弛み、國用亦疲耗し、士人勤儉の實なく、惰弱華奢の幣に陥らんとす。
興文深く之を憂ひ、三條の調戎を下し、大に宿弊を一掃せんことを圖り、武を励まし文を奨め、實業を興し人材を擢用し、功臣の家を起し、敬神崇祖の
精神を養ひ、實践射行を以て一藩を指導督励したりしかば、紀綱大に振ひ、士風頓に革り、中興の明主として敬仰せらる。興文聡明敏達にして識見あ
り、威容厳然として意気剛邁、一見人をして容を改めしむ。夙に秋山玉山に師事して修養怠らず、詩書に最も長じ、其他槍術、馬術、茶湯、和歌連俳等
の類に至る迄、其道を極めざるものなし。服部元喬、米田波門、高野蘭亭、坂井微郷等と交情最深かし。明和九年の頃南海の景地(不知火村大字桂
原)を選び、小庵を営み焦夢庵と號し、九勝地、十五景を定め、風月を樂みき。其西方數里網津村に鹿夢庵を経営して、遊■の休息所とせり。桂原遺構
は即ち焦夢庵の景を叙し、文人雅客應酬の詩文を集めたる冊子なり。其幽栖の歌に『山をわれ樂しむ身にはあらねどもたゞしづけさをたよりにぞすむ
と興文封に在ること二十有八年、天明五年七月宇土城に於て卒去す。行年六十一歳、仝郡泰雲寺に葬る。幽厳寺殿心海月翁大居士と號す。庶民涙を
呑んで之を哀悼せざるものなし。碩儒柴野彦輔評して曰く『宇土侯畏るべきなり、簡重雄偉之を望むに儼然たる百域の主なり、子小侯に似ず、其徳容
太宗に隠映す』と、以て其徳望の高きを知るべし。

 

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