Sightsong

自縄自縛日記

ノーム・チョムスキー『アメリカンドリームの終わり』

2018-06-15 07:21:42 | 北米

ノーム・チョムスキー『アメリカンドリームの終わり あるいは、富と権力を集中させる10の原理』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、原著2017年)を読む。

ノーム・チョムスキーのこれまでの発言に接してきたならば、何もいまになってその内容が変わっていたり特別に新奇なものが入っているわけではないことがわかる。しかし、あらためて驚くことがふたつある。

ひとつは、トランプ現象が必然であったように感じられることである。すなわち、金成隆一『ルポ トランプ王国―もう一つのアメリカを行く』においても実状がまとめられているように、「中流」の崩壊(=アメリカンドリームの崩壊)、製造業の衰退、排外主義をもたらしてしまう社会構造、それらにより鬱積した不満といったものが、トランプ政権誕生の原動力となった。そしてチョムスキーが指摘するのは、それは結果としての社会構造・産業構造の変化などではなく、「富める者がより富を蓄積するため」の意図された変化であったことである。

もうひとつは、訳者も言うように、この極端なアメリカという世界が「明日の日本」であること。この20年ほどで進められた政治のエリート独裁(民意を敢えて取り入れない仕組み)、抵抗手段の骨抜き、教育の高コスト化、市民を敢えて不安定な位置に置くという手段、医療の高コスト化、政界と財界とを行き来する「回転ドア」(特定の人物が思い浮かぶ)、実に狭い範囲での選択肢を演出することによる「合意の捏造」、・・・。おそらく現在の問題意識をもって読むと、むしろ、「今日の日本」であることが見出されるだろう。

まるで陰謀論本のような装丁にされていることが残念である。日本の問題をとらえなおすために広く読まれるべき本。

●ノーム・チョムスキー
ノーム・チョムスキー『我々はどのような生き物なのか ソフィア・レクチャーズ』(2015年)
ノーム・チョムスキー講演「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」(2014年)
ノーム・チョムスキー+アンドレ・ヴルチェク『チョムスキーが語る戦争のからくり』(2013年)
ノーム・チョムスキー+ラリー・ポーク『複雑化する世界、単純化する欲望 核戦争と破滅に向かう環境世界』
(2013年)
ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』(2013年)
ノーム・チョムスキー『アメリカを占拠せよ!』(2012年)


ジョイス・キャロル・オーツ『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』

2018-06-09 19:34:40 | 北米

ジョイス・キャロル・オーツ『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』(河出文庫、原著1996-2011年)を読む。

読む前からわかってはいたようなものだが、やはり、気持ちが悪く、とても怖い。いやタイトルからはもうちょっとファンタジックなジュヴナイルかなとも思ったのだが、違った。気持ちが悪く、とても怖い。

本書にはタイトル通り7つの短編が収録されている。少女たちによる少女誘拐監禁。性犯罪を犯した義父への復讐。何でも知っている不吉な猫。立派で邪悪な兄と不健康でアーティストになった弟の双子。立派に見せかけることが天才的で邪悪な兄を呪う双子の弟。未亡人と、アメリカの戦争ですべてを失なった男との救いようのない話。整形外科医の破滅。 

どれも読んでいて怖くてやめたいのだがやめられない。翻訳者によれば、オーツはプロット重視ではなく心の動きを中心に描き出すアメリカ短編小説作家の系譜に連なるという(もちろん長編小説もたくさん書いている)。最後の短編で整形外科医が悪夢的にわけのわからない領域に突入する描写なんてまさに心の地獄、圧倒的。

でも怖いの苦手だからしばらくオーツは読まないけんね。あっまだ何冊か積んであった。 

●ジョイス・キャロル・オーツ
ジョイス・キャロル・オーツ『Daddy Love』(2013年)
ジョイス・キャロル・オーツ『Evil Eye』(2013年)
ジョイス・キャロル・オーツ『アグリーガール』(2002年)
林壮一『マイノリティーの拳』、ジョイス・キャロル・オーツ『オン・ボクシング』(1987年)
ジョイス・キャロル・オーツ『Solstice』(1985年)
ジョイス・キャロル・オーツ『エデン郡物語』(1966-72年)


