前回、脇道に入って、富岡八幡宮事件の聖書視野からの理解など述べましたが、本筋に戻ります。
前々回に、「聖句は多義的、教理文は一義的」となるという、その構造のようなことを述べました。
そこにもどって今回は、「霊感」について考えてみたいと思います。
聖書という書物は、本質的に霊界の法則を述べた書物です。
その中の聖句も本質的に、霊的なことを示す文章となります。
ですから聖句吟味には霊感は不可欠となります。
<霊感とは>
霊界は五感認識を超えた世界です。
その世界を感知・認識する能力が霊感です。
日本では日常語ではこれを「第六感」とか言っていますね。
英語でもシックスス・センス(sixth sense)なんて言葉もあるようですね。
ただし、この英語は広く「直感(intuition)」をさすこともあるようなので、漠然とした言葉にも成っています。
日本でも、七感、八感などを加えて言う人もいます。
まあ、五感を超えた能力全般を漠然と言っているわけです。
=認識対象との対応で見ると=
そこでもう少し明確に、霊感をとらえられないかと考えました。
そしてそれは霊感という語を、認識される対象と対応させて考えるたらいいのでは、と思いました。
やってみますね。
<物質は素粒子>
まず、物質から。
量子物理学(量子力学)は、全ての存在(聖書では被造物)は、波動で出来ていることを明かしました。
これでいくと、いわゆる物質も波動が凝集してなる粒子(素粒子)で出来ていることになります。
だがこれは霊感による認識の対象ではありません。
<霊は超微粒子>
では、御使いや人間の霊などの、被造霊はどうか。
これも波動の凝集体である粒子でできていると考えられますが、その、粒子は素粒子より何億倍も小さい、超微粒子だとみるのがいい。
だから、この粒子で構成されている霊は、物質よりも遙か緻密に出来ているわけですね。
それ故、肉体のように、10年もすればまとまりを失って消滅する、ということはない。
いったん創られると、永続するわけです。
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この超微粒子のアイデアを鹿嶋は「サイ科学」という分野から得ています。
19世紀から西欧では心霊科学が盛んになってきました。
その流れで「サイ科学会」という学会も出来ています。
サイというのは、サイコロジー(心理学)のサイです。
この学会では、霊は「サイ粒子」という超微粒子で出来ていると考える。
それは素粒子の10億分の1というサイズだ、という仮説で、研究をしています。
ただし、サイ科学会では、鹿嶋の知る限りではまだ量子力学の知識は取りいれていません。
だから、凝集した超微粒子の周囲に、粒子に凝集しきらなかった波動が漂っている、というイメージはありません。
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鹿嶋は量子力学の存在論をベースに考えるようになってきています。
そこで、こうした超微粒子とその周りの波動とを認識する能力、これを霊感だとまず考えます。
そしてその認識は、自らの意識波動を霊の波動と共鳴させることで可能になると考えています。
<創造神(霊)は、波動の源>
さてこうなると、やはり、創造神(創造霊)も考えておかないといけませんよね。
聖書の世界観は、創造神をベースにして出来上がっていますので、不可欠な認識対象です。
そして聖書では、人間はそれを認知する可能性を持つことになっています。
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創造神は霊的存在です。
だが、被造物ではないのですから、被造霊ではなく、創造霊です。
創造神を、被造物のように、超微粒子で出来ているというように考えたらおかしいでしょうね。
ではどうイメージしたらいいか。
それは「波動の源」であり、自ら波動そのものである。
そして、被造界に波動を放射している存在と考えたらいいと鹿嶋は考えます。
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また、この波動の源を認識する能力も、また、霊感と呼んでいいと思います。
その認識方法も、被造霊のそれと同様だと考えるからです。
つまり、自らの波動を共鳴、共感させることによって、認識する。
被造霊である天使(御使い)や人間の霊と同様な方法と考えるので、これも霊感
としていいわけです。
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考察が深くなってきています。
こういう話は短く切らないとゴチャゴチャしてしまう。
今回はここまでにしましょう。