
創造神理念については、まだ追記することはありますが、同じテーマを続けると飽きます。
今回は話題を変えてみます。

<説教での解釈は間違いでは?・・・>
このところ、とある教会の礼拝に飛び飛びに出席しています。
最初は、一年程前か、次は数ヶ月まえ、そして1週間程まえ。
飛び飛びもいいところです。
そこの主管牧師さんは、鹿嶋のことを著書などでよく知っておられました。
鹿嶋が「深読み」した聖句解読などしていることも、知っておられた。
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説教が終わり、献金、祝祷などがなされると、礼拝行事は終わります。
牧師さんは、信徒教会員をはじめ出席者のところを回って、声をかけていきます。
教会を運営するというのもなかなか大変な仕事なんですね。
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鹿嶋の所に来られたとき、小さな声でボソッとつぶやいて離れて行かれました。
「・・・今日の説教は緊張しましたよ。先生がおられるんで・・・」
最初はお愛想かも知れないと思っていました。
たが、最近また同じようなことをささやいて行かれました。
「先生、緊張しますよ。“説教した解釈が間違っている”と思われているんじゃないかと・・・」

<自由吟味思想は日本に入っていない>
今回それを聞いて、鹿嶋は考えました。
「日本には、聖句自由吟味主義という思想は、今も全然入っていないんだなあ」と。
この思想を知っていれば、自分の解釈が究極「正しい」とか「間違っている」とかいう思いは生じないのに、と。
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鹿嶋は、聖句自由吟味の思想と活動を初めて書物でもって日本に紹介しました。
ブログでは書いていましたが、紙の本で知らせたのは、初めてでした。
訳書『バプテスト自由吟味者』がそれでした。
その牧師さんも、最近入手しておられました。

だが、今回の「ささやき」で、確信しました。
もし読まれていたとしても、全然わかっておられないんだなぁ~と。
そしてあらためて悟りました。
聖句自由吟味主義というのは、具体的に「どんな風か」を示さないと、理解されないものらしいなあ~と
そこで今回は、例を一つ示してみようと思います。
「ヨハネによる福音書」第1章に記録されている話です。

<ナザレからいいものが出るはずないよ!>
イエスは宣教を始めるに当たって、12人の弟子を迎え入れていきます。
順番に選ばれていく弟子の内の、4番目はピリポです。
そのピリポが是非弟子に、と誘うのが友人のナサニエルです。
ナサニエルは結局は5番目の弟子になるのですが、当初、ピリポから話を聞いた時には次のように応じています。
聖句をみてみましょう~。

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ピリポはナサニエルを見つけて言った。
「われわれは、モーセが律法の中で書き、預言したたちも書いている方に出会ったよ。
ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」
ナサニエルは彼に言った。
「ナザレから良きものが出ようものか」
(ヨハネによる福音書、1章45-7節)
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このナサニエルの態度について、通常は、こんな解釈(説明)がなされています~。
「ナザレのような遅れた貧しい田舎村から、そんな優れたモノが出るわけないじゃないか」とナサニエルは思ったのだ~と。
韓国ソウルでかつて、人類史初の100万人教会を作ったと自認されていた超有名牧師さんも、そう説教をしておられました。

<旧約聖書の預言に照らしてみると>
ですけど、それが唯一の解釈ではありません。
次のような解読も出来そうですから。
つまり・・・ナサニエルは、聖書の預言を意識に於いてそういったのだ~と。
代表的預言の一つは「ミカ書」という旧約聖書のなかの書物の次の聖句ではないでしょうか。

