ここで、旧約聖書、新約聖書という名につかわれている「旧約」「新約」の意味を考えておこう。「旧」「新」は文字通り、旧い、新しいとみていいだろう。
問題は「約」だ。これはまずは「契約」の約だとイメージしよう。そして我々の世界での契約を考えよう。
<人間社会の契約>
我々が知っている人間社会での契約は、人と人とが合意して結ぶ約束だ。それは次の二つの点を特徴としている。すなわち~
①当事者が対等の立場で話し合い合意して作る、という点。
②合意内容は不変の約束とされ、後の変更は認められない、という点。
~以上である。
<創造神と人間の契約>
さてここに創造神を考慮に入れよう。
この旧約、新約の「契約」は創造神と被造物との間でのものだ。
TV受像機を創った人間は、それを思うままに使用するように、創った側は、創られた側に対して絶対的に上位な存在となる。
聖書もそうした地位関係を全世界に貫徹する鉄則としている。
創造神は被造物である人間に対して、文句なしの主人なのだ。だから、創造神は創造主とも呼ばれる。聖書の中での、人間が「主よ、主よ!」と呼んでいる状況も、それを背景にしている。
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被造物であり絶対的に下位者である人間は「従者、しもべ、奴隷」などと呼ばれる。様々な名称で呼ばれるが、その実体は同じだ。
日本語の「奴隷」には、牛馬のようにむち打たれて働かされる、と言うニュアンスが強いが、聖書ではそうではない。
主人の命令に従って行動する存在というだけで、しもべ、従者と同じだ。
<実質「命令」となる>
さて、こういう両者の間での契約となると、それは人間社会での契約とは違ったものになる。
少なくとも、上記①の特徴「当事者が対等の立場で話し合い合意して作る」という側面はなくなる。
それはむしろ、上位者からの下位者への「命令」に変質する。
実質的に「命令契約」あるいは「一方的な契約」とったようなものになる。
<だが契約だから変更は不可>
それでも旧約、新約というようにわざわざ「契約」の語が使われているのは、上記②の契約特質を示すためだ。
つまり、実質的に命令だろうと、一旦契約として発せられたものは、堅持され変更することはできない。
上位者である創造主といえども、自分の発した命令契約には縛られる。創造主は何でも出来る全能者ではないのだ。
だがそれ故に、創造主の発した言葉は変更無きもの、不動のもの、となる。
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これは何でもないことのようにみえるが、重大な意味を込めている。
考えてみよう。創造神が一旦言ったことを変更できたら、被造物は創造主を信頼できなくなる。もうやっとられなくなる。
だがそういうことはない、というのだ。
創造神の真実がここにある。
その不変の命令(言葉)を含んでいる教典が聖書だと、旧約、新約の語は示唆しているのだ。
<言葉の格子>
すると全存在界はこんな風景となる~。
創造神から出た言葉は、不動のサブスタンス(実体)として永続する。
言葉は連なって格子を形成して、被造空間に存続し働き続ける。
その格子が何枚も被造空間に散立している。
人間も天使も、格子の間や、格子の目を通って動き回っている。
悪魔もその格子の隙間を巧妙に動き回っている。
人間はときとして、創造神から格子の力を用いる権勢を与えられる。
・・・歴史はこういう枠組の中で展開される。
これが聖書の示す、世界の風景だ。
その意味が「契約」の語に込められているのだ。
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その一方的契約に「旧いもの」と「新しいもの」がある、という。「新約」「旧約」の語はそれを示唆している。
ではその二つの一方的契約とは具体的になにか? それを次回に眺めよう。
(「正しい学び方」15・・・・完)