鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.99「12章 独立戦争の種を仕込む」(6)~戦争を開始し独立を宣言~

2012年03月25日 | 「幸せ社会の編成原理」

      
     

1775年4月19日、植民地民兵隊と英本国軍との戦いが勃発しました。
ボストンの北西方向にあるレキシントンとコンコードでの戦いです。
レキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)と言われています。
     

 

(レキシントンの戦い)

     
この戦でアメリカ独立戦争の火ぶたは実質上切られていましたが、公式の独立戦争開始は
もう少し後とされています。
6月14日に第二次大陸会議において正規軍(大陸軍)の設立が承認された時が
公式の開戦時だそうです。
      
この大陸会議は1775年5月10日に開始され、1781年3月1日までの期間中
開催状態が維持されました。

開戦の翌年の1776年7月4日に大陸会議は植民地の英本国からの独立を宣言しました。
バージニア州のトーマス・ジェファソン(後の第三代大統領)が宣言書を起草しました。

大陸軍の総司令官はジョージ・ワシントン(後に初代大統領となる)で、
彼もまたバージニア州の人でした。

戦場はボストン、ニューヨーク、ニュージャージー、サラトガ、ヨークタウンへと広がり
1783年まで続きました。




(ヨークタウンの戦いで降伏する英国将軍コーンウォリス)


だが1781年、ヨークタウンの戦いでアメリカ軍が英国軍に勝利したとき勝敗は実質上決していた
といわれています。
      
植民地軍は勝利したのです。
      

(次回から13章に入ります)


~26,27日は所用のため、更新が少なくなると思います~



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.98「12章 独立戦争の種を仕込む」(5)~聖句主義者即座に大陸会議承認を声明~

2012年03月25日 | 「幸せ社会の編成原理」

  


印紙条例の十年後の1774年が独立戦争勃発の前年になります。
この年の9月5日から、植民地で初の大陸会議(First Continental Congress)が
開催されました。

連邦政府の前身です。
場所はフィラデルフィアのカーペンターズ会館でした。

会議は一ヶ月半、10月26日まで延々と続きました。
北米13植民地中の12議会から送られた56名の代表が議論を重ねました。

主要議題は、本国が課してきている「耐え難い法律(Intolerable Acts)」への対策でした。
会議は英国製品ボイコットなどの決議をし、第二次大陸会議を1775年5月10日から
開くことを決めました。

こういう会議開催の根回しは誰がしたか。
これまた直接的資料は筆者の手元にはありません。

だが会議開始の8日後、バプテスト教会ウォーレン連合会がこれを承認する声明を
速やかに出しています。
連合会はそこで、「大陸会議を植民地最高裁判所のようなものと理解する」との旨を宣言しています。

すると他のバプテスト連盟もこれに続いている。
一連の速やかな動きはバプテスト聖句主義者のプロデュース努力を示唆しています。

+++

教会連合会の声明は、米国では第二次世界大戦まではものすごい権威と影響力を
持ってきていました。
大戦中にもラジオを通してなされる連合会牧師の主張には、
大統領演説に匹敵する指導力があったといいます。

それを懐かしむ老人が米国に今日もいます。
現代日本でいえば、5大新聞と主要テレビ局が同一の論調を一斉に発信する以上の影響力
と思っていいかもしれません。

時は風雲急を告げました。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.97「12章 独立戦争の種を仕込む」(4)~印紙条例廃止運動が跳躍台に~

2012年03月25日 | 「幸せ社会の編成原理」

  
            
       

独立思想は植民地民衆に徐々に浸透していきました。
そして1765年に英本国が植民地に対して出した印紙条例が火に油を注ぎました。

これはイギリス本国が北アメリカの13植民地に出した法令で、証書・新聞・暦から
トランプにいたるまで,印刷物に印紙をはらせて税収を得ようというものです。

植民地側は「本国議会に代表を出してないのに課税はおかしい」と条例を廃止に追い込みました。
これで本国は植民地の行動を実質的にコントロールできなくなりました。
革命運動家はこれを独立気風加速の好機としました。

以後独立戦争が勃発するまでの10年間に、独立思想を訴求するビラやパンフレットが
爆発的に増えました。

それらの文書は創造的で活気に充ちた政治論争も誘発しました。
代議制政治や植民地同盟を論じた新聞論説もや小冊子も出た。
独立政府創出案を論じた文書が何百と発行されました。

そしてこれらは一般人民の意識をも急速に変化させていきました。

こういう思潮展開をバイブリシストは主導したのです。
これについても直接的に証拠づける資料はみあたりませんが、前述したとおり残るような
やり方をしていたら、本国政府の諜報員に察知され弾圧、粉砕されてしまったでしょう。

近代の人民革命が純粋な意味で自然発生することなどありえません。
もう成ったから言いますが、米国にいたとき筆者は南アフリカ人種差別の法律を全廃させる
闘争を仕込む作業を垣間見たことがあります。

革命は一定の人々がアンダーグラウンドで仕掛けてなるものなのです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.96「12章 独立戦争の種を仕込む」(3)~劇場国家に独立思想を注入~

2012年03月25日 | 「幸せ社会の編成原理」

  
      
      

劇場国家のなかにいながら本国から独立しようという意識を強く持てる植民地人民は、
王家ドラマ以上に深く魅力ある世界観・人間観を詳細に抱いているものだけです。
そしてこの時代にこうしたイメージ世界を確固としてもてたのは聖句主義者をおいて
ほかにありませんでした。

彼らは独立思想を広める能力ももっていました。
植民地で本国からの独立をもくろむ情報活動をするのは国家反逆罪になります。
その中で思想を普及さすには、一定数の人々が全植民地空間に渡って地下で
草の根ネットワーク交信網を形成せねばなりません。
だがそうした交信網はすでに1200年間彼らは維持し続けていました。

