鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

3.人民の民主政治能力

2013年07月30日 | 聖書と政治経済学




人民が政治に参加するという思想が日本に入ったのは明治維新以降である。
だがそれを知ったのは『民約論』などの論理的な書物を理解できる知識層だけであった。
自由民権を叫んだのも、武士階級出身の進歩的な人民だけであった。
「板垣死んでも自由は死せず」の文句で有名な板垣退助も、土佐の上級武士層の出であった。

農、工、商階層だった人民には、政治は「お上のなさること」だった。
この意識は、人民の心の底流で大正、昭和にも続いた。
立憲君主制ができても、人民には、一人の主権者として積極的に政治に関与しているという意識はなかった。




<自由民権政治は聖句主義活動が昇華したもの>

民権政治は米国で始まった。
この人類の奇跡を実現したのは、バイブリシスト(biblicist)と呼ばれた聖句主義者たちである。
彼らは、初代教会の時代に、小グループで聖句を自由に吟味し合う方式を開始した。
以後2000年後の今日までそれを守り通してきた。
5世紀から16世紀までの1200年間、この活動を止めさせようとしてなされる彼らへの迫害は熾烈を極めた。

聖句主義活動史の研究家、キャロルは、この間に殺戮された聖句主義者の数を5千万と推定している。
単純平均して、年に4万人である。
毎年毎年4万の同志が殺される中で、彼らは活動を死守した。
死の危険を冒すほどの歓びを聖句自由吟味はあたえるものか、については後述する。

ともあれ彼らは小グループでの決定事項を、平等の原則で、全成員で決めた。
より広範囲な事項の決定のためには、小グループのリーダーたちが連携して、広域小グループを作った。
そしてここで平等の原則で決定した。

この方式が国家レベルにまで昇華しのが、米国の民主政治である。
驚くべきことに、このシステムは紀元後1800年にすでに国家憲法で確定されている。
この中で、聖句主義者の行動様式もまた、アメリカ人民全てに普及した。





<日本では士農工商の階層政治>

1800年と言えば、日本では徳川幕藩体制下の寛政時代である。松平定信が寛政の改革をやっていた時期だ。
この時代、日本の人民に民主政治の意識など毛ほどもない。
民族は階層化され、全人民が階層に縛られて暮らしていた。

政治担当階層たる武士階級においても、その職務は世襲制であった。
歴史記述は老中という職種が実力主義だったという印象を与えるが、
その職位につける人物は、上層の家柄のものに限られていた。

「偉い職位は世襲が当然」という意識は、明治維新で四民平等の建前が実現しても、
人民の間に濃厚に存続した。
上位職位に付いたものは、すぐに子孫にそれを受け継がすように画策した。
自分の家系での上位職世襲がやりづらくなっても、家柄家族は相互婚姻でもって
世襲可能性範囲を巧妙に拡大した。
そして血族、閨閥複合体のなかで、上位職を回すというケースは、
あるいは複合体相互の間でうまみのある職種を融通し合うというケースは
戦後の民主憲法下においても横行している。(広瀬隆『私物国家』等参照) 
だからこの国では、上位職の能力劣化が速やかに広がっていく。




他方、日本の「寛政の改革」時代の米国には、世襲意識はもとより希薄だった。
そのなかで人民に積極的な民主政治思想が行き渡り、しがらみのない民主政治がフル機能していた。
まもなく、今の民主党ができあがり、少し遅れて共和党も形成されて、二大政党体制が確立した。
(このいきさつについては後述する)

鹿嶋は自民族を卑下するつもりはない。
だが、人民の民主政治能力についてみれば、彼我の差はあまりに歴然としている。

(続く)





コメント (2)
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