波動ベースで考えると、人間もまた波動体となる。
それは意識を持っているので、意識波動体ということもできる。
ここでもう一つ、「その波動体のおのおのは一定のエネルギーを内包している」とイメージしよう。
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加えて、エネルギーにも、もう一つイメージを付け加えよう。
エネルギーとして凝集している波動は、同一の方向を持っている、と。
またこれは度合いで考えることもできる。つまり凝集した波動はその方向の同一性が高いほどエネルギーは強くなり、低いほどエネルギーはその分弱まる、~と。
さてこうしておいて人間を考える。
人間という意識体は、生来、「生きよう」という志向を持つように創られている。
赤ん坊の口と鼻を塞いでみると、激しく頭を左右に振って呼吸しようとする。
この事実は、人間という意識体は「生きよう」という志向を持っていることを示している。
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そこでもう一つ、イメージを追加しよう。
この志向を形成しているのは、意識体が内包しているエネルギーだとイメージしよう。
このエネルギー(力)は、「生きようという方向」をもった波動でできている、とする。
<肉体・魂・霊>
さてそこに前述した聖書の人間構造論を導入しよう。
そこでは、人間はボディ(肉体)、マインド(魂:ソウルともいう)、スピリッツの三つの要素でなっていた。
つまり、人間はこの三つがともに「生きよう」という志向をもった状態で生まれてきているという理解になる。
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だがそれはこれは人間を総体的に捉えた認識だ。
そこに、「人間には自由意志が与えられている」という聖書の基本思想も導入すると、理解は変わってくる。
聖書には一貫して、「人間には~天使もそうだが~自由意志をもつように創造神は創造している」という思想がある。
また、そう創った以上、創造神は人間の自由意志には決して立ち入らない。聖書には一貫してその鉄則が貫徹している。
だがこれを上記の三要素の情報に照らしてみると、そのうち自由意志の働きを創るのはマインド(魂:ソウル)となる。
なぜなら、意志とは霊情報系と脳神経系との協働領域で働くものだが、その協働領域とはすなわち魂の領域だからだ。
(このことを見るために、前回の「フロイト精神図に擬した聖書の精神図式」をもう一度掲載しておこう)
<「いのちエネルギー」と「死のエネルギー」>
この想定によって、筆者はうつ心理の構造を次のように把握できてきた。
すなわち~、
人は生来自然なままでは「生きよう、生存しよう」という意識を持つ。
より詳細にはその肉体、魂、霊は基本的に「生きよう」という意識を持つ。
ところが魂は、与えられた自由意志力によって、その反対方向の意識をもつくることができる。
具体的には、「どうせ死んで消滅するのだから生きるに値しない」という意識も持つことができる。
意識とは意識体でもあるから、そういう意識体を魂は自らの内に創ることができる。
そして、その意識体は、「生きよう」とは逆の志向を持ったエネルギー(波動体)を放射していることになる。
「生きよう」とは逆方向のエネルギーとは、「死のエネルギー」と命名できる。
そしてこの命名をうると、同時に「生きよう」という方向性を持ったエネルギーに対して「いのちのエネルギー」という名を与えることができる。短く呼んで「いのちエネルギー」だ。
<「死のエネルギー」による「いのちエネルギー」の相殺>
このイメージを得て、筆者はうつ心理の構造の感触をえた。
つまり、魂に形成される「生きる価値などないよ」という意識は、そのうちに「死のエネルギー」を含んでいる。
このエネルギーが霊に生来ある「生きよう」という「いのちのエネルギー」に衝突し、それを相殺するのだ。
その結果、霊にある「いのちのエネルギー」は希薄化、弱体化する。
さらに強くなって「いのちエネルギー」を相殺して余りが生じることもある。
この状況が、心底(霊)のうちで鉛のような感覚を生むのではないか。
これが鬱の実体ではないのか、と。
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「いのちのエネルギー」については、まだ、追記したいことがある。
だが、それは次回に回そう。