鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.85「10章 聖句主義者、アメリカ大陸へ!」(7)~メノナイトは米加国境地帯に~

2012年03月23日 | 「幸せ社会の編成原理」

  


      
もう一つの大量移住聖句主義者グループ、メノナイトは別の意味で面白い面があります。

彼らはバプテスト聖句主義者とは対照的に北方の地域、それも西寄りの、
現在のアメリカとカナダの国境の両側あたりに集中的に移住しました。
今ではアメリカ側に住む人の数が多く、ノースダコタ州、アイダホ州、ワシントン州、オレゴン州
などにメノナイトの教会がたくさんあります。

ここは領有植民地にもまだなっていない未開地でした。
こういう地には移住者は自由に住み着き開拓することが出来ます。

アメリカ建国の父とされているピルグリムファーザーズもそのケースで、
彼らが1620年に移住したボストン郊外の半島の一地区は、東海岸にあったのですが
手つかずの未開地でした。
彼らはその地区をプリモスと名付けて開拓しました。

そこはボストンが江戸だとすれば、三浦半島の横須賀といったような位置にある土地でした。
彼らは分離派ピューリタンで、暖かい南の方に移住するといって移民船に乗り込んだのですが、
なぜか途中で冬の寒いその地に下船して住み着きました。

+++

メノナイト派の人々が寒冷の未開地である米加国教あたりに移住したにつけては
特殊な事情がありました。
彼らの多くは北欧地域に逃れすんでいました。
前述のオランダもそうですが、デンマークにもたくさんいました。
       
彼らは「汝殺す無かれ」という聖句を守ることに心を砕き、戦争にかり出されることを
なんとしても避けようとしました。
そこで「汚物処理など人のしたがらない仕事をすることを条件に徴兵しない」という約束を
国王から得て生活を続けました。

北の凍てついた土地を掘り起こしてジャガイモを栽培する技術に長けていて、
国家の食料大量生産に貢献したのも徴兵回避を許される要因でした。
現在も右の諸州は合衆国のジャガイモをほとんど一手に生産しています。

けれども国王との約束は個人色が強いものです。
代が変わって新国王になるとまた交渉を始めねばならず、
新国王が同様な契約を結んでくれないこともあります。

その場合には、隣接国の王様に同様な約束をとりつけ、そこに移住しました。
その動きが結果的に東回りになったようです。
彼らはデンマークからノルウェー、スウェーデン、フィンランドへと移住しました。
ロシアに移るものも少なくありませんでした。彼らは寒冷地での生活に慣れていたのです。

メノナイト聖句主義者が米加国境地帯に移り住んだ理由には、
こういう寒い北の辺地には為政者の迫害の手が及びにくかったこともあったでしょう。
人間誰しも気候的には南の方に暮らす方が楽です。

だがノンポリ聖句主義者の彼らには、迫害が及びにくいことが貴重な要素でした。
彼らが同じ北部でも、政治中心地の東海岸からより遠く離れた太平洋側の地域に
重点的に定住していることもそれを推測させます。
     
      +++
      
いずれにせよ現在米国での聖句主義者の大きな会派はこのメノナイトと
前述の近代バプテストの二つとなっています。

方屋(かたや)西北の「純粋ノンポリ集団」、
此方(こなた)幸福社会実現に熱烈の志を抱く東南の「闘士集団」。

単なる歴史の偶然と思いがたい、絵のような配置でありました。



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Vol.84「10章 聖句主義者、アメリカ大陸へ!」(6)~英国近代バプテストは南部に~

2012年03月23日 | 「幸せ社会の編成原理」

     



新大陸に大量移住した聖句主義者は英国近代バプテストと前述のメノナイトでした。
前者は大陸南部地域に、後者は北部のカナダとの国境あたりに多数住みつきました。

バプテスト聖句主義者は主に南の領地を選び移民していきました。
一般に南寄りの地域は冬が過ごしやすいし農業も容易です。
だから早期の移住者は南の地域に住み着き、後の人が徐々に北の方に住んでいくことになります。

