真理が「究極にして不変の理論知識」であるならば、それは様々な分野にあるはずです。
人間に関する真理、動植物に関する真理、歴史の行く末に関する真理、創造神に関する真理、
それら各々の細部に関する真理もまたあります。
ですから世に言う「真理は一つ」は、おのおのの対象に究極の理論は一つずつある
という意味になります。
バイブリシストは様々な領域で解読を続けます。
そしてこれは誰でも聖句吟味をやっていると体験できることですが、解読に至ったとき、時として
「これは人間の知恵を修正していったのではとても得られない理論だ」と実感することがおきます。
「これは真理ではなかろうか」という実感をうるのです。
もちろんその解読結果が真理だと完全に論証することは出来ません。
前述のように、手がかりとしている聖句が創造神からのメッセージの受信記録だと
百パーセント証明することは人間には出来ないからです。
でも「これは真理ではないか・・・」という実感は体験できる。
そしてそれを与えてくれた聖句に触れる都度その実感は蘇り、
さらに他の聖句とのつながりが新たに浮上してきます。
このときに得る深い歓び、安定感覚、それに伴う崇高感、
これは欲求段階論の心理学者マズローが後年に至高体験と名付けた心理に外なりません。
マズローは人間がこの感覚を得ると、他の欲求充足を下位に置きがちであると述べています。
身体の安全欲求も食欲などの生理欲求も犠牲にして人はこの至高体験を守ろうとする、
と論じています。
中世のバイブリシストたちはこの体験を周期的にしたのではないでしょうか。
聖句主義教会に外から加わった人々も、先輩やグループ仲間たちの解読を手がかりにしながら
解読を試み、この実感に遭遇した。
そのときかれらの胸にも(これは究極の知恵だ・・・)との感動がわいたでしょう。
聖句が含む真理への可能性を肯定的に受け入れて、
ではその書物を解読吟味してみようと始めているのが聖句主義者です。
彼らは解読すれば究極不変の理論が見出せるのではとの期待を抱いてとりかかっています。
この期待はすなわち信頼でもあります。
信頼とは何パーセントかの「プラスの確率つきで期待している意識状態」を言います。
「信なくば立たず」といいますが、人は一定の信頼を抱かないと行動に立ち上がることは出来ません。
こういうとそんな半信半疑の気持ちで聖書解読活動したら罰が当たるのではないかと
思う人もいるかもしれませんが、聖書はそれでいいという思想をもっています。
そこでバイブリシストは吟味を続ける過程でその心理的確率が高まっていくと期待する。
このように信頼が増加して到達した状態を信仰であるとして、彼らはそれを目指している。
同じ信仰を持つにも、そういう信頼向上の経歴を持たないでいきなりもつ信仰は
盲信だと考えています。
その意味で、聖句主義者は聖句への比較的冷静な信頼を共有する人々の群れともいえます。
人間はすべての空間を認知することなど出来ない。これが人間が置かれている実状です。
だがそうした中で人間が真理を知る希望の灯火が一つあるのです。
そういう希望を与えているのが旧約聖書(新約聖書もそうですがいまは除外して進みます)です。
前述のようにそれは霊感豊かな預言者が、万物の創造神からのメッセージであると信じて
受信した啓示の記録集です。
もちろんそれが百パーセント創造神からのメッセージ記録だったと断言することは人間には出来ません。
あるいは預言者と称される人たちの、単なる思い込みだったかもしれない。
彼らは1100年間かけて壮大なる思い込みのバトンタッチをしてきたのかも知れません。
だが逆に、思い込みに過ぎなかったと百パーセント証明することもまた人間にはできません。
その意味で記録が万物の創造主から与えられた啓示の受信記録であるという可能性もまた
否定することはできないのです。
その可能性が真理を知る夢を与えるのです。
千百年間にわたって二十人を超える預言者著者たちが霊感受信した啓示を書き込み続けた。
よくこんなことが起きたものだと驚嘆しますが、人類史に一度だけ起きたこの出来事が
真理の夢を与えている。
その書物のメッセージに手がかりが含まれていて、
それを読み解いていけば人間は真理を知れるかもしれないのです。
理論知識における仮説と真理を具体的に考えてみましょう。
たとえば我々を取り巻く天体に関する理論はどうか。
望遠鏡のない時代に人間が認識できる天文事象は肉眼で見えるだけの範囲のものでした。
それからすると空が地面の上を回っているという風にしか見えなくて、
天文理論は天動説しか考えられませんでした。だからみんなそれが正しいと思っていました。
ところがガリレオが望遠鏡を発明して認識範囲が広がったらそれでは説明のつかない事象が