金成隆一『ルポ トランプ王国―もう一つのアメリカを行く』

2018-05-29 15:57:18 | 北米

金成隆一『ルポ トランプ王国―もう一つのアメリカを行く』(岩波新書、2017年)を読む。

本書は、2016年のアメリカ大統領選の前に、都市部ではない地域の住民の声を集めたものである。

前回2012年の共和党ロムニー候補が負けて、今回トランプが勝った州は6つあった。そのうちフロリダを除く5州(オハイオ、ペンシルベニア、ウィスコンシン、ミシガン、アイオワ)は、五大湖周辺の「ラストベルト(さびついた工業地帯)」に重なっていた。その一帯の労働者たちは、鉄鋼などの工場で仕事をし、労働組合にも属し、もともと民主党が強かった。

しかし、かれらはトランプを支持した。それは、古き良きアメリカが去ってしまい、ミドルクラスから没落し(毎年家族で長期旅行するなど)、脱出もできない不安が転化したからであった。その不安をすくい上げての仮想敵が、オバマケアであり、海外との自由貿易であり、安い賃金で働く移民たちなのだった。

著者が指摘するように、自由貿易によりかれらは安い製品を買うこともできていたし、移民たちが不法に入ってきた者であっても納税して財政に貢献していることは証明されている。また、産業構造の変化はやむを得ないことだった。雇用が減ったのはオートメーション化のためでもあり、一方で、働くほうもかつてのように誰でもできる手段で良い生活を送ることなどできない時代になっている。

トランプは実際に実施可能な手段を示さず、仮想敵を作り、シンプルなメッセージを出し続けた。それが奏功した。仮想敵という点では、富裕層や企業からオカネを得ているエスタブリッシュメントへの反感も、かなり住民に浸透していたという。(その意味では、リベラルのオキュパイ運動とも皮肉なことに批判対象が同じわけである。)

アパラチア山脈添いのケンタッキー州など、もともと共和党支持者が多い地域では、やはり住民はトランプを支持した。石炭産業は没落し、環境面から目の敵にされ、山の中で「時代遅れ」の地域だった。ここの「置き去りにされた人びと」の不満も激しい。

すなわち、何もこれらの地域住民がトランプの発する非民主主義的な傾向やヘイトスピーチに鈍感であったからではない。かれらは生活を脅かされていたから変革を求めた。自由貿易や移民や産業構造の変化に関する理解不足を指摘するのは、仮にそれが正しいことであっても、都市の勝ち組の視線であり、民主党もそちら側から脱却できなかったということである。

愚かなトランプだけを視ていては、ことは改善しない。これは日本についても言えることに違いない。


テジュ・コール『オープン・シティ』

2018-05-25 20:32:05 | 北米

テジュ・コール『オープン・シティ』(新潮クレスト・ブックス、原著2012年)を読む。

主人公はナイジェリア生まれ・NY在住の精神科医。アフリカ人であり有色人種である。そのことからも、世界が自分と隔たっている。かれはNYのアフリカ人と、かつて日系であるためにアメリカで収容された先生と、アメリカからベルギーに戻った老婦人と、誠実に、しかし自らの欺瞞を認識しながらも、話をし続ける。それはどうしたって摩擦と内省を生じる。

視るだけではない。かれは視られもする。世界に自分が溶け込んでいない、それはつねに視られていることでもある。公園の鳥にも視られる。世界からの疎外感は暴力でもあり、かれは自分に理不尽に与えられる暴力を受け容れているようでもある。しかし、暴力は受けるだけではなく、かれが他者に与えるものでもあった。しかも、自分自身が意識しないところで。

この静かで大きな驚きのまま、かれはマーラーのコンサートに出かける。そして、ついには世界の亀裂を視るのだ。読むべし。


鶴見俊輔『北米体験再考』

2017-10-09 21:58:33 | 北米

鶴見俊輔『北米体験再考』(岩波新書、1971年)を読む。

鶴見は、「かりものの観念による絶対化を排する」という。また、「体験はいつも、完結しないということを特長としてもっている」という。体験の「不完結性・不完全性の自覚をてばなさない」ことが、たとえば、ベトナム戦争に向けられた鶴見の視線を形作っている。

かれは1930年代にアメリカに留学し、無政府主義者と疑われてFBIに拘束されている。そして日米の両国で生活した者として日本の敗戦を迎えている。それらは、変に抽象的・観念的でなく、またシニカルでもなく、現実の断片をもって思考する鶴見の出発点であったにちがいない。

本書には、たとえば、黒人の公民権運動のことが書かれており、実に生々しい。これを通常の通史ととらえるのは間違いなのであり、人間の頭はそれほど自由にできてはいない。鶴見は書いている。北米留学生の中には軍国主義を批判し続けた者もいたが、黒人、先住民、南米諸国民から北米をみる目は育たなかった、と。