バプテスト聖句主義者が南部に住み着いたのはそれもありましたが、もう一つ理由がありました。
メノナイトが個人の生活を聖書に沿うようにすることに専心するノンポリだったのに対し、
英国の近代バプテスト聖句主義者は、アメリカ植民地に信仰自由の社会を造る夢を抱いていました。

それが成るには、大枠三つのステップが必要でした。
第一に、アメリカ植民地を独立国家にすること。
第二に、その国に憲法を制定して法治国家にすること。
そして第三に、憲法の中に信教自由の条項を確定すること~がそれでした。

一介の移民にすぎなかった聖句主義者が最初からこんな大それた夢をいだけたか、
という疑問も生じますが、筆者は抱いていたと思います。
彼らは深い理念の人でした。理念の人が心から欲すると、夢は詳細で具体的になるのです。

彼らの子孫が独立のために本格的に働き始めるのは百年以上も先になりますが、
詳細な夢を抱いていたと思います。

彼らが集中的に住んだニューイングランドと呼ばれた大西洋沿岸の地域は、
初期の政治活動の中心地でした。
近代バプテストはそれも考慮してこれらの地に移民したでしょう。

ちなみに現在も米国南部はバプテスト聖句主義者の顕著に多い地域になっています。
彼らを指すサザンバプテストという名は、キリスト教信仰の純度が高い地域という
ニュアンスを持っています。

彼らはバプテストと気づかれないようにして渡航したといいます。
数が多いと気付かれやすいので、少数に別れて移民登録し、
他の渡航者に紛れ込んで乗船しました。

聖句主義者は依然として危険な無政府主義者とみられていたのです。




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Vol.83「10章 聖句主義者、アメリカ大陸へ!」(5)~最初の大量移住者は聖句主義者~

2012年03月23日 | 「幸せ社会の編成原理」

     
      


植民地では農地を耕す農民や日常品を生産する手工業者が必要でした。
これが本国で募集されました。
応募して認められ当該領有地に運ばれるというのが庶民の主要な移住方法でした。

この最初の大量移住者が聖句主義者だったでしょう。
17世紀にアメリカ大陸への道が開けたとき、 イミグレ(移住人間)である聖句主義者は
新大陸に伝統ある島国国家よりも規制のはるかに緩い世界を夢見たにちがいありません。

地上での愛郷の情に縛られない彼らが、その地を志向するのは自然の成り行きでした。

新天地に夢を抱く人には、一攫千金をねらったベンチャー事業家もいました。
彼らもまた先駆的にアメリカ大陸に向かいましたが、数の上でそう多くはありませんでした。
また「一儲けして母国に帰ろう」という人種ですから定住者にはなりえませんでした。

英国一般市民はどうでしょうか。その移住志向は強くなかったでしょう。
彼らは本国で迫害を受けることもなく、平穏な生活を送れています。
そういう人には見知らぬ土地への移住は魅力的ではありません。

早々と移住に踏み出す大量集団は聖句主義者以外になかったのです。



 

 

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Vol.82「10章 聖句主義者、アメリカ大陸へ!」(4)~自治植民地~

2012年03月23日 | 「幸せ社会の編成原理」

  


      
第三は自治植民地です。

これは植民地住民が総督と議会議員の選出に参加できるもので、
初期にはコネティカット、ロードアイランド、がそれでした。

後の1774年~独立戦争直前です~マサチューセッツ(王領)植民地に総督と議員を
住民選挙で決めることが認められ、ここも実質上自治植民地となりました。

領主・王領・自治植民地はみな米国独立後には州となります。

すべて植民地時代から独立した統治体として運営されてきている地ですから、
最初から強い独立気風をもっています。

それが連邦政府設立の際、州権と中央政府との権限配分をめぐる激しい論争を
引き起こすもとになっていくのですが、それは後のことです。



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Vol.81「10章 聖句主義者、アメリカ大陸へ!」(3)~王領植民地~

2012年03月23日 | 「幸せ社会の編成原理」

  

            
第二は王領植民地です。

これは国王の直轄領地で、国王が直接に総督と参議会議員を任命しました。
初期にはマサチューセッツ、ニューハンプシャー、ニュージャージー、バージニアの
四地域がそれでした。