出てきました。
そこで地面の方が動いているという地動説でいくとすべてが説明されていきました。
かくして天動説は地動説に修正されました。
このように修正される余地のある理論が仮説(仮に設定した説)です。
天動説は仮説だったわけです。
ではガリレオの地動説は究極の理論かというとこれもそうではありません。
天体観測技術は進みますので観察内容はさらに広がる。
そうすれば彼の天体理論もまた修正されていくことになる。実際今日までそうなってきています。
他方、真理はもうこれ以上修正の余地がないという究極の理論です。
それは少なくとももうこれ以上認識範囲は広がらないというところまでの認識が出来なければ
実現いたしません。
そこまで広がれば天文学においても人間は不変の天文理論に到達できる可能性が出る。
だが、すべての空間の事象を認識することなど人間にはできません。
空間が無限の広がりをもっているのに対して人間の認識可能範囲は有限だからです。
究極不変の真理には人間の力では到達できない。
それは他の理論知識についても同じです。
5章では殺した側の心理を考察しました。
この章では、殺された側の人々であるバイブリシストの心理を追います。
聖句主義活動史の研究家、キャロルは1200年の欧州暗黒時代を通して
総計五千万人のバイブリシストが虐殺されたと推定しています。
年平均にならすと約4万人です。
これだけの数の仲間が、毎年毎年1200年にわたって欧州のあちこちで惨殺されていたことになる。
気の遠くなるような想像を絶する話です。
ところが彼らは聖句主義活動を止めなかった。それでいて絶滅もしなかった。
この活動には新しく参加する人々が今も絶えないのですが、いったいこれはどう理解したらいいでしょうか。
生命を危機に置きながら活動を続けた彼らの精神構造はどうなっていたのでしょうか。
これは重いテーマです。人間には自己の肉体以上に大切にするものがあり得るのか。
あるとすればそれは何か、どういう原理によるか。
それらを明るみに出す作業をこのテーマは要求するからです。
だが、これをスキップするわけにはいきません。
したらバイブリシストたちの活動史の中核が空洞になってしまうのです。
だから力の及ぶ限り、試みたいと思います。
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この問題への総合的な答は、
「聖句吟味が与えるものが、死の危険や飢えや寒さといった苦しみより大きい」ということになります。
けれども与えるもののすべてを示すことは、聖書の全体を語ることにもなって、
限られたスペースはもとより筆者の能力でもってしてそれはできません。
本章ではそのうちの一つ、「真理を知る夢と実感」に焦点を当てて述べようと思います。
昭和時代最大の作家と言われた山本周五郎が揮毫を頼まれると常に書いたと伝えられている言葉があります。
「真を知るためにいのちを惜しまず 周」がそれでした。
バイブリシストがそのような精神を抱いていたならば、
命を惜しむことなく活動できたと推定できるわけです。
真というのは真理であり、その原義は変わることのない理論知識」です。
英語のトゥルース(truth)はそれを意味しています。
そしてこれは「仮説」に対する言葉です。仮説は修正されて「変わりうる」理論です。
対して真理は、「もうこれ以上修正が不要な究極の理論知識」となります。
カトリック教は国教で、教団の幹部は欧州の宗教担当の国家統治者です。
彼らにとってバイブリシストは国家社会の不安定要因そのものでした。
国教会の教理には従わない。
聖書解釈を個々人に自由にさせている。
こういうのは社会をバラバラにしてしまう無政府主義者の外には見えませんでした。
だから幹部たちの内に獣性は自然に頭をもたげ、残忍に殺していくことが出来たのです。
その命令を受けて実際に殺戮活動をした兵士たちは、
さだめし必殺仕置き人の心境だったのではないでしょうか。
余談です。
旧い統治者を追放して民衆の政府を樹立しようとして新たに統治者になる人にも、
この獣性は頭をもたげます。
これが彼を狂わせ、前の統治者以上に凶暴な行動もさせうる。
それが同志たちを失望させるという兆しが、昨今の「アラブの春」にもみられました。
こうした事態を回避する手段はあらかじめそういうことを知らせる知識のみです。
政治学は統治者の心理に浮かぶ獣性を理論に組み入れるべきです。
その知識があれば、人間は自らの内の獣性を距離を置いて見据えらこともできるようになる。
それが人間の貴重な宝になるのですが、
残念ながら筆者はいまだこの種の政治理論に出会っておりません。
(次回から6章に入ります)