また、ゲイリー・スナイダーについても、ある種の驚きをもって、しかし淡々と書き連ねている。なんとこの時代にあって、ウィリアム・バロウズとアレン・ギンズバーグの『麻薬書簡』を引用してもいるのだ。なんという幅の広さだろう。確かに最初の邦訳は本書刊行に先立つ1966年に出されているようなのだが、『ヤヘ書簡』と訳していることからも、おそらくアメリカで1963年に出されたものを読んで思索のための断片としたのだろう。

鳥瞰図的に構造や立ち位置が解ることを意識した思索ではない。この態度にはあらためて驚かされる。

●鶴見俊輔
鶴見俊輔『アメノウズメ伝』(1991年)
鶴見俊輔『身ぶりとしての抵抗』(1960-2006年)


ジム・ジャームッシュ『パターソン』

2017-10-04 08:26:21 | 北米

有楽町のヒューマントラストシネマで、ジム・ジャームッシュ『パターソン』(2016年)を観る。

かれはバスの運転手であり、自分だけのための詩人でもある。6時過ぎに起きて、シリアルを食べて、仕事に行き、帰宅して傾いた郵便受をもとに戻し、妻とおしゃべりし、犬を散歩させるついでにバーでビールを飲み、帰って寝る。妻は家の内装や自分のファッションやカップケーキ作りやギターの練習に熱中し、かれをとても大事にする。

映画はかれらの1週間を追う。日常はつまらぬ日々ではない。かれにとってはことばをノートに書きつけることが一期一会である。運転している間も、バスの乗客が、ボクサーや女の空自慢やアナーキズムについて、毎日ちがう話をする。バーでも毎日妙なことが起きる。それらがたまらなくおかしい。

「平凡な日常こそが素晴らしい」などということではない。毎日のなんということもない出来事が、縁となって別の縁につながっていく。バス停で知り合った小さな詩人のことばが、自宅に架けられた絵とシンクロしたり。ノートが失われた直後に、別の詩人がノートをもってあらわれたり。それは実は本当の世界にほかならない。

●ジム・ジャームッシュ
ジム・ジャームッシュ『リミッツ・オブ・コントロール』(2009年)


ハーレム・スタジオ美術館再々訪

2017-09-18 10:26:44 | 北米

NYハーレム地区にあるハーレム・スタジオ美術館に今回も行ってきた。

マタナ・ロバーツのプロジェクト「breathe...」でも明らかなことだが、このような政治への働きかけはもとよりヴィヴィッドであり、それを衝き動かす危機感はさらに増している。

■ ポール・スティーヴン・ベンジャミン「God Bless America」

ポール・スティーヴン・ベンジャミン(Paul Stephen Benjamin)は1966年シカゴ生まれ、アトランタ在住。このヴィデオ・インスタレーションの中心には、ジミー・カーターの大統領就任式(1977年)において「God Bless America」を唄うアレサ・フランクリン。周りのモニターで明滅する赤と青は、2013年のトレイボン・マーティン射殺事件(自警団のジョージ・ジマーマンがアフリカン・アメリカンの高校生を射殺した)を暗示しているという。

悪夢のようでありながら現実と歴史が眼前にある社会。これをインスタグラムにアップしたところ、作家からの反応があった。既にSNSでは糸電話がつながっているいま、音楽やアートから政治を切り離せというナイーヴな社会との壁はどのように突き崩されてゆくだろう。

■ アンディ・ロバート「Call II Mecca」

アンディ・ロバートは1984年ハイチ生まれ。かれの作品では、フランスのフォービズムが現在のアメリカとつながっているようである。メトロもそうだが街のマチエールをこのような形にする活動に新鮮さを覚えた。

■ シェリル・ローランド「The Jumpsuit Project」

シェリル・ローランド(Sherrill Roland)は1984年ノースカロライナの生まれ育ち。かれは学生時代に投獄された経験があり、その社会的意味を問うために、キャンパスにおいて、囚人服を着て、通りがかる人たちと毎日接するプロジェクトをはじめた。

■ メシャック・ガバ「Lipstick Building」

メシャック・ガバ(Meschac Gaba)は1961年ベニン生まれ。確かにこのヘアスタイルにはどうしても目が吸い寄せられてしまう。

■ デイヴ・マッケンジー「We Shall Overcome」

1977年ジャマイカ生まれのデイヴ・マッケンジー(Dave McKenzie)による2004年のヴィデオ作品。白人のお面を被った男がハーレムを練り歩き、背後には「We Shall Oversome」が流れる。2004年といえばジョージ・ブッシュが再選された年である。その前の大統領選で敗れたアル・ゴアの顔にもみえる。嫌悪感や諦念が社会が覆っていたのだろうか。