後に領主植民地の自主性が増して行動のコントロールが難しくなると、
国王はこれを王領植民地に転換し、直接統治を試みることになります。

18世紀中期にはニューヨーク、北カロライナ、南カロライナ、ジョージアが
王領植民地化されました。



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Vol.80「10章 聖句主義者、アメリカ大陸へ!」(2)~領主植民地~

2012年03月23日 | 「幸せ社会の編成原理」

  

      
      
まず、領主植民地。

これは植民地運営を志す英国貴族が英国王から勅許状をいただいて経営する植民地で、
初期にはニューヨーク、ノースカロライナ、サウスカロライナ、
ジョージア、ペンシルヴェニア、デラウェア、メリーランドがそれでした。

彼らは勅許を与えられると当該地域の領主となって、総督(ガバナー)を任命して経営を委任し、
かつ参議会議員を任命しました。

ガバナーには判事、治安官など官吏の任命権や、議会を招集したり解散させる権限、
さらに議会の立法にたいする拒否権も与えました。

その一方で領主は参議会(カウンシル)もおきました。
そして総督が政治的な人事権を行使したり、立法への拒否権を発動するときにはこの議会の
同意を得ることを必要としました。

また参議会議員には政治経済的な有力者を任命しその地位は終身とした。
このようにして権勢のバランスを形成したのです。

さらにもう一つの議会、植民地代議院(コロニアル・アッセンブリー)もおきました。
議員は一年任期で毎年選挙させるのですが、この議院には課税に関する立法権を与えました。

彼らは参議会議員よりも身分は低いのですが、徴税という仕事には
こういう領民に近い人が適していました。

領地の運営に税収は重要です。
彼らは後になると力を増し、それにつれて領主植民地の政治体質は
変化していくことになります。



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Vol.79「10章 聖句主義者、アメリカ大陸へ!」(1)~三種類の植民地~

2012年03月23日 | 「幸せ社会の編成原理」

        

      
この章では、アメリカ大陸ではどのような植民地が経営されていたか、と、
この新大陸に聖句主義者はどのように移住していったかを記します。
      
我が国にはアメリカに関して基本的なところで無知な人が多いです。
「アメリカはもともとインディアンしかいない自由の地だった。だからここには自由社会ができた」
~といった程度の意識でいる人が少なくありません。

だがそれにはやむを得ない点もあります。
これから明らかになっていきますが、アメリカはバイブリシズムベースで出来ている国です。
ところが公式の歴史は聖句主義史の糸を編み込んでいないので、わからないのは
自然なことでもあるのです。
      
アメリカ社会は出発点からヨーロッパと同質の社会でした。
そこは欧州の支配者が経営した植民地からスタートしています。
その社会は欧州の本国と同じ思想、同じシステムで運営されたのです。
      
植民地はまず大西洋岸の地域につくられました。
今のアメリカ合衆国の東海岸地域とその周辺です。
そこには当初スペイン、フランス、オランダ、英国の植民地が混在していました。

この時代には王権神授思想が優勢で、植民地の究極の所有者もまた本国と同様に
各国の国王とされていました。
統治責任も権限も本国政府にあった。
だがしばらくするとこれらの土地のほとんどは、植民地での戦争に勝った英国の国王のものと
なりました。



(アメリカ13植民地~赤色部分~)
出所: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


18世紀中頃までには植民地域は~

マサチューセッツ、ニューハンプシャー、コネティカット、

ロードアイランド、ニューヨーク、ニュージャージー、

ペンシルヴェニア、デラウェア、メリーランド、

バージニア、ノース=カロライナ、サウス=カロライナ、ジョージア

~の13地域で、すべて大西洋に面した東海岸地域にありました。

(たくさんありますが、このうち人口の多い植民地は、バージニアと
マサチューセッツとニューヨークです。この三者で全植民地人口の
半数を占めておりました。

また、独立戦争をはじめとする歴史的事件の主役になるのは、
バージニアとマサチューセッツだけです。これにロードアイランド
を加えた三つの名を記憶すればいいでしょう)

植民地はみな総督(ガバナー)と議会を持つ統治体になっていました。

そしてこれらは統治内容によって三つに分けることが出来ます。
領主植民地、王領植民地、自治植民地がそれです。以下にそれらを示します。



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