鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

霊感と聖句

2017年12月22日 | 政治見識のための政治学





前回、霊感を認識対象別に考えました。

物質、被造霊、創造霊、と大きな枠組みで考えました。

今回は対象を「聖句」に絞ってみます。





<聖句は霊的知識の文章>

聖句とは聖書の中の文章です。

そして聖書は他の書物にない特徴を持っています。
それは「みえない意識体の世界」である霊界のことをすぐれて重点的に述べています。

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ちょっと関連する日常感覚を引き合いに出してみましょう。

教会、寺、神社などは宗教の建物です。

そこは程度の差こそあれ、みな、外部の空間よりも、霊的です。

だが、各々の建物の中で感じられる雰囲気は、教会が最も霊的です。

賛美歌も読経や祝詞よりも、霊的な雰囲気が強いです。

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神社は基本的に葬式は請け負いませんので、仏式とキリスト教式の葬式を比べてみます。

すると、仏式は形式的なものが表立っている印象を受けます。

お坊さんの唱えるお経は、言葉の意味がよくわからないので、よけいにそうなります。

他方、キリスト教式の葬式での牧師の説教は、言ってる言葉はわかります。
そしてそれが霊的なことがらであることも感じられます。

歌われる賛美歌も、霊的な歌であることがよくわかります。

♫ 主よみもとに、近づかん・・・♫ 

            ~ですからね。


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それらは聖書のもつ知識が優れて霊的であることを反映しています。

聖書の独自な存在意義は、霊的な知識にあるのです。

もちろん、見える世界の事柄の知恵らしきものも述べていますよ。

だが、それも霊界のことを比喩で示しているとも解せることが非常に多い。

聖書は本質的には霊界のことを示す本なのです。

そして聖句はその中の文章ですから、聖句の認識には、霊感が不可欠な鍵になります。

(聖書を読む場合には、前もってこのことをしっかりと自覚して読むと効率的です)





<比喩表現が多い文章>


だが霊的存在そのものを言葉で述べても、話自体がチンプンカンプンで人間にはよくわかりません。

そこで、まずは人間の「目に見える」物質に投影させて述べることになる。

すると、話としてはまずはわかります。

そして次に、この話は何を示唆してるんだろう、と考えていかれるわけです。

聖句はそういう傾向の高い文章です。

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でも物質界に投影されたら、それはたとえ(比喩)となりますよね。

霊の事柄を、物質界のものにたとえて述べるわけです。

だが物質は多面体です。色んな面を持っています。

それらの面はすべてつなげられうる。
だから、多様な理解、解釈が可能になるんですね。

そこには霊的な繋がりを示す解釈も、「見える世界」の繋がりを明かす解釈もあるでしょう。

たともかく、聖句は基本的に多義的になる。

これは前々々回にも述べましたね。





<聖句解読>

その中で、最も妥当そうな解釈を探究していくのが聖句解読です。

聖句を理解した「わかった」という感覚が得られるときとは、その一つ選んだときですからね。

選んで、「これがこの聖句の意味だ」と確信したときだ。





<霊感は常時働く>

その際、解読者はどういう精神作業をするのでしょうか。

まず、あり得る複数の解釈をさぐりだしていきます。

そしてそれらを心に保留するでしょう。

そのうえで最も妥当な霊的な解釈、意味合いを感知しようとします。

その際、他の聖句との整合性を全ての解釈につき吟味します。

ここで論理という能力の助けを得ます。


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だが、これらすべての作業で、常時活躍するのが霊感です。

これは吟味の最中にも常時働きます。

かつ、最終的に妥当な解釈を感知もさせるのです。

これと同時に当該聖句が意識に留められます。
当然ですね。

全ての解釈は聖句と照応されるのですから。

そしてそこで霊感が協働し続けるわけです。




<聖句の瞑想時間>

また、こうした作業のあいだ、解読者はその聖句を心に抱き瞑想もします。

イエスが弟子たちに「私の言葉の中に住まうのなら諸君は私の弟子になる」と言った際の「言葉の中に住まう」というのもそれにあたります。

この黙想の間に霊感は動き出します。

この動きが出るまで聖句を瞑想します。

するとあるときいくつかの自分の解釈が霊感に感知されるのです。

感知されたら最も妥当なものを選び取ります。

ここで他の解釈を捨てます。

これが聖句解読の時間的過程です。

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この、結果的に選び取られた解釈、これを言葉で言えば教理です。

だがここで注意することがある。
この教理は、教理統一方式の教会での信徒たちのそれとは別物だということです。

教理統一方式では、その教理を絶対正統なものと与えられて「がぶ飲み」します。
だから聖句との照合のステップは一切入っていない。

そもそもこの方式を代表する教会は個人的に聖書を読むことを禁じています。





<盲信と自由吟味>


だから知力も霊感も働かせることがない。

この状態を別名「盲信」といいます。
英語ではカルトです。

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他方、自由吟味方式の教会では、この教理は教会員個々人が心に抱く“その時点での教理です。

この教理には、霊感が強く働いたときの感触が伴っています。

また、聖句の言葉それ自体も伴っています。

そして、生きていく中で、より妥当そうな解釈が浮上したら、謙虚に切り替える。

自由吟味者はそのために、常に聖句を心の中に住まわせ(abideさせ)て生きるのです。







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