■ アリソン・ジャネー・ハミルトン「Foresta」

アリソン・ジャネー・ハミルトン(Allison janae Hamilton)は1984年レキシントン生まれ、NY在住。このインスタレーションでは、葦、流木、動物が配され、壁には水面の映像が映し出されている。国ではなく土地への想いが形になっているようである。

●参照
ハーレム・スタジオ美術館再訪(2015年9月)
ハーレム・スタジオ美術館(2014年6月)
MOMA PS1の「ゼロ・トレランス」、ワエル・シャウキー、またしてもビョーク(ロレイン・オグラディ)
ナショナル・アカデミー美術館の「\'self\」展(ハーレムで活動するトイン・オドゥトラ)
マニー・ピットソン『ミニー・ザ・ムーチャー』、ウィリアム・マイルズ『I Remember Harlem』
ジーン・バック『A Great Day in Harlem』
2015年9月、ニューヨーク(2) ハーレム
2014年6月、ニューヨーク(4) ハーレム


タナハシ・コーツ『美しき闘争』

2017-09-04 23:59:40 | 北米

タナハシ・コーツ『美しき闘争』(慶應義塾大学出版会、原著2008年)を読む。

これは、黒人文化の中で生まれ育ち、アイデンティティを確立してゆく自伝である。

『世界と僕のあいだに』(2015年)よりも7年も前だが、タナハシ・コーツは、既に、饒舌にあちこちに話を飛ばしつつ、自分をさらけ出す文体を確立しているように見える。父親は独自の倫理感覚を持ち、パートナーを何度も替えながらたくさんの子をもうけ、埋もれた黒人文化の書籍を発刊している。つまり儲かるわけはないのだが、それが明らかに著者の精神形成に貢献しているように読める。

特に面白いのは、ラップが父親と同じように著者に影響を与えてゆくくだりである。まさにチャックDが教師だったわけであり、これは著者に限らないことだったに違いない。

「ここボルティモアでは、黒人たちはパブリック・エネミーがかかると尻込みした。僕たちはこれほど耳ざわりな音を発する音楽を聴いたことがなかった―――ドラムの音が警察官の呼子と衝突し、サイレンがリズムに関係なく鳴り響く。でも、耳ざわりな音はくせになり、いたるところで聞くようになった。」

●参照
タナハシ・コーツ『世界と僕のあいだに』
タナハシ・コーツ『Between The World And Me』
リロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)『ブルース・ピープル』
リロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)『根拠地』 その現代性
マニー・ピットソン『ミニー・ザ・ムーチャー』、ウィリアム・マイルズ『I Remember Harlem』ジーン・バック『A Great Day in Harlem』
2015年9月、ニューヨーク(2) ハーレム
2014年6月、ニューヨーク(4) ハーレム
ハーレム・スタジオ美術館再訪(2015年9月)
ハーレム・スタジオ美術館(2014年6月)
MOMA PS1の「ゼロ・トレランス」、ワエル・シャウキー、またしてもビョーク(ロレイン・オグラディ)
ナショナル・アカデミー美術館の「\'self\」展(ハーレムで活動するトイン・オドゥトラ)
チコ・フリーマン『Kings of Mali』


オクテイヴィア・バトラー『キンドレッド―きずなの招喚―』

2017-08-28 08:06:25 | 北米

オクテイヴィア・バトラー『キンドレッド―きずなの招喚―』(山口書店、原著1979年)を読む。

現代の黒人女性デイナは、あるとき、南北戦争前のアメリカにトリップするようになった。どうやら自分の祖先のルーファスが、いのちの危険を感じたときに「呼び出される」ようなのだった。そしてデイナが自分自身のいのちを失う恐怖を覚えると現代に戻ってくる。過去に旅する時間は体感的には長くても、戻ってくるとわずかな時間しか過ぎていない。トリップを繰り返すたびに、過去の者たちばかりが歳を取っているという奇妙な状況になった。

ルーファスは奴隷を何人も所有する農場の跡取り息子である。かれにも他の者たちにも、黒人が奴隷的立場以外の生き方をすることを受け容れることができない。時間を置いては前と同じ容姿で現れるデイナは、恐れられつつも、やはり、いのちも尊厳もいつ失ってもおかしくはないような境遇で生きていくことになった。

