鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.34「3章 カトリック教団、ローマ国教となる」(1)~皇帝崇拝思想と衝突~

2012年03月13日 | 「幸せ社会の編成原理」


  

2章では管理階層方式で教会を運営するカトリック教団の生成・発展の有様と
教理および教理書の具体例を概観しました。
この章では、この教団がキリスト教会の代表とみなされるようになり、
ついにローマ帝国の国教の地位に上り詰めるプロセスを追ってみます。

+++

キリスト教会はローマ帝国に信徒を広げ、社会的にも有力集団となりました。
当時のローマは全欧州を統治する広域国家でした。
大教団は一つの社会的勢力です。国家の統治者はこれに無関心でいることは出来ないものです。

だが、キリスト教団にはそれ以上の問題がありました。
この教えにはローマ帝国の人民統治政策に相反するところがあったのです。

帝国は初代皇帝アウグツスツ以来、皇帝を神として崇拝するという国家理念政策をとっていました。
人心の焦点をここに合わせて一体性を実現し、
地中海全域にわたってパックスロマーナ(ローマ統治下での平和)と呼ばれた平和を実現していた。
平和になれば交易も容易になります。帝国は経済的にも繁栄を続けていました。

ところがキリスト教会は聖句主義、教理主義をとわず、まことの神は万物の創造神だけとし、
この神以外を拝する行為、とりわけ人間崇拝は偶像崇拝だとして否定していました。

この思想が普及したらローマ市民は皇帝崇拝をしなくなってしまいます。
そうなれば人民の一体性は薄れて国家は弱体化します。

キリスト教会には社会奉仕を盛んにするなどいいところがたくさんあったのですが、
この思想の故に帝国は教団を容認するわけにはいきませんでした。



 

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Vol.33「2章 管理階層制の教会が出現する」(9)~教理主義と聖句主義の対比~

2012年03月13日 | 「幸せ社会の編成原理」




             
教理主義と聖句主義の違いを今少し具体的に示しておきましょう。
若干繰り返しになりますが、大事なポイントですから。

前述のように聖書には聖句のままではその教えがわからない話が多いです。
たとえば旧約聖書に収められている冒頭の書物『創世記』の冒頭部分にこんな文章があります~
      
「ヘビは女に言った。『あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、
神は知っておられるのです』」(創世記、3章、4~5節)
      
ここはヘビが「知恵の木の実を食べなさいよ」と女を誘惑するところです。
これなど字面だけをみると子供のおとぎ話というか、鳥獣戯画の世界です。

話の中身のエッセンスを取り出さないと何もわからないわけです。
他の聖句と連携させてエッセンスを取り出すのが解釈です。
これはクルミなどの殻を割って中身の実をとりだす状況としてイメージできます。

ただし聖句のクルミは複数の実を含んでいることが多いです。
これが聖句の解釈は基本的にいろいろ出来るもの、ということのイメージです。

そして素人の一般信徒にその選択を自由にさせておくのは危険であると考えて、
指導者たちが殻を割ってエッセンスを取り出して教団の教理書をつくる。
それを正統な聖書解釈として一般信徒に与えてやっていく。
これが教理主義方式です。

この方法では実際上、教団の教理書の方が聖句より権威あるものとして「扱われて」いくことになる。
なぜなら正統な解釈(教理)がすでにわかって(決まって)いるのなら、
ことさら聖句を読む必要はなくなるからだ。~これは前述しました。

教理主義方式は学問の世界で言えば、日本の義務教育の学校教育に対応しているともみられます。
日本の小・中学校では生徒に教科書を与え、それが正しい知識を述べているとして学ばせています。
この生徒に信徒が対応しているわけです。

ところが教科書に載る知識は実は学界で優勢になっている定説知識であるにすぎません。
実際にはいろんな説を述べる学者がいて、各々がそれを吟味し研究を続けています。
聖句主義教会の信徒は個々人がこうした探究をするという意味で
学界における学者に対応しているといえるでしょう。

(次回から3章に入ります)

 

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Vol.32 「2章 管理階層制の教会が出現する」(8)~ルター派教会の教理書~

2012年03月13日 | 「幸せ社会の編成原理」



       
      
「使徒信条」に納められた教理は特別に短い例外的なものです。
通常の教理はもう少し長く、薄い冊子の教理書になっています。

宗教改革で有名なマルチン・ルターが創始したルター派教会の教理書に
『ハイデルベルク信仰問答』(吉田隆訳、新教出版社)というのがあります。
これは邦訳書で新書版110ページくらいの分量です。

この全文をここに書き写すスペースはありませんので、「目次」だけを記しておきます。
ただし、中身も少し覗くために「序」の本文の半分くらいを示しておきましょう。


      
・<序   ただ一つの慰め>

            第一主日
      
問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答  わたしがわたし自身のものではなく、
         体も魂も、生きるにも死ぬにも、
            わたしの真実な救い主
            イエス・キリストのものであることです。
                (後略)
      
問2 この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、
            あなたはどれだけのことを知る必要がありますか。
答    三つのことです。
                第一に、どれほどわたしの罪と悲惨がおおきいか、
                第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか、
                第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、
                ということです。
      
・<第一部 人間の悲惨さについて>

      
・<第二部 人間の救いについて>
     
        ・ただ一人の仲保者
        ・まことの信仰・使徒信条
        ・父なる神について
        ・子なる神について
        ・聖霊なる神について
        ・聖なる礼典について
        ・聖なる洗礼について
        ・イエス・キリストの聖晩餐について
        ・鍵の努めについて
      
・<第三部 感謝について>
      
        ・全生活にわたる感謝
        ・十戒について
        ・祈りについて
                                                              (以上)




   
中身の文章はごらんのような問答形式で書かれています。
教理書は一般信徒にわかりやすくするためにそうされているケースが多いのです。
タイトルの『・・・信仰問答』(ラテン語のカテキズムの邦訳語)というのはそれを意味しています。

カトリック教団の教理書はもっと分厚いのですが、ほとんどこの問答形式で書かれています。
ただしすべてがそうというわけではない。
長老派教会(プロテスタント教会の一つ)の教理書『ウエストミンスター信仰信条』は
条文調で書かれています。



コメント (2)
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