肥後新田藩はについては、慶応4年3月4日10代藩主利永を始め、藩をあげて江戸を離れ肥後国玉名郡高瀬に下り、利永と家族は高瀬御茶屋に、家臣たちは高瀬町の商家や寺院に分宿した。
熊本藩国事資料によると、明治元年の今日7月29日高瀬藩と定めたとある。
家臣団の屋敷は玉名女子高等学校・玉名町小学校一帯に建設されたが、陣屋は明治3年に着工されたもの本藩に併合されたため完成を見ぬままに終わった。中央の白い敷地が陣屋跡である。