津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■生死確認

2024-08-21 11:12:43 | ご挨拶

 二月か三月に一度くらい悪友が連絡して来るが、最近そのサイクルが短くなった。
話はというといつもの通りの他愛のない話ばかりなのだが、どうやら私の健康を心配してくれての事らしい。
「生死確認かい」と問うたら「それもある」と正直である。ありがたい話でお互い元気で頑張ろうとエールを交換して話は終わることになる。
奥様がご病気とか、亡くされて一人住まいとか、故あって男やもめとか、周囲を見回してもそんな方はたくさんおられる。
スーパーなどに買い物に出かけると、そんな類の方だろうと思われる方にいつも出くわす。
奥様のリクエストでもあろうか、メモを見ながらウロウロされている様は私と同様である。
今日は21日、今月中の妻の退院はどうやらアウトのようだ。もし退院となるとその旨の話があるのだそうだが、それがまだない。
9月いっぱいお互い頑張らねばならないようだ。余りにも暑いこの夏は、クーラーを効かせて家にこもっているが図書館に出かけるのもはばかられる。
ただひたすら読書を重ねていて、最近では冥土の土産のストックが増えてきた。若いころこれだけ打ち込んで勉強していたら、何かもっと違う世界が見られたのではないかと思ったりもする。
愚痴を言っても始まらない。生きて居ての物種だ。もうしばらく健康でいて、悪友の元気な「生死確認」の連絡を楽しみたいものだ。
「元気でな」「お前もな」・・・と。

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■四つ御廟

2024-08-21 06:46:26 | ご挨拶

 細川家の菩提寺の一つ泰勝寺は、細川幽齋公の諱号「泰勝院殿」に由来する。慶長15年(1610)8月20日に逝去された。
京都紫野の大徳寺に嫡子・忠興が菩提所として「高桐院」を建立したが、幽齋自身の墓所はここにはない。
南禅寺之塔頭「天授庵」に葬られている。
幽齋が死去した時期、嫡子・忠興は小倉に居城していたから、当然国許の墓所・泰勝院が建立された。
寛永九年忠興の子・忠利が熊本に移封されると、忠興は八代城に入り幽齋の墓所も八代へ移されている。
熊本の泰勝寺が建立されたのは、寛永14年忠利の手により、幽齋・麝香夫人及び忠利の母・ガラシャの菩提を弔うために立田の地に建立された。当時は泰勝院と呼ばれていたらしい。
のちに忠興のお墓と共に「四つ御廟」と呼ばれるまったく同じ大きさの墓石が四つ並んで大変印象的である。
護熙さまのご夫人・佳代子さまは日頃「細川家では女性が大切にされた証拠」だと良く話されていたことを思い出す。
立田の泰勝寺はガラシャの子・忠利によって建立された。忠利は父・忠興より先に亡くなっているから、忠興の死後、光尚によって四つ御廟は完成形を見たことになる。
そういう歴史的背景を考えて、あの素敵な(・・?・・)御廟をみると、また感慨深いものがある。
幽齋公が亡くなられて414年、「幽齋公没後400年祭」からすでに14年が経過した。当時のあわただしさを思い出している。

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■置き土産

2024-08-20 17:18:13 | ご挨拶

 男やもめ生活は、面倒くさいから勢い食事が手抜きになる。妻が元気なころもあまり食べる方ではなかったから、量的には減ってはいないが、
栄養面などを考えて夕食はいろいろ考えてくれていた。
とにかく自分で何かを作るという事が出来ない。勢い店屋物か出来合いのお惣菜を買ってきて食している。
今日は、妻が注文していた某社が扱っている年間を通しての全国各地のご当地グルメの食品(今月は東北三県)が三品・7食分送られてきた。
当人は入院するなど思っていなかったろうが、そのグルメ食品が送られてきて、しばらくこれで料理が簡単にできると、置き土産をありがたく
受け取った。

少々体重が減りすぎて、もうそろそろストップをかけなければこの夏を乗り切れないと思っていたところで、ありがたく食することにしよう。
今日は買い物にも出かけずにすむ。今日も猛暑日になったのではないか・・・

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■時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ」

