では「新しい命令契約」(新約)とはなにか?
それは、自らを“人となって現れた創造神の子(「人の子」はそういう意味)”と宣言したイエスによって与えられた新契約である。そしてこれは深く広い内容を持っている。
<神学(theology)>
聖書の中の言葉(聖句)の間の論理的つながり(体系)を見つけ出す知的作業を、神学(theology)という。
この知的探索作業は、膨大な知識体系を産み出してきていて、それが今日では大学における一つの学部(神学部)を形成している。(同志社や関西学院、西南学院などの大学には神学部がある)
そういう学問の一分野を成り立たせるほどの内容を、「新しい命令契約」はもっている。
ちなみに探究は旧約聖書の聖句との繋がりにも及ぶ。だが、それによる知識は副次的なもので、中心は新約聖書の聖句である。新約は深淵にして広大な内容を持っているのだ。
<新約の二つの骨子>
その「命令契約」の内容を示すのは容易ではない。そうしたなかで、敢えて試みれば、それは二つの骨子として示すことが出来る。
その第一は、契約を果たすことによって得られる祝福(幸福)を得る方法を新しく(旧約と違うものとして)提示したことだ。
<第一骨子:祝福を得る新方法>
旧約では、律法を守ることによって人々は幸福をえられる、としていた。だから人々は律法を犯さないで祝福を得ようと努めた。その方法を探究する国教(ユダヤ教)までできた。
だがイエスは「律法を守りきることは人間には出来ない」と教えた。
それを代表的に示すのが「姦淫の情を抱いて女をみればそれは姦淫を犯したと同じだ」(『マタイによる福音書』5章27-8節)というイエスの言葉だ。
彼は律法の戒めは実は「行為の罪」だけでなく「思いの罪」をも含めている、と示した。それにつけて彼は「自分は律法を完全化しに来たのだ」と言っている。(『マタイによる福音書』5章17節)
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すると人間はどうやっても律法に反してしまうことになる。罪を犯さないでいることは出来ないのだ。
だがイエスは、そうした律法を廃棄してあげることは出来ない。創造神は律法をすでに契約として発している。契約なので一旦発したら、創造神といえどもそれを廃棄することはできない。
イエス自らも「自分は律法を廃棄しに来たのではない」と言っている。(『マタイによる福音書』5章17節)
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だが彼はそれを踏まえた上で、律法の戒めに反することで生じる罪を相殺する、全く新しい方法を提示した。それは次のごとき驚くべき方法だった・・・。
~自分は天から来た創造神の子なので罪を犯していないから死ぬ必要は無い。その自分が、殺されて人間の罪の代償を創る、というのだ。
イエスは自分はこれからそうする、という。そしてそれを自分の罪の代償だと受け容れた(信じた)人間には、その代償が現実の実在となって罪が相殺される、という。こういう手法で人間は幸福を得ることが出来る、とイエスは約束した。
イエスはこの思いがけない方法を、「新しい契約」として提示した。これが「新約」の第一の骨子だ。
<第二骨子:契約に霊領域を導入>
第二は、契約に霊の領域を持ち込んだことだ。これは第一骨子のようにダイナミックなものではないが、より根底的なものだ。
旧約をよく見ると、そこで提示されている幸福は、すべてが健康とか経済的豊かさとかの、物質的なものであることがわかる。
たとえば、詳しくは後述するが天国というのは霊界だ。イエスはそれを紹介するのを、自分が地上に来て行う不可欠な仕事の一つとした。
だがその天国という言葉は、旧約では一度も出てこない。それほどに、旧約で示される世界は基本的に物質的な世界だ。
イエスは、「悔い改めよ。天国は近づいた」と宣言して、天国を繰り返し繰り返し説明した。そして人間の幸福を「将来霊がその天国(天の創造主王国)で幸福な状態で永続すること」として示した。
そこにイエスが示した幸福の本質がある。肉体が受ける健康や経済的豊かさは、その副産物のような位置にある。
健康や経済的物質的祝福は肉体が得るものだ。だが、その肉体は百年もすれば死んで終わってしまう。一方、霊は永続する存在だ。そちらが受ける祝福は永遠の祝福だ。
イエスの約束した幸福はよくみるとそちらに主眼が置かれている。
以上の二つの骨子が、イエスが示した命令契約だ。それは旧約では示されなかった新しい契約なので「新約」となるのである。
(「正しい学び方」17・・・完)