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前回、人間が生来もっている無常観が、自己の永続意識を削いでいることを述べた。その意識が自価意識を希薄化させ、心底に鬱心理を常駐させていることを明かした。
これは人間の宿命にみえる。無常観は人間には打破できない、どうにもならないものにみえる。
だが、これに真っ向から対立する人間観を持った書物がある。それが聖書であって、これは「人間は永続する」という思想を一貫して明確にもっている。この人間思想を心に併存させれば、それはその分無常観を相殺してくれるように見える。
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<信仰に知性を!>
いまからその話に入る。だがこの話は初めて聞くものには~特に日本人には~受け付けがたい。
聖書と聞くと「これを宗教の本だ」とまず受けとめるからである。
多くの人は、これは神様について本だから100%信じなければ罰せられる、と反射的に思ってしまう。
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だが、神様は見えない存在だ。見えない世界のことを100%認識することなど、人間にはできない。
できないのに信じねばならないと思うものだから、恐怖がやってくる。
神様が特有の行動を促す本だと予感してしまうのも、恐怖を呼ぶ。期待に応えないと罰せられる、という思いが恐怖を呼び起こす。
そういう心理で話を聞いていたのでは、実際上、腰が引けてまともについてこられない。
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こうならないためには、聖書はまず理性を働かせて読むべき本だと思うことだ。
宗教だからと言って、「理性を働かせないでただひたすら信じるもの」だと前提しないこと。
初代キリスト教の大伝道者パウロも、「信仰に知性を」と強調している。
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<「まずは五分五分」が合理的>
理性は「見えない世界のことの真偽は、まずは五分五分」とみる。
神とは「見えない影響者」だが、この存否についてもそうだ。
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現代日本は「神?そんなもの存在しないよ、笑わせるな!」というのが、かっこいい、クール(理知的)だとの通念で今日まで来ている。知識人と称せられるセンセイがたも、マスコミの論調もそうした長い流行の中にある。口に出さない人も、無神論的姿勢を物事を考える際の暗黙の前提としている。
だけどそれは感情的なんだよ。見えないものが存在しないなんて、どうして断言できるのよ。だって見えないだけで存在してる可能性もあるのだよ。もちろん存在してない可能性もそれと同じくらいある。だから五分五分なんだよ、合理的には。
それが現実実在に即していると筆者は認識してるので、ある教会を訪問して信仰確認(告白ともいう)をさせられたとき「そうですね。ロクヨンくらいでしょうか、いまナナサンに向かってるという感じです」といった。叱られたね、牧師さんに。「そんな不信仰でどうしますか!」と。だが鹿嶋春平太チャーチの読者はその姿勢でフォローしてくださることを期待する。
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余談だが、そういう教育受けてるもんだから、信徒さんはみな「100%信じてます!」という姿勢をとる。だけど、そんなこともともと出来ないもんだから苦しくなる。で、それから逃れるために反動で対極に飛んでいって「もう100%信じられない、無神論に転向した」という人も出る。教会に通っていた人が、ある日突然行かなくなる、というのは大体これだ。
筆者が牧師なら、「各々五分五分からスタートして、各自のペースで比率を上げることを勧めます」とメッセージ(説教)するね。そしてその代わりにと言っていいかどうかはわからないが、説教の冒頭と終わりにこういう言葉を投げかけるね。冒頭には「こんにちわ、人間死んで終わりじゃないからね」、終わりには「では皆さん、人間死んで終わりじゃないからね、また来週、さようなら」と。
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