さらにそれを通して配布する思想宣伝物作成のためにも優れた文書技術が必要です。
彼らはそのノウハウもアンダーグラウンドでの聖句吟味活動を通して培っていました。
これらがなかったら後の独立戦争において植民地軍兵士が25万名集まるような事態は
起きていなかったでしょう。

1764年にロードアイランド植民地で植民地連絡委員会
(Committee of Coresspondence)が開催されました。
ロードアイランドは前述のように聖句主義者の共和国です。
そこで掲げられた目的は「自由の精神を高めること」と、
「その諸手段を統合し一体化すること」でした。
これもバイブリシストならではのものです。
     
      +++
      
独立戦争の種を仕込んだのは、まぎれもなく聖句主義者たちだったのです。
かといってそれを明示する公式の実証資料はありません。
あたりまえのことで、そんなものが残るようなやり方をしてたら、運動はつぶされてしまったでしょう。

実証それ自体はとてもたいせつです。それは経験科学に確かさを増すための大切な手段です。
だが実証「主義」は少なくとも社会科学においては~おそらく自然科学でもそうでしょう~間違いです。
それは研究者の想像力と追体験力を萎縮させ劣化させてしまうのです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.95「12章 独立戦争の種を仕込む」(2)~植民地も王家劇場国家の一部~

2012年03月25日 | 「幸せ社会の編成原理」

  

      
      
独立運動家は、まず植民地の人民に独立の理念を普及させねばなりませんでしたが、
これは並大抵のことではなかった。
ヘンリー8世からエリザベス女王、さらに後のビクトリア女王の治世の時代へと、
英国は繁栄の道を進んでいました。

余談ですがこれには聖句主義者の寄与したところまことに大きいものがありました。
バイブリスズムは国力隆盛の強力な推進源なのでして、
われわれは英国から後の米国への世界指導力の移動が、バイブリシストの居住地移動と
軌を一にしていることを見逃してはなりません。

がともあれ、英国はエリザベス時代には大国スペインの無敵艦隊を破り、
世界の海の制覇に踏み出し破竹の進撃を続けていました。
国民の王権への信頼も高く、それがアングロサクソン民族の愛国心と順法精神を高めていました。
     
      +++
      
その背景には英国王室のとった見事なアイデンティティ政策もありました。
当時の英国は、国全体が王家をヒーローとする劇場のようになっていました。
スターは王家のみであって、人民はこの情報だけを与えられてテレビドラマを見るかのように
一喜一憂していた。

アメリカ大陸植民地も心情的には本国の一部でした。
各地の広場や公共施設の前には、国王の銅像が建っていました。

教会におかれた祈祷書には、「国王にゴッド(創造神)の祝福がありますように」とのフレーズが
組み込んであって、人民がそれを毎週の礼拝時にとなえる仕掛けになっていました。
植民地人民も王家の人々を愛し、この人々の恩恵で自分たちは生活が出来ていると
信じ込んでいました。

欧州の王国は概してこういう国家アイデンティティ政策が巧みなのです。
互いに他国に隣接していることもあって、人心が国王に集結するように、
あらゆる事物を入念に仕掛けないと国家の一体性が弱まってしまう。
弱まると隣国が自国民を誘惑し始め、機を見て攻め込んでくるのですね。

英国ではこれがとてもうまくいっていて、アメリカ植民地の住民にも自分たちはロンドンや
シェークスピアを持つ王国の一員であるとの心情が潜在意識層に深く根付いていました。

独立などしたら英国国民としてのアイデンティティを失う。
そういう心理が彼らの心底によこたわっていました。

植民地におけるこの心理の広がりは、後の独立戦争における英国軍兵士数にも現れています。

英本国から来た兵士数が12,000名だったのに、
植民地住民でありながら英国側に属して戦った兵士は50,000名もいました。
彼らはトーリーとかロイヤリスト(王党派)という名で呼ばれていました。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.94「12章 独立戦争の種を仕込む」(1)~独立戦争とアメリカ革命~

2012年03月25日 | 「幸せ社会の編成原理」

  

      
      
この章では、バプテスト聖句主義者たちが独立戦争の種を仕込んでいく様と、
志ある非聖句主義者を運動に巻き込んで植民地軍を勝利に至らしめる過程を示します。
      
バージニア植民地で当初行われたような聖句主義阻止運動は、他のすべての植民地も行いました。
だが、いずれの地でも聖句主義者は迫害に耐え続け、教会を増やしていきました。

こうしてバプテスト聖句主義教会は全植民地的にも無視できない勢力になりました。
植民当初からしたら様変わりの事態です。

条件は満ちました。彼らは次の大目標に向かって足を踏み出します。
植民地の本国からの独立がそれです。

本国が植民地の独立を認めるなど夢にもありません。
戦によって勝ち取るほか無い。彼らは独立戦争の種を仕込んでいきました。
     
+++

アメリカ植民地の独立運動は日本では通常、独立戦争(War of Independence)と称されています。
だがアメリカではアメリカ革命(American Revolution)の語の方が一般的です。

独立運動というのは広範囲な活動によって成り立っています。
まず人民に独立の思想を普及させる。本国の監視をくぐって思想宣伝をするわけです。

機運が熟せば全植民地の連合政府を結成させる。
植民地が個々バラバラではことはおこなえないわけですからね。

そして武器を集めて軍隊を結成し戦をします。

アメリカ革命の語には、こうした一連の活動を総合的に見る視野が感じられます。
逆に運動のそうした本質が認識されていませんと、戦争にしか目が行かなくなります。

戦争は目立ちますからね。
日米のこうした呼称の違いは、あるいは両国民の政治的成熟度の差を
反映しているのかも知れません。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする