別稿でも示したように、精神医学では鬱を脳神経系の領域のみで考え、これに西洋医薬品で対処している。
方法は二つで~、
① 霊の意識状態を受信する脳神経系を薬で鈍化させるもの。
② 向精神薬で神経を一時的に興奮させ、躁状態に向かわせるもの。
~となっている。
ところが①は、鬱という拷問のような心理の受信を、伝達神経を鈍化させて、ごまかすだけのものだ。
②は、依存症、中毒に直結している。ヒロポンなどと同じだからだ。
こういう処方は、長期的に効力がないだけでなく、危険極まりない。だが、患者は医者を信頼しないわけにいかない。戦後の日本人は無自覚な科学盲信者になってしまっている。
その結果、この方法に依存して、どんどん精神病患者になっていく。
鬱心理が生じる領域は神経系ではなく、聖書が「霊」と呼ぶ意識体でありそうだ。神経系はこの意識体の状態を受信して脳に送るネットワークに過ぎない可能性が大きい。
ところが精神医学者たちは、浅薄な科学主義に陥っていて「見えない存在」を考慮の外に置く。
<浅薄科学に咲いたあだ花~行動主義心理学~>
物理学に基礎科学があって、それを応用する応用科学が存在するように、心理学でもこういう二分野が存在する。基礎科学は心理学理論であって、その応用科学が臨床精神医学だ。
ところがこの心理学理論の大勢が、浅薄な科学主義に陥っている。それを絵のように現しているのが、20世紀初頭に流行った行動主義心理学だ。
ジョン・ワトソンという人が提唱したこの心理学は、科学だから認識対象は「五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)認知が可能」なものでなければならず、意識(心)などという見えない対象をそのまま扱ってはならない、とする。また扱わなくても人の心理は把握できると考える。
そして、意識はブラックボックス(見えない暗箱)において見ないでおく。その上で人間の行動はこの暗箱にインプットされる「刺激」とそこから結果として表れる「行動」との相関関係を見たらわかる、とした。この考えで、条件反射(犬に餌を与えるとき鐘を鳴らすことを繰り返していると、鐘を鳴らすだけで胃液が出るようになるなどの現象)の研究などをしてきた。そうやって心の動きを認識外に置いた心理学が学界で流行した。
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この方法は、もっともらしいが、致命的な間違いを犯している。
科学というのはルネッサンス期に出た一つの認識の手法で、それは人間が五感で認知できるものに対象を限定して認識しようという、五感主義を基本原理としている。
それまで欧州人の意識を支配してきたのはカトリック教団の世界認識手法だった。教団の高僧たちや法王は霊感が働くので、創造神の真理を知っている、と自らを信じていた。こうやって「天は地上の上を廻っている」といった天動説を強硬に守って、地動説を唱えたガリレオを罰した。
ところが近代になると地動説の方が正しいことがわかってきた。それにつれてカトリック教団のように、五感で確かめられない事柄を含めて世界を認識するのはもうやめようという人々が出た。その彼らが始めたのが科学という認識手法だった。
だが、五感主義というのは端的な表現であって、その真意は「人間が経験認知できる要素に説明要因を限定する」というものである。そして人には五感経験以外にも経験認知できることがある。それは自分の心の内部を感触して得られる「内的経験」だ。
ところがワトソンは「経験的なもの」とは五感的なもの、すなわち「物的なもの」だと短絡した。彼は単純にも、内的な心の経験を見逃して行動主義心理学をつくった。そして、これが学界で流行してしまった。その結果、「心」を扱わない心理学の思想が学界で主流になってしまったのだ。
現代精神医学は、この心理学の影響下にありながら迷走している。
だが、そのことを指摘しているだけではもう足りない。
この迷走は日本民族のためにも、もう放置しておかれないのだ。
人間意識の構造に正面から取り組まねばならないのだ。