前回、躁気分、鬱気分の分かれ目には自価意識(セルフバリュー意識)が決定要因として横たわっていそうだという仮説を示した。自価意識とは「自分は存在する価値あり」という意識だ。この価値という概念には注目すべき特性がある。
価値というものは手に取って眺めたり食べたりできるものではない。これは何かに対して抱く「大切、意味ある」といった感情を理念化したものだ。それをものにくっついている「重り」のようなものをイメージし、それに投影させ比喩的に示した理念(概念)だ。
重りのように物的に比喩した概念をつくると、我々はそれを数量的に考えることも出来るようになる。10の価値、100の価値、億の価値といったごとくにだ。
さらに数学のマイナスの概念を適用することも出来る。するとそれを「大切な」の反対の「存在しない方がいい」という意味にも使えるようになる。たとえば「ヒトラーは生まれてこない方がよかった」という感情を持っている人は多いようだが、この場合、彼の存在価値を「負の値で」考えることも出来るようになる。「彼の価値はマイナスだ」というが如くに。
このようにして単に「存在が好ましい」という感情だけでなく、より広く、存在に関する「好悪の感情」をも価値という概念は示すことが出来る。
ただしこの便利な言葉には、援用に際して留意すべきこともある。実体は好悪の感情であることを心に保ちつつ用いることがそれだ。それを放念すると、価値の思考は空転に流れてしまう。
<土台が消えれば価値も消滅>
さて、この価値に関して重要なことがある。この感情は何らかの存在物に対して抱かれるものだ。つまり価値という意識は、存在するものの感覚に付与されるものだ。従って、付与している土台が消滅すれば自動的に消滅する。そういう宿命を持っている。
前回述べた二代目企業オウナーについていえばこうだ。社長継承を予定された彼が、自由市場経済を理想としているならば、彼は将来の自分を価値ある人物として想い描くことが出来るだろう。他者にも「自分はこんなに価値ある人間になる」と標榜することができるだろう。
ところが誰か意地悪な人物が「でもどうせ死んでおしまいでしょ」という言葉を投げかけたらどうなるか。オウナー予定者は二の句が継げられなくなるだろう。
このことは、存在が消滅したら価値も消滅する、ということを明確に示している。論理的にはそうとしかならないから、彼はギャフンとなるのだ。
<五感認識は無常観をもたらす>
そして、この自己存在はいずれ消滅するという意識は、通常人の心に強固に存在する。
なぜなら、人間は五感でしかモノを認識できない状態で生きてきているので、自己の存在も目に見える肉体をベースにして考える。そして人は物心ついたときから、祖父母や近隣の人などが死んでいなくなり二度と現れないことを、繰り返し経験認識してきている。
その結果、「人はいずれ死んでいなくなるもの」という知識は強固になっているのだ。生来のままでは人の意識はそこから容易に逃れられない状況にある。
<諸君は「死の奴隷」なのだよ>
それでいて、人は、消滅しないセルフバリュー意識を持ちたいと切望している。だからベースとしての自己存在の永続を、同時に本能的に願望してもいるのだ。
だが生来のままなら、人間は死んでおしまいと思わざるを得ない。
永続意識を願うが、現実にはそれは希薄なものにしかなりえない。
この状態を聖書は「死の奴隷」といっている。イエスの言葉だ。人が必然的に「死の恐怖」に繋がれて生きるざるを得くなっている実情を彼はズバリ指摘しているのだ。
<鬱の苦痛を遠ざけたくて>
つまり人は生来のままなら~永続意識希薄感の故に~セルフバリュー意識欠乏症、すなわちうつ心理に陥っていくようになっているのだ。
そうしたなかで人は賭け事や刹那的快楽に没頭して鬱心理を忘れ去ろうとする。スポーツ応援似感動やタレントのファンクラブにおける熱狂のなかで~多くは無自覚のうちに~鬱の苦しみを遠ざけようとする。
あるいは、社会的価値や自己目標(いわゆる「夢!」)に自分を関係づけて「かりそめの」セルフバリュー感を得て生きようとする。
<民族主義もセルフバリュー渇望から>
社会的価値とは自分を含む人間集団、家族、所属学校、所属企業、民族、民族国家、人類社会などに感じる価値である。
たとえば日本という国に価値を認め、自分をその国民として価値を分与し、はかない誇りを抱く。
そしてにこの「価値ある民族国家の一員」という自覚は、その意識を初めて抱くものには強烈なセルフバリュー感を提供する。それ故にまたこの心理は、依存症(中毒)を引き起こしやすい。一旦、大衆にこれが広がると、国は民族主義的熱狂に驀進することになる。
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するとこれを利用して政治権力を握ろうとしたり、既存の統率力を強固にしようとする人間が現れる。
権力維持、強化手段には他民族との戦争をするのがすぐれて有効だ。永続意識飢餓感は、こうした好戦的空気を民族国家に造成したりもする。第二次大戦以前の列強先進国の侵略戦争はこの熱狂が形をとった事象に過ぎない。
個人ベースで見ると、現在庶民に急上昇している借金地獄もこれを遠因とするところが大きい。庶民はセルフバリュー希薄感を忘れるために、小銭を借りて余計なものを買う心理状態に引き込まれやすい。
小銭借金が積み重なっての返済地獄は、日本にはとても顕著である。「死の奴隷」心理がもたらす深遠な悲劇は、他にも広範囲に及んでいる。おいおい述べていく。
<無常意識の深い風土>
ちなみに島国日本では、無常観の気風が優れて深い。異民族に征服され蹂躙される歴史を持たずに済んできているからだろう。比較的しみじみと「人の行く末」を思い味わうことが出来てきたからだろう。
だがそれは、まあ、ちょっとした特徴であって「人は死んでおしまい」という意識は人類に普遍的なものである。