
聖書に「幻なき民は滅ぶ」という名言がある、という話を聞いたことがある。
スタイリッシュな言葉で、魅了されそうになるが実際にはそんな言葉は聖書にない。
だから語る人は意味を問われると「夢を持たない民族は滅びるということです」とか、
「会社も夢を描くことが必要です」などと、浅薄にして曖昧な説明をする。

実際には、それらしき聖句はこうなっている。
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「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守るものは幸いである。」
(『箴言』29章18節、「新改訳聖書」の訳による)
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これについて、神学者や牧師さんが解説するのを聞いたことがある。
これらも、やはりその意味ははっきりしない。
そもそも、聖書を訳した邦訳者も、わかっていない。
わからないままに訳しているから、訳文自体が揺れている。
・「預言がなければ民はわがままにふるまう。しかし律法を守るものは幸いである」〈口語訳)
・「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守るものは幸いである。」〈新改訳)
・「幻がなければ民は堕落する。教えを守るものは幸いである。」(共同訳)
英語聖書も同じだ。
訳書によって「幻」に当たる語が、revelation になったり visionになったり prophecyになったりしている。
大揺れである。要するに英語訳の制作者もわかってないのだ。

<この「幻」は律法のこと>
どうしてそうなるかというと、みな、「描かれる幻の有り様が重要」といういう先入観を
もつからである。
だがこの聖句はそうではないのだ。
ここで幻(vision)と言っているのは、人間の意識に描かれた律法のイメージである。
律法の代表は「十戒」だが、ともあれこの聖句ではその幻が律法であると、もう決まっているのだ。
「幻がなければ民は自由に振る舞う」といっておいてすぐに
「しかし律法を守るものは幸いである」というのがそれを示している。
この聖句が焦点を当てているのは、心の中で個々の律法のイメージを「豊かに形成する力」である。
イメージ力が弱ければ、人は律法のイメージをありありと心に描くことができない。
すると人民は律法を実質上守れない。守れないから、すぐに守らなくなる。

<ソロモンの知恵>
この書物『箴言』の著者はダビデ王の息子、ソロモン王である。
この時代に国家を運営する法律は、旧約聖書の律法だ。
それがイスラエルの人民に秩序を与えてきていた。
王はそれでもって人民を裁き、民族の一体性を保持してきた。
ところがもし、人民にイメージ形成力低下が起きれば、
民は律法の中身がありありとイメージできなくなる。
さすれば律法を守るのにひどく心労しなければならなくなり、まもなく守らなくなる。
同じ『箴言』の29章18節での「民はほしいままにふるまう」という聖句はそういっている。
ソロモンはそれを警告しているのである。

これは古代イスラエルに限らない。
どの国でも民にイメージ力が弱ければ、法律は理解されない。
民が法を理解せねば統治者は強権による「恐れ」でもって民を統制していくしかなくなる。
すると民の精神は萎縮し、国家の知力は衰えていく。
民の自由も、国の長期的盛衰も、つまるところは民のイメージ形成力によるのだ。
人民は統治者だ。
現行統治者へのヤジを飛ばすのもいい。自由を制約する政策に抗議するのもいい。
だが、それだけでは政治は良くならない。
人民は同時並行的に、自己のイメージ形成力の育成に、つとめていねばならない。
常時勤めて、統治担当者の仕事もイメージできるようにならねばならない。
でないと、一国の政治も良くなっていかないのだ。
『箴言』29章18節は、そういう政治の奥義をも示唆してくれている。
それを「幻なき民は滅ぶ」などと、かっこいい言葉で言い換えさせるのは、
その奥義を見えなくするものだ。
これを悪魔の導きによる、と思う人は思えばいい。
がともかくかっこいい文句は「目くらまし」になりやすいことを覚えておくべきだろう。
この覆いを取り払えば、聖書という書物は、スモールグループでの相互吟味を通すことによって、
その種の知恵を限りなく明かしてくれる書物なのだ。
(続く)
時間のある方はこれも参照されたい。
https://www.youtube.com/watch?v=xs5Qt6WauDg
