先の永六輔氏に続いて大橋巨泉氏の訃報が流れた。昭和のTV界の巨星が又消えた。
氏の名前は俳名からきているが、早稲田の俳句研究会に属していたが、新しく入会してきた寺山修司の句に接してその才能に勝目がないと早々と俳句の世界から足を洗ったというが、その後名前(俳名)だけは天下万民に知れ渡った。
どんな俳句を作っていたのだろうと前々から興味をもっていたのだが、ぐぐってみてもあまり出てこない。
稲妻やひそかに祈る無頼の子
菊匂い匂えど母の遠さかな
水汲みの老僧花へよろめきつ
浴衣着ていくさの記憶うするるか
恋失ひ歩めばバッタ跳びつきぬ
花冷えや学問をする灯をともす
ある人曰く寺山修司と比べるなんぞ・・・・寺山氏に失礼だと
すっぱり足を洗ったところがいかにも負けず嫌いの巨泉らしいではないか。一つの時代が終わった。
先の「八代蜜柑」から刑部卿つながりで・・・・
いまではお笑い草であるが、以前「刑部卿」という名が出てきたとき、私はすっかり細川刑部家のことと思い込んだことがある。
その後忠利公室・保壽院付の老女であることが判明して、赤面の至りであった。
同名異人がほかにもいて、いろいろな文献を読むうちに、豊臣秀頼に嫁した徳川千姫と行動を共にした老女もまた刑部卿であることを知った。先の「八代蜜柑」で書いたとおりである。
秀頼の許を離れた千姫にはいろいろな風聞が伝えられているが、上野国新田郡世田村大字徳川にあった満徳寺に入られたと伝えられる。
ここは有名な東慶寺に並ぶ駆け込み寺ともいわれるが、こちらは駆け込んだら終生尼として過ごさなければならない厳しいお寺であった。
「恐れながら台徳院様(徳川秀忠)御姫君(千姫)大阪御城より満徳寺へ御入院あそばされ、御離縁の御趣意相立、本多様へ御再縁あそばされ候。もっとも、姫君様御替りとして刑部卿局へ御住職仰せ付けられ、中興開山俊澄上人と申し上げ候」と由来書にあるという。
千姫も終生尼は如何かと、刑部卿局にその替りをたのんだというのである。しかし千姫は本多忠刻に嫁ぎ、のちには江戸城内で生活しているが、刑部卿も離れることなく終生千姫の許にあったとされる。
歴史考証家・稲垣史生氏によると、真実はというと刑部卿の替りがいてこの人物が満徳寺に居住したということらしい。