2024-08-20 06:49:32 | 地図散歩

 すでに諸兄に於かれてはご存じの時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ」という誠に便利なソフトがある。
例えば熊本市内に於いては1900年(明治33年)以降の九種類の地図を、2面表示または4面表示で見ることができるから、古い道筋や街並みの移り変わりを確認するには大変重宝する。
この地図で、旧街道の道筋を辿ったりしていると、色々思いがけない発見があって興味は尽きない。
熊本城下町地図で、新町や京町台から本妙寺田畑をへて牧崎あたりへ至る道筋が現在のどの道なのかがなかなか理解できないが、1900年の地図を見ると大方の見当はつく。
ご厚誼をいただいている「サイト・徒然なか話」さんの昨日の記事「京町台から見た金峰山」と晩夏に、甲斐青萍の絵が紹介されていたが、青萍はどこの場所からこの懐かしい風景を描いたのだろうかと想像するのも面白い。
古い城下町の写真を見ると、今は伺うことのできない「杉塘」の名の由来となった杉並木の道なども1900年の地図では伺うことができる。
昨日は多忙を極めて家に帰ったらへとへとになってしまったが、夕食後はこの「今昔マップ」でのんびりと過ごさせていただいた。感謝。

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■江津・斎藤家の茶室

2024-08-19 06:50:56 | 熊本

 一年前に「■中村汀女の鼻」を書いた。熊本に在った時期は、その美女ぶりは誰もが知る處であったらしい。
汀女の「高い鼻」に関するエピソードをご紹介した。

 処でここで私は「汀女は裕福な斎藤家の娘で、江津湖にはその斎藤家の名前を冠した「斎藤橋」がある。」と御紹介している。
ところがこの斎藤橋に関することで異説が飛び出した。先月の史談会に参加いただいた方が仰るには、斎藤家の一族が作ったのは間違い
ないが、「汀女の斎藤家とは違う」という事らしい。
因みにウイキペディアでは「地主で画図村村長だった斉藤清房が私財を投じて建築した。1929年’(昭和4年)6月16日に渡り初めが行わ
れている。当時は木の橋だった。現在は、江津斉藤橋として国道57号の一部となっている。」と紹介されている。

「歴史を勉強しておられる皆様には本当のことを知っていただきたい」と仰って、改めてご出席をいただきお話を伺うことにしている。
かっての市民病院(湖東町)近くに斎藤家の茶室(お茶屋?)があり、そこへ通うために架けられた私用の橋であったらしいが、後に
は一般市民に無料で開放された。

斎藤家一族が豪農であったことを物語っている。私はお茶室がどこに建てられていたのかを知りたくて仕方がない。
そして、その資料が残されていないのかも気になって仕方がない。

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■一つの時代の終焉

2024-08-18 06:17:02 | 熊本

 明治維新後純粋敬神の志を以て、負け戦必死の中で多くの志士が熊本城下の政府官僚や政府軍を襲撃したいわゆる「神風連の乱」は、
当時の熊本の
一つの精神文化を示すものだとして評価されてきた。
多くの資料を展示公開してきた「神風連資料館」が、今月末日を以て閉鎖される。
来館者の減少に伴い、維持継続が出来なくなったとのことである。そういえば私が最後に尋ねたのは何時だったろうかと、忸怩たる思い
が胸をよぎる。

桜山神社境内にあるこの資料館の貴重な史料は、熊本城内の熊本博物館に移管されるとの事だから、資料の散逸はひとまず免れている。
しかしながら、展示スペースが潤沢ではない熊本博物館だから、今までのように簡単に拝見することは出来なくなった。
故荒木精之先生をはじめ、資料館の設立運営にかかわられた方々の無念のほどが思われる。
一つの時代の終焉を思わせ、嘆息しきりである。
当ブログをご覧いただいている方々で、「神風連」関係者の方々が少なからずおられる。
「資料館」は閉館となるものの、桜山神社に祀られた方々については何ら今日までと変わることはない。
この様な結果を受けて、「神風連の乱」について改めて思いを致さなければならない。
日本各地に居られる関係者の皆様へのご報告である。

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■肥後は武の国

2024-08-17 07:06:46 | 熊本

 松江藩の桃節山が熊本を訪れた際の報告書ともいえる「肥後見聞録」に面白い記述がある。
                   (昭和51年8月発行「桃節山没後百年記念-西遊日記・肥後見聞録」からp98下段)
肥後藩士・安井左平太が案内役を勤めているが、広島で銭湯に行こうという事になった。
銭湯とはいえ武士であるからには刀を手放す事は出来ない。安井が両刀をたばさむこともなかろうというので、節山も同意して小刀を差して外に出ると、安井はなんと大刀一本を腰にしていた。
節山はさすが武の国と云われることだと感心しているが、熊本に入り注意して眺めてみると、まさにその通りであることに感心している。

