先回、聖句自由吟味主義の思想を、ヨハネ伝1章の聖句を例にとって説明しました。
この話は、今少し深掘りするともっと面白くなります。
もう一度、聖句を掲げましょう。
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ピリポはナサニエルを見つけて言った。
「われわれは、モーセが律法の中で書き、預言したたちも書いている方に出会ったよ。
ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」
ナサニエルは彼に言った。
「ナザレから良きものが出ようものか」
(ヨハネによる福音書、1章45-6節)
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このナサニエルの言葉には、少なくとも二つの思いが想像できましたね。
一つは、「ナザレのような遅れた貧しい田舎村から、そんな優れたモノが出るわけないじゃないか」という思いでしたね。
今ひとつは「救い主は、ダビデの町、ベツレヘムから出るとされている」との聖書預言を踏まえての、
「 ナザレからそういう存在が出るはずがない」という思いでした。
そのどちらも「解釈」です。「教理」や「教義」も解読も同じ意味を持った別名です。
<聖句は多義的>
このように複数の解釈が可能なことを、「多義的」と言います。この場合の「義」は「意味」と同じ内容の言葉です。
上記の聖句では、「ナザレの田舎者だから」という意味解釈と「聖書の預言にないから」という意味との二つの解釈が可能になっていますよね。
そしてこのような多義的な性格を「聖句の文章」は、基本的に、持っています。
<教理は一義的>
反対に、一つの解釈を持つことを「一義的」といいます。
これは「解釈(教理)文」の特徴です。
解釈するというのは、「理解をする」「わかるようにする」と言うことです。
「わかる」という感覚は、意味を一つに絞ることで得られますからね。
そのためには、各々の解釈を他の箇所の聖句と照らし合わせて、その整合性を吟味したりすると有効です。
上記聖句の例でやってみましょうか。
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上記聖句のすぐ後に、こんな話が続きます。
~しかしピリポは「とにかく来て見てごらんよ」という。
「まあ、そんなにいうなら」、とナサニエルは友達ピリポに付いてイエスの方に向かっていきます。
するとこのナサニエルをみて、イエスがこんなことをいっているのです。
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「これこそほんとうのイスラエル人だ。彼の内には偽りがない」
(ヨハネによる福音書、1章47節)
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このイエスの言葉は、「ナザレのような遅れた貧しい田舎村から、そんな優れたモノが出るわけない」という思いと、あまり繋がりがないように見えませんか。
他方「救い主は、ダビデの町、ベツレヘムから出るとされている」との聖書預言を踏まえての思いはどうか。
正統なイスラエル人は、常に聖書預言を通して歴史を見ます。
イエスは上記のナサニエルの言動を透視していて、彼にそれを見たのではないでしょうか。
だから「これこそまことのイスラエル人といった」
~という解釈の方が整合性が高いのではないでしょうか。
そこでこの二つの内で一つに絞るとしたら、後者の解読の方が有力な候補となるでしょう。
こうして他の候補を捨て去って、一つを選択していく。
これが解読です。
かくのごとくに多義的だった上記聖句は、一義的な解釈になるのです。
ともあれこのように、解釈をするというのは、「多義的な文を」「一義的にする」ことということもできるのですね。
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今回の話の主眼は以上にあるのですが、ここで一つ追加しておきましょう。
では、聖句は何で多義的なんでしょうか?
<聖句文は比喩表現だらけ>
色んな理由が絡み合っているのですが、一つは「比喩」(たとえ)で述べられている話がとても多いことでしょう。
<「見えない世界」の事柄記述が多い>
そうなる理由の第一は、霊界という「見えない世界」の事柄を述べているところがとても多いことでしょう。
聖書は詰まるところは霊界の事柄を知らせる書物ですからね。
<新約聖書>
新約聖書では、イエスが霊界の真理を語った話が非常に多いですよ。
その際、イエスは比喩を多用しています。
聞く人々は霊界のことをそのままいっても理解できませんからね。
これを見える物質界の事柄に投影して語るわけです。
そして別の者に投影して語るとは、すなわち、たとえ、比喩で語ることですからね。
<「女心と秋の空」>
そして比喩は必ず複数の解釈を可能にしますよ。
たとえば「女心と秋の空」ということわざのような文がありますよね。
これを聞くと多くの人は「ああこれは女性の心は瞬時に変わりやすい、といっているんだ」と思うでしょう。
だがそれは、そういう解釈が普及していて、常識化しているからに過ぎません。
原理的には、解釈は複数成り立ちますよ。
まずこれは女性の心を秋の空に喩えた(投影した)文ですよね。
けれど、投影された「秋の空」には色んな面がありますよ。
晴れた日には澄み切ったブルーになる、面がある。
白い雲が加わったらさら美しい、という面もある。
速やかに曇ったり、雨になったりする、という面はその内の一つですよ。
ほかにもあるでしょう。
この全ての面に女性の心は結びつけることが可能です。
こじつけと言われようと、とにかく、結びつけることが出来る。
このように、比喩表現は必然的に多義的になるのです。
上記の常識的解釈は、その内の一つがより広く普及しての結果であるに過ぎません。
比喩の解釈は基本的にいろいろに、つまり、複数出来るのです。
<旧約聖書>
旧約聖書となると、もう全体が本質的に比喩表現となりますよ。
それを示したのが、イエスのこんな旨の言葉です。
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「聖書(旧約聖書)はわたし(イエス)私のことを述べた本なのだよ」
(ヨハネによる福音書、5章39節)
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聖書に関するイエスの言葉は、キリスト教ではもう文句なく受容すべき言葉となります。
だからこれは受容すべきですが・・・、だけど、旧約聖書にイエスという言葉(名)は一度も出てきませんよ。
それがイエスのことを言っているとなれば、これはもう、間接的に別の表現で言っているとしかなりません。
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「別の表現で言う」とはすなわち「比喩(たとえ)」でいうことです。
そして、それが詰まるところイエスのことを言っているとなれば、そこに至るには必ず比喩の解釈が入ることになります。
この場合は、「秋の空」のように、「これが投影スクリーンだよ」と明示されていて、「その心を見だしてください」とはなっていない。
比喩表現されたスクリーン自体を見つけ出す、という仕事も含まれていますので、解読は大変です。
が、ともあれこのように旧約聖書はすべて解読の必要な比喩表現にみちている、ということになります。
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このように、聖書の中の聖句は、色んな解釈が成り立つ、すなわち、多義的なんですね。
この聖句文の持つ多義性には、もっと含蓄があります。
だが今回はこの「多義的という特性」の指摘でもって終えましょう。