富岡八幡神社で起きた肉親間の愛憎殺戮劇がテレビを賑わしていますね。
でも、何かわかりにくいところ、釈然としない点が心に残りませんか。
あれは、超安定的に得られる強大な利得権を肉親の間で奪い合う、骨肉の愛憎劇ですよね。
あの姉弟の間にも、幼少時までには人としての生来の肉親愛はあったでしょう。
だがその利得は宮司となった者が慣習上独占できるのですね。
またその支配権の継承は、血族の間だけに慣習的に承認されています。
世間の競争から守られています。
この利得はものすごく安定的でもあるのです。
<企業創業者の息子たちにも>
こういう関係は、企業創業者の息子たちに間にも見られるモノです。
だが企業はオープンな競争にさらされています。
神社の集金機構ははるかにもっと安定的です。
その安定的利権の巨大さが、肉親の情を圧倒するようになっていく。
成長するにつれて、利得権への欲望が、肉親の愛情を凌駕していく。
そういう人間関係の中で起きた事件なんですね。
<安定巨大利得の由来が説明できてない>
だけど、そういう利権が出来上がってきている構造を説明できるコメンテーターがテレビにはいないんだよね。
だから、何か漠然とした気持ちが、われわれ視聴者の間に残るんだ。
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この構造は、聖書の視野でみると、明瞭に浮上してきます。
鹿嶋は、これまでにも、神イメージの図をここにも掲載してきましたよね。
それをもう一度掲げましょう。
図の右側には在物神という神イメージが示されています。
人は自然なままで、神イメージを本能的に求めます。
神とは、「見えない影響者」です。
人間は自分の生活に、良き影響を与える「見えない存在」を期待し、また、「よからぬ影響を与える」かも知れない「見えない存在」をイメージして恐れるのですね。
<在物神>
創造神理念を知らない状態ですと、人はその影響者を「物質の中に内在する」とイメージします。
鹿嶋はそれらを一括して「在物神(ざいぶつしん)」と把握してきましたね。
物質とは、目に見える存在です。
これをみて人は、そこに内在する神をイメージ致します。
山道を歩いていて大木や巨岩出会うと、人はその中に「見えない影響者」をイメージします。
山にも、川にも、海にも、空にもその中に内在する見えない影響者をイメージする。
石や木を彫った像のなかにも神イメージを抱きます。
家の形に作った建物にも、人は内在する神イメージを抱きます。
<建造物のイメージ形成力>
そうした物質の内で、存在感・リアリティをとても濃く感じさせてくれる一つが、家の形をとった建物です。
ある程度大きな建物は、その中に神イメージを、人を包み込むような大きさでイメージさせてくれます。
またこのイメージは、山や海ほどに膨大でない、ちょうど実在感が薄れない大きさです。
そうした建物に対面するとと、人はその中に「見えない影響者」の感慨を、優れて濃く感じることが出来るのです。
だからその建物は多くの人民に常時的に礼拝されるようになります。
これが神社・神殿となっていきます。
<仲介者が出現する>
それに併行して、その建物の内にいるとイメージされる在物神と、交信できているような人物が現れます。
彼は、その神と人民たちとの仲介者となっていきます。
人民はその仲介者に、頼るようになります。
この仲介者が複数となり、彼らが階層を形成することもありますが、ともあれその頂点に立つのが宮司(ぐうじ)です。
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人々は、この仲介者に仲介代金を支払うようになります。
それに神様への捧げ物というイメージを混ぜ合わせて捧げます。
すると、出金の抵抗感は軽減します。
こうして自発的な動機が混ぜ合わさった出金の「集金するシステム」が出来ていきます。
すると、仲介者は、自分が目の前にいなくても、人民が建物の中にイメージする在物神に捧げ物をする仕組みも考案します。
それは社殿の前に器物(賽銭箱)を置くことでもって実現します。
こうすると人民は、常時的にお金を捧げるようにも成ります。
正月や祭りの日などには、これが結構多額な賽銭をうる自動的集金システムとなります。
<恐れ混じりになるのは>
さて「イメージ」とは広い意味の用語です。
在物神イメージは「感慨」という純粋に感性的な心理実体になります。
感慨はフィーリングであり、フィーリングは理念にはなりません。
感慨のままです。
だから、在物神イメージは在物神感慨ということもできます。