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■喜雨

2024-08-16 19:44:29 | ご挨拶

          稲妻の激しきありて喜雨となり   津々

 夕方6時過ぎから凄まじい雷と稲妻が走り、落雷して停電にもなればこまるなあと思っていたら、凄い雨が降り出した。
喜雨である。健軍川は一筋の細い流れになってそろそろ干上がり枯れ川になるのは時間の問題であったが、なんと一気に川幅一杯に増水してしまった。
7時過ぎには止んでしまったが、南天には群雲の中に月が顔を出した。気温も1~2℃は下がったようで風も少し出てきたから、リビングと隣の空き部屋の窓を開けて風を通している。
処で今日は又猛暑日となっていた。しかしねる時には、クーラーを切って寝れるかもしれない。

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■極暑脱出?

2024-08-16 06:34:36 | ご挨拶

 朝窓を開けると涼しい風が吹いており、虫の声さえ聞こえて急に秋の気配である。
今日どうなるかは判らないが、昨日ひとまず、長く続いた猛暑日・熱帯夜がついに終わりを告げた。(28日ぶり?)
関東や東北には台風が襲来しているが、九州にはまだ台風が来ないというのも少々不思議な気がする。
農家では水不足が心配される状況があるらしいが、お湿り程度の夕立ではお役には立つまい。
豊かな水量を誇る熊本の地下水は、毎日おいしい水を水道供給してくれているが、今年の夏は少々生暖かい。
その水の温度さえ元に戻ったように思える。朝から熱中症対策にごくりといただいた。
真っ赤な太陽が昇ってきたが、少々雲があって今は雲間に隠れている。終日こんな具合であれば今日も猛暑日をクリアできるのだが・・・・
この春東京に就職した孫娘は18日に帰京予定、台風一過の後になりそうだが、天気を心配している。



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■クーラーを切る

2024-08-15 10:12:06 | ご挨拶

 今年の夏は極暑のせいで疲れはててしまった。食が細り体重も4キロほど落ちて最近では68~69㌔台をうろついている。
夕食後はTVでニュースを見るともっぱら読書だが、10時になるとベッドに入る。起床は5時過ぎである。
昨晩は寝る時クーラーにタイマーをセットして2時頃には切れるようにしてみた。暑ければまたつければよいと思って試してみた。
ところがクーラーが消えたのも知らずにそのまま朝を迎えた。窓を開けると風が涼しい。
どうやら最低気温が2℃ほど下がっているようだ。これはありがたい。
今日も日中は37℃とか予報されているが、夜は秋の気配が忍び込んでいるようだ。

昨日藤崎宮の秋の例大祭に触れたが、この時期になるとさすがの暑さも緩んで「随兵寒合」と読んで朝夕は随分涼しくなる。
ただ、このひと月は年寄りには応えそうだ。頑張らねばならない。



 

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■「木下延俊慶長日記」と細川家(2)

2024-08-15 06:27:07 | ご挨拶
 道中を前後しながら帰国の途に就いた延俊と細川内記は、途中の宿も同じ宿場に取り、親しく交流している。
 廿日以降延俊は京都に留まることになる。
 細川内記(忠利)と稲葉彦六はそれぞれの封地へ帰国したものと思われる。

慶長18年2       

 ・ニ月一日ーー昼彦六殿(稲葉典通)御同道成され、内記殿へお越し成され候。
 ・二月四日ーー(帰国の為)四つ過ぎ江戸ヲ御立ち成され候
        昼の御やすみかな河(神奈川)、晩の御とまり藤澤ニて候、細内記さま、稲彦六さまさきニ御着き成され候、
        日暮れかたニ内記さま御宿へ御越しに成られ候

 ・二月五日ーー晩ノ御とまりゆもと(湯本)にて候、内記さまも同書ニ御とまり成され候、殿様(延俊)は内記さまへ御出
        に成られ・・・
 ・二月六日ーー湯本ニ御とまり成され候也(大雨?ー中略)細内記殿も御出成され候、
 ・二月七日ーーとの様ハ吉原ト申し候所ニ細内記様御座候、それニて昼ノ御やすミ成され候。
 ・二月八日ーー今朝ハ細内記殿へ御振舞ニ御越し候(中略)(清水逗留)晩がたニ細内記殿御さそひ成され候て寺参り成さ
        れ候、それより殿様御やどへ御立より成され候て、久々に御咄し御振舞をだす