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「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだ。
だが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になるものがでる。
その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」(ミカ書、6章2節)
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ここで、ベツレヘム・エフラテは、聖都エルサレムの西南方向8キロほどの所にある地です。
地図では、エルサレムのすぐ左下に当たります。
この当時、寒村でしたが、かつてダビデ王が生まれた町として知られ、別名「ダビデの町」とも呼ばれていました。
この『ミカ書』での「支配者」とは「救い主」を意味しています。
旧約時代、「救い主」とはダビデ王のような強い指導者だと、イスラエルの民は思っていました。
つまり、優れたリーダッシップをもって民を導き、良き支配をする支配者だと考えていた。
(この救い主は実は「人類の罪の代償を創る方」だと明かされるのは、新約聖書の時代です)
『エレミア書』の次の聖句も、これを支持しています。

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「その日わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす・・・」(エレミヤ書、23章5節)。
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そのダビデの子孫から、救い主は出ると預言しているのですね。
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ナサニエルは、そうした預言書をよく知っていた。
それを踏まえて「聖書に預言された救い主は、ダビデの町、ベツレヘムから出るとされている」
~と確信していた。だから・・・
「ナザレの大工の子だって? ナザレからそういう存在が出るはずがないではないか・・・」
~といったのだ、・・・とこういう解読もできなくはないのですね。
(こちらの解読の、聖句文脈的整合性を吟味すると、自由吟味活動の有様はさらに具体的になるのですが、長くなるので別稿で示します)

<究極の正解は「人間には」わからない>
解釈はまだあるかも知れません。
だが、ここではこの二つけだとしたら、どちらが正解でしょうか?
その答えは「人間にはつまるところはわからない」となるでしょう。
なぜなら、究極の正解かどうかは、聖書にある全ての聖句と整合しているかどうかをみなければ言えません。
ところが、聖書の論述範囲は膨大で、そこに含まれる聖句の示唆する範囲は膨大です。
これらすべてを論理的に整合させて、その全体系を把握することなど、人間の短い生涯ではとてもできないことです。
だから、ナサニエルのこの言動の解読も、究極的には、どちらが正解かは言えないのです。
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これはナサニエルの言動に限ったことではありません。
一般的に、どういう解釈も、それが究極的に正しい、とは人間には言えないのです。
裏を返せば、どの解釈も「それは間違いだとの断定」は人間には出来ないことにもなります。

<聖句解釈自由の原則>
米国南部のバイブルベルト地域では、それを体験的にも踏まえたうえで、独自な方法をとっています。
(実際にはそれはキリスト教発祥の初代教会の方式でもあり、彼らはそれを精神的祖先から2千年にわたって継承してきているのですが)
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どういう方法かというと、教会はまず、教会員個々人に聖句解釈の自由を与えます。
個々人はそれを受けて聖句を自由に解読します。様々な解釈が成り立ってきます。彼らはそれらを入念に聖句と照合し、吟味します。
次いでその見解を自分が属する小グループに持ち寄って、相互吟味し合います。
それを通して、他者の解読にも教えられます。
だが、つまるところは、その時点で最も正しそうに思う解釈を見出す。
そしてそれを、その時点での自分の聖句理解として生きていくのです。
これは、後にもっと妥当そうな解読が浮かんだら、それに修正するという前提を含んでいます。
(だから彼らはいつも聖句を吟味しています)
そして、またそれを踏まえて生きていく。
有限な人間はそうやって生きていくしかない、~と彼らは確信しているのです。

<個人の自由吟味を認めるところでは “異端”という思想は出ない>
ここで知るべきは、「この方式では“異端”という言葉は出ない」ということです。
なぜなら、異端とは「正統(究極に正しい)」という考えがあって初めて出る思想です。
だが人間の解釈に絶対正統というのがあるとは彼らは認めない。
だから「異端」という思想は出てこないのです。
この思想、この活動方式がキリスト教の源流で、それは今も巨大な流れとなっている。
これを知ったら、前記の主管牧師さんも解放されるでしょう。
「これが今この時点での俺の解読だ。この解釈が絶対に間違いなどと言える人間は、この世にいないのだ」と確信してのびのびと説教されていかれるでしょう。
余計な懸念に知的エネルギーを使うのは、もったいないことなのです。