そして「見えない影響者」の感慨には、「祝福」(幸せをもたらす力)への願い、期待と、「呪い」(不幸をもたらす力)への恐怖~この二つのフィーリングが同居しています。
つまり、在物神崇拝では、「恐れ」に縛られた心理状態が併存するのです。
<創造神理念が投入されると>
だがここに「万物の創造神」というイメージ投入されたらどうでしょうか。
これは在物神とは一線を画する別ものです。
創造神というのは、物質の認知に伴う「感慨に先導される」ことが全くない神イメージです。
それは理念として導入される、理性的なイメージ体です。
だから、創造神理念ともいえます。
<自然発生しない理念>
この神理念は人の心理に自然発生はしないものです。
それは外部から投入されてはじめて存在するようになるものだ。
そしてそれを投入するのは聖書という書物です。
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ともあれこれは理念(概念)ですから、そこから論理的な思考を展開させる余地を持っています。
そもそも、「自分以外の万物を創造した神だ」というのがすでに「創造者」という属性の概念(理屈)を含めています。
他にも属性は考えられますよ。
例えば、万物の創造神なら空間的に無限の広がりを持つでしょう。
もし有限ならば、その外側のものは「オレが創った」とは言いがたいからです。
このように「空間的無限者」という属性概念をも創造神理念はすでに携えているのです。
同様な理屈で、創造神は時間的にも無限者となります。
<被造物への文句なしの上位者>
他の属性もありますよ。
「創造した側」だから「被造物」には絶対的上位者だというのもそれだ。
この感覚は、我々人間が日常的に抱く心理にすでに存在しています。
たとえば、テレビ受像機は人間が創造したものです。
これを、人間は好きなように使用し、使えなくなったら廃棄するでしょう。
それを当然なことのようにして行っているでしょう。
この行動にすでに、「創ったものは無条件に上位」という感覚が表れています。
聖書では創造神理念は、被造物である人間への哀れみも抱く存在となっています。
この心理は創造神が人間を創るとき「自分たちに似た形に創造しよう」としたことからも来ているかも知れません。
<究極の「見えない影響者」>
さて、この創造神理念が心に入ると、人の神イメージ世界は変化します。
この神が「究極の影響者」であると思うようになる。
もし、在物神が霊として存在していたとしても、それは創造された被造霊だからね。
創造神の統治下にある霊的存在だ。
そう意識されると、在物神への崇拝心は薄らいでいきます。
すると在物神感慨に混じり込んでいた「恐れ」(呪うこともあるという)の感情が希薄化し消滅します。
<創造神認知は人を自由にする>
新約聖書でイエスはそのことを次のように弟子たちに言っています~
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「もし諸君が私(イエス)の言葉の中に留まるならば、諸君は真理を知り、そしてその真理が諸君を自由にするであろう」
(ヨハネによる福音書、8章32節)
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ここで「真理(truth)」とは「変わらざるもの」という意味です。
そして、究極の「変わらざるもの」とは、時間的無限者であり、無限の時間の中でそのままで存在する永遠者、である創造神以外に、存在しない。
論理的にそうなります。
他の存在である被造物には、そもそも、創られた時点という存在の出発点があります。
そこから存在を始めた、ということからして「変わらざるもの」ではありません。
さらに被造物は時と共に変化します。
変化する存在は、無限の時に流れの中で、別物になってしまいます。
つまりこの聖句は~
「私の言葉の中に住み留まれば人は万物の創造神を知ることができるよ。そうすれば人間の心から在物神イメージは希薄化し恐れは消滅する。恐れは人の心を縛り続ける力を持つからね。それが消滅するので、やっと自由になれるのだ」
~といっているのです。
繰り返しになりますが、創造神理念を知っていたからこそ、在物神イメージの特質も、これと照らし合わせて浮上しました。
それによってそもそも、神社なるものが何故あんなに強大で安定的な集金機構になるのか、が構造的に認識できた。
すると、日本では神社の支配権を持つことがどんなに大きな世的利益を生むか、がわかってくるのですね。