 ・二月九日ーー細内記様へ御越しに成られ候て・・・
 ・二月拾日ーー今日は天気能く御座候、細内記殿の御内膳州の処へきょうかを御よミ遣はされ候
 ・二月十一日ー内記さま、彦六さま、清水より御越し候(中略)内記さま、彦六さま御同道候て藤堂和泉守殿へ御越しに成
        され、能御座候由申候

 ・二月十二日ー(駿府)内記殿、稲彦六殿御城へノ御礼一度ニ御申候て御礼相済み申すとすぐニ駿河を御立ち成され候
 ・二月十三日ー晩の御とまりかけ河にて候、内記さまもかけ河ニ御座候て、内記殿御宿へ御より成され候て・・・
 ・二月十四日ーあらいノ御宿へ内記殿御出なされ、御咄し成され候也
 ・二月十六日ー宮(熱田)泊、今晩ハ細内記殿ニて御食参り候
 ・二月十七日ー(須また)泊、晩細内記殿御立ちで成され御咄候
 ・二月十八日ーゑつ河(愛智川)ニ細内記殿御座候、それへ御より成され候、
 ・二月廿日ーー草津発、せたニて細内記殿の御宿へ御座候、(京都着)二条ニ御座候也、細内記殿御見廻

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■藤崎宮御祭礼に付「殺生禁断」

2024-08-14 07:01:01 | 歴史

 いやはや暑い、昨日も熊本は38.4℃ひたすらクーラーのきいた部屋にこもる毎日である。
それでも夕方には夕立があったが、御湿り程度のもので話にならない。
先月の22日以来の猛暑日が続いている。
月末位になると藤崎宮の例大祭の馬追いの稽古で、時折風の具合で勢子の掛け声が聞こえてくることがある。
「随兵寒合」の訪れ迄あとひと月、まだまだ堪えねばならない。

 文化五年八月御達
一井芹川筋陣橋より下安國寺下迄、藤崎宮御祭禮之節迄、例年殺生禁断有之候處、
    此節別段放生被仰付候ニ付、神護寺舊記之通、右之場所以來御祭禮之節ニ不限、
 平日殺生禁断被仰付旨被仰出候
  但、井芹川井手筋は是迄之通ニて、本川筋迄本行之通被仰付候
 右之通可及達旨御用番被申聞候條、以下例文
   八月十四日            御奉行中   
        

                     左手上の赤文字が陣橋、左下の赤文字が安國寺、その間の着色部分が殺生を禁じられた祓川である。
                                                                  

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■閑話休題「大塚退野」

2024-08-13 13:13:18 | ご挨拶

 大塚退野先生のご子孫とはかって資料をお送りいただくなど交流がある。
さて「退野」をどう読むのかという疑問がずっとあったが、やはりこれは音読みで「たいや」と読むのが順当だろうと思うが如何だろう。
「たいの」と読む方もおられるが、そうなると重箱読みになる。
この退野という号は自らお付けになられたものではない。退野は本名・大塚藤左衛門久成、41歳に至り丹左衛門と改名している。
号は初め蹇齋、のちに孚齋とした。退野の号は番頭の中瀬柯庭(助之允)が付けたという。丹左衛門が致仕後のことであったらしいが、私は「野に退く」の意であろうと単純に考えているが、中瀬の頭には退野の朱子学に転じたきっかけとなった「李退渓」の「退」を絡ませたのではないかとも思ったりする。
「退野の字御考下され是亦忝奉存候、御思召付至極と心付、其儘用申候、猶更出處も御座候て別て本意に叶申候」と書簡に托しているが、「出處も御座候て」という文言が気にかかる。
                             種々出典:今村孝三氏論考「大塚退野の生涯と著書」より

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■遅ればせながら読むー朱子学と陽明学 (ちくま学芸文庫 コ 41-1)

