前回、旧約の祝福(幸福)は健康とか経済的な祝福、つまり物質的祝福であり、新約の祝福は霊ベースの祝福だ、といった。
それを明確に認識するために、新約聖書「ヨハネ伝」における「イエスとニコデモの会話」をみておこう。
<高僧ニコデモとの会話>
ニコデモはユダヤ教の高僧でユダヤ議会の議員でもあった。
他の高僧たちはイエスの教えを受け付けなかったが、少なくともイエスが十字架死するまで関心を抱き続けた例外的な人物であった。
彼は、同じ高僧たちからの目撃を避けて、夜ひそかにイエスのもとにやってきた。
その彼の問いかけに対してイエスはこう応じている。
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イエス「人は新しく産まれなければ、創造神の国(天国)を見ることは出来ません」
ニコデモ「どうしてそんなことができますか。もう一度母の胎内に入って生まれ出ることなど出来ないのに」
イエス「あなたはイスラエルの教師であるのに、こういうことがわからないのですか」
(『ヨハネによる福音書』3章1-10節)
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~ここでイエスは霊のことを言っている。ニコデモはそれがチンプンカンプンわからない。
ユダヤ教の指導者で高僧がこの状態という場面が、ユダヤ教では霊の世界が皆目視野にないことを如実に示している。
<核心は霊理論の学び>
イエス・キリストの名が示唆する如く、キリスト教はイエスの教えだ。
イエスの教えでは、霊理論がベースだ。
「キリスト教の正しい学び方」では、霊の論理をどう学ぶかが核心になる。
霊は目に見えない。
これを対象とする認識の理想は、霊感が働いての直接認識だ。
だが、これはよほどの人でないと難しい。
難しいのにわかった気持ちになって結論だけを口で繰り返すとどうなるか?
それは「まじない」と同じになる。
それをしていると「まじない宗教」の学び方を伝えることになってしまう。
<セカンドベストを考える>
我々はセカンドベストの方法を考えねばならない。
それは言葉の枠組み(理念)でもって、霊感を働かす焦点を絞ることだ。
それには物理的事象に投影(比喩)して(なぞらえて)言葉で説明するのが有効だ。
宣教者パウロのもこの方法をしばしば用いている。
次もその一例だ。
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「あなたがたのからだは、あなたがたにうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり・・・」
(『コリント人への第一の手紙』6章19節)
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~ここでパウロは「あなたがたの身体のうちには聖霊が住まわれている」ということを示すために、身体を神殿に投影させて説明している。
神殿は神の住まう宮殿として建てられているのが通常だ。
そこで身体をこれになぞらえれば身体の中に聖霊が住まわれている、ということがより視覚的にイメージできる。 わかりやすくなる。
<四半世紀前の体験>
筆者自身もこの種のことを体験している。もう四半世紀ほど前のことになるが『聖書の論理が世界を動かす』(新潮選書)という書物を出した。
それまで筆者は聖書の「いのち」という概念の理解に苦労してきた。
だが執筆中「いのちというのは物理学のエネルギーの概念みたいだなぁ~」という思いが浮かんだ。
そこで筆者は「いのち」を敢えて「いのちエネルギー」と表現した。
創造神はそれを被造界に放射する源のように考えた。
また、創造神は意識体だから、放射するエネルギーは、創造神の意識波動を持っている、とも想像した。
<霊は充電式乾電池>
さらに、いのちエネルギーを電気のようにイメージし、人の霊を充電式乾電池のように考えた。
加えて、当人の意識波動が創造神の意識波動に近似的であるほど、いのちエネルギー(電気)の充電効率は高まると、イメージした。
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霊乾電池からも電気は自然放電し、不完全充電化する。
それが補充されるには、人は自らの霊(意識体)の意識波動を創造神のそれに近似的にしていなければならない。
こう考えたら、聖書の理解が飛躍的にクリアになった。
多くの方々からこれで聖書が突然わかり易くなった、との感想をいただいた。
一部の牧師職の間で、説教がしやすくなったという感想があるとの知らせを受けたのにも、感銘した。
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あの頃から筆者の物理学知識も増大した。
次回からは、これらを援用して、さらにわかりやすい「学び方」を伝えたいと思う。
(「正しい学びかた」18・・・完)