鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.108 「13章 バージニア、先駆ける」(9) ~終戦後日本からの追体験~

2012年03月30日 | 「幸せ社会の編成原理」

             
      


ここで「政教分離原則を実現したら聖句主義者への信頼が急増した」という事象の
追体験理解をしておきましょう。

我々日本人には終戦直後の状況が手がかりになります。

戦時中わが国の人民は軍部という管理階層体制の極の様な組織に組みこまれ、
言論・思想の強烈な制圧下で暮らしました。
この種の政策を実施するには、特高警察や思想憲兵が必須です。
人民は彼らにおびえながら暮らしました。

敗戦はそのすべてを取り払う一大イベントでした。人民は突然自由に解き放たれた。
物資は相変わらず不足していましたが、それらを自由市場(闇市)で調達し合う生活には
精神の躍動がありました。

筆者は4歳でしたが、大人たちが見せた輝きはじけるような精神躍動の感触は
今もかすかに残っています。
同時に人々は言論・思想を自由にしておいても、社会がばらばらになることがないとも知りました。

+++

バージニア州民にも、これに似た自由と精神躍動が実現したのではないでしょうか。
それまでイギリスの国教制度のもとで二重三重に受けていた「思い」の統制から
突然解き放されたのです。その快適さはいかばかりだったでしょうか。

それでいて社会の安定性は予想外に保たれていた。
そのことも確認し、州民の聖句主義者たちへの信頼は一挙に高まったのではないでしょうか。
      
+++
      
以後バージニア州議会はバプテスト聖句主義者による主導を信頼して受け入れるようになりました。
その結果、政教分離が成った1785年以降、聖句主義者の行動はほぼバージニア州の行動
とみていい状態になった。

これは重要な変化です。
これによってバイブリシストは「バージニア州として」米国全体のなかで行動することが
出来るようになったのです。
言い換えれば、バージニア州議会の衣装を着ての活動が可能になった。

これが彼らの国家作りを飛躍的に楽にしました。
実際彼らはこのコスチュームでもって  アメリカ国家の仕組み作りを先導していきます。

この認識がアメリカという国の体質を感知する鍵になります。
そしてこれもやはり聖句主義史に無知であれば全然見えない事実です。
       


     
      
             (次回から14章に入ります)







     
     

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Vol.107 「13章 バージニア、先駆ける」(8) ~第二の政教分離州へ~

2012年03月30日 | 「幸せ社会の編成原理」

                 
       


だがバプテスト聖句主義者たちは、あきらめの代わりに「ひたむき」という美徳を持っていました。
彼らはバージニア州議会に「宗教活動は政治活動と完全に分離すべきで、
宗教は宗教としてやっていくべき」と訴えた嘆願書を
「田舎詩人の謙虚な願い」と題した詩を添えて提出しました。

詩のなかのフレーズのいくつかはこうなっていました~
      
       ・・・・・
        「自由」は全政策の基盤、全人の主眼。
         全愛国者の心を満たすもの。
     
       ・・・・
        もう無益な仕事に時を費やすな。
         われらを縛る鎖を磨く仕事に。
     
        ワシントン将軍の言葉を思い起こそう。
         「我らの国は自由であり続けるべき」を。
     
        我らの吐く息、吸う息が自由を熱望している。
         平等な自由を、さもなくば死を与えよ!
     
        思うがままの祈りと、思うがままの探求をさせたまえ。
         間違えば当人の責任とさせたまえ。
     
         ・・・・・・
     
        バプテスト聖句主義者たちは当時単独では州の最大会派になりつつあったと推定できます。
少なくとも1789年には圧倒的な最大会派だったことが確認されています。

だが他の会派はこぞって宗教税支持でした。バイブリシストは孤立無援でした。

+++

けれども天の差配か、そこに強力な助っ人が準備されていました。
マディソンとジェファーソンです。

前述のようにマディソンは「フェデラリスト」という連載で、
中央集権政府でなく、州の独立性も担保した連邦政府の構想を展開していた才筆で、
当時米国の最高の知性でした。

後にワシントンの大統領就任演説の草稿も、彼が書いてあげています。

ニューヨーク(1789~1790)からフィラデルフィア(1790~1800)へと移った合衆国首都が、
どの州に含まれることもない独立都市としてワシントンDCに設計されていったのも
彼の案によります。

ジェファーソンは以前聖句主義者が法定に引き出された裁判を傍聴したことがありました。
彼らがその信じるところを述べるのを聞いた時点で「バプテスト聖句主義者たちの言い分が正しい」
と判断していました。

彼も独立宣言を起草した知性の持ち主で、ワシントン初代大統領の国務長官を、
ジョン・アダムズ二代目大統領の副大統領を、そして自ら第三代大統領もつとめています。


      
聖句主義活動の経験がないと聖句主義者の主張はわからないという一般論は
彼らには当てはまらないのでしょうか。
こういう卓越した知性には、経験無くても論拠の本質的理解が可能なのでしょうか。
二人はバイブリシストの言い分を弁護しました。
宗教人と距離を置いた位置から説く彼らの政教分離必要論は、説得力がありました。

韻律をもった詩文も人々の情感を開くのに役だったのか、政教分離の思想を理解する人が
徐々に増えてきました。
一定数の長老派牧師や一般信徒が納得して支持に周りました。
すると流れが変わって、とうとうバプテスト聖句主義者の案がバージニア議会で承認されました。
時は1785年、2年後には憲法制定会議が始まろうとしている年でした。

この議決に応じて、言論を罰する法律はすべて廃棄されました。
そしてそれがまた副産物を生んだ。
一連の働きによってバプテスト聖句主義者への信頼が急増したのです。

その一方で政教分離をめぐるこの論争によって、パトリック・ヘンリーには
マディソンに対する感情的わだかまりが残った、といわれています。
がともあれこうして合衆国の憲法修正に先立ってバージニアに政教分離が確定したのです。
ロードアイランド州に次いでその約120年後に成立した政教分離の二番目の州です。

そしてここでも「先の者は後になり、後の者は先になる」というイエスの言葉が実現しました。
バージニアはロードアイランドに代わって聖句主義活動本部の役割を果たすようになったのです。

新たな本部州は人口、人材その他で旧本部州を遙かに凌駕する強大州でした。
だが新本部の誕生は旧本部があってこそ可能になったことです。
「鳶(とび)が鷹(たか)の子を産む」といいますが、ロードアイランドという鳶がバージニアという鷹を生んだのでした。

鷹は憲法制定会議の段取りとそこで提出する憲法草案の作成にとりかかりました。
そして二年後の1787年に開かれることになるその重大会議を主導することになっていくのでした。



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