2024-08-13 07:00:34 | 書籍・読書

インターネットで全く偶然、「大塚退野の生涯と其の著書」という論考に出くわした。大正10年に「文學士・今村孝三」が著した論考である。
大塚退野とは横井小楠が師と仰いだ人物である。「国を憂へ君を愛するの誠彌深節に有之、眞儒とも可申人物に御座候、ー拙子本意事此人を慕ひ學び候事に御座候」とは、小楠が久留米藩の本庄某に與へた書簡の一節である。
退野は初め陽明学を学んだが、後には朱子学に転じたと言われる。それは李退渓の「自省録」を読み初めて朱子学を志したという。
本来日本の朱子学は遠く鎌倉時代に全総によってもたらされた。(と承知してきた)しかしながら小楠が学ぶ朱子学は、李退渓の学説によるものである。
私が不思議に思うのは、今村氏は「内田周平・熊本學風の歴史的觀察」という文章を引用して「要之、退野の旨とする所は知行合一躬行實踐なり。熊本に於ける實學派の泰斗横井小楠、その親友元田東野、荻昌國等甚退野を慕ひ、その道を傳ふ。實學の名穪退野の學より來れりと云はれる。」を引用しているが、知行合一躬行實踐まさしく陽明学の教えではないのかと理解していた。

 熊本における陽明学は、幕府により陽明学が異学とされると寛文九年十月、有為の士が追放されるという出来事があった。
このことは、高野和人氏著「肥後の書家・陽明学者ー北嶋雪山」の生涯に詳しいが、浅学菲才の身では、李退渓の朱子学と陽明学の違いが良く理解できない。
朱子学と陽明学の関係は大方重複する部分を持ちながらもその深意の部分は明らかに異なっていると言われるが、知行合一躬行實踐などという言葉が出てくると爺様はすっかり頭がこんがらがってくる。

そこで、「遅ればせながら読むー朱子学と陽明学 (ちくま学芸文庫 コ 41-1)」という事で、この本を注文した。
私の疑問に答えてくれるでしょうか?

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■「木下延俊慶長日記」と細川家(1)

2024-08-12 11:16:16 | ご挨拶

慶長18年1月
       (1)28歳             (2)48歳
 ・正月三日ー内記さま(細川忠利)・彦六様(稲葉典通)四つさがりから七つノすぎ迄御咄成され、則ち御ふるまひ成され候。
                  (1)内記

            +ーーーーーーーー忠興ーーーーーーー+ーーー忠利
            |         |
            |         +ーーー多羅
            |      (2)彦六          ‖
              稲葉典通ーーーーーーーーー  一通 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・臼杵藩
            
              +ーーーー勝俊(長嘯子)
            | |
                +ーーーー利房ーーーーーーーーーーー利当   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・足守藩
             |          ‖
             |       +ーーー於岩
   +ーーーー木下家定ーーーーーーーーー+ーーーー延俊   |
   |         |         ‖ ーーーーー+ーーー於豊(高台院の望みにより京都住)
       |        +ーーーーーーーー加賀   |
   +ーーーーねね(高台院)  |       +ーーー於栗
       ‖       +ーーーー小早川秀秋
     豊臣秀吉
       ‖ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー秀頼
      淀殿

 ・正月四日ーー内記様へ家衆(集)ヲ召し参り候
 ・正月五日ーー七つノさがりより内記さまへ御出に成られ・・・          忠興         松井興長
 ・正月六日ーー細内記様へ御こし成され候て、豊前へノ御書あそばされ候。則ち文数、越中様へ一つ、長式部殿へ一つ・・・
       五つ時よりあめふり(中略)今夜ハ、細内記様御とまり候也
 ・正月九日ーーとのさま(延俊)ハ夜ルノ四つ時ニ細内記様よりおかへり成され候
 ・正月十日ーー将軍様御茶湯ニ御座候(中略)今日の相きゃく細内記殿・蜂あわ(蜂須賀至鎮)殿・稲彦六(典通)殿・石川玄蕃殿
 ・正月十一日ー夜明候てノ御すき、酒井雅楽殿へお越しに成られ候。うた殿より内記殿へ御座候て、七つのかしらニ御宿へお帰り
        成され候

 ・正月十六日ー殿様は、稲葉六殿へ内記様御越し成され候ニ付、稲葉六殿へお越し候也
 ・正月廿一日ー内記様の御内住江甚太郎駿河ヨリ罷戻り、(中略)(あずかりし)状ヲ上せられ候
 ・正月廿二日ー夜二入り候て細川内記殿へ御出に成られ候
 ・正月廿四日ー朝めしすぎより細河(川)内記殿へ御越し候也、昼時分ニ内記様より御帰りなされ候て・・・
 ・正月晦日ーー土井大炊殿御使ニて、との様(延俊)、内記殿、彦六殿御両三人様へ、御暇に出申候由仰せられ候、
        則ち明日朔日ニ御城ニて振舞ひト仰せ出され候、(中略)それより内記殿へ御出に成られ候

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