痛みの感覚に対する著者の描写は、読んでいてつらくなる。それは「これから起こりうること」への痛みでもあり、容易に想像できるような「レイプ」などではない。著者はそれを手段として使うことはない。デイナのパートナー・ケヴィンに、デイナが消えている間にレイプされたのではないかと疑わせるのは、ケヴィンに読者を重ね合わせているわけであり、とても優れた仕掛けである。

デイナにとってルーファスは、自分の祖先でもあり(つまり、ルーファスは黒人女性との間に子をもうけたのだ)、精神的に近い存在であるのと同時に抑圧・恐怖の対象だけではない。このことにより、デイナは、奴隷の黒人たちから白人にすりよる存在として嫌われもしてしまう。何重にも錯綜した差別の構造を容赦なく見せつけられるようだ。

バトラーは、シカゴの音楽家ニコール・ミッチェルが大きな影響を受けたと語る存在であり(>> インタビュー記事)、トランプ政権のいままた、1998年の小説で「Make America Great Again」を標榜するファシスト政治家を登場させていることが予言的であったと話題になっている(>> 記事)。もっとバトラーの作品を読んでみたいが、邦訳された長編小説は『キンドレッド』だけである。


ポール・オースター『冬の日誌』

2017-04-27 21:58:48 | 北米

ポール・オースター『冬の日誌』(新潮社、原著2012年)を読む。

「冬」すなわち老境に入ってきた作家による、自伝的な作品である。

さまざまな状況や事件があった。怪我。両親の離婚。貧乏と困窮。引っ越し。性欲。恋愛。確執。結婚。離婚。愚かな行い。大事故。偶然。

そのひとつひとつが記憶に刻みこまれ、偶然という意味や無意味という意味を与えられる。まるで偶然と必然とが支配し、時々刻々、同じものがふたつとない物語を創ってゆく野球のように。これを読む者は、間違いなく、要素の数々を刻み付け縒り合わせるプロセスを自分のものとしてとらえることだろう。

「ニューヨーク三部作」に魅せられてから長い時間が経つが、オースターを読み続けてきたことにも大きな意味があった。「生きていることも悪くはない」と思えてしかたがない。

●ポール・オースター
ポール・オースター+J・M・クッツェー『ヒア・アンド・ナウ 往復書簡2008-2011』(2013年)
ポール・オースター『Sunset Park』(2010年)
ポール・オースター『Invisible』(2009年)
ポール・オースター『闇の中の男』再読(2008年)
ポール・オースター『闇の中の男』(2008年)
ポール・オースター『写字室の旅』(2007年)
ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』(2005年)
ポール・オースター『オラクル・ナイト』(2003年)
ポール・オースター『幻影の書』(2002年)
ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』(1997-2002年)
ポール・オースター『ティンブクトゥ』(1999年)
ポール・オースター『リヴァイアサン』(1992年)
ポール・オースター『最後の物たちの国で』(1987年)
ポール・オースター『ガラスの街』新訳(1985年)
『増補改訂版・現代作家ガイド ポール・オースター』
ジェフ・ガードナー『the music of chance / Jeff Gardner plays Paul Auster』


タナハシ・コーツ『世界と僕のあいだに』

2017-03-05 20:32:04 | 北米

タナハシ・コーツ『世界と僕のあいだに』(慶應義塾大学出版会、原著2015年)を読む。

この本が出たときに、ブルックリンの「Unnameable Books」という良い感じの書店で買って読んだ(タナハシ・コーツ『Between The World And Me』)。とは言え、何を言っているかよく解らない箇所も多く、そんなところは解らないままに流した。「訳者あとがき」によれば、批評家でさえ「何について語っているのかまるでわからないことがある」そうであり、わたしの理解が及ばないのも当然なのだった。

本書は、黒人として生まれ育ったコーツが、それは何を意味するのかについて延々と思索し、自分の息子に語りかける形になっている。それは当事者であるからこそ得られた理解に違いないものである。

すなわち、マジョリティは、いかに善良であろうとも、己の居場所を根こそぎ奪われる恐怖に怯えることはない。あるいは「わたしは差別者ではない」と意識する。著者にいわせれば、それは「ドリーム」であった。一方のマイノリティは、長い間暴力と抑圧との対象となり、そのために、居場所とコードを逸脱することに対する恐怖や危険に意識的であった。そのことが、仲間内での暴力再生産を生み出したのだとする著者の指摘は的を射たものだろう。

「黒人の生命の略奪は、この国の揺籃期にさんざんぱら教え込まれ、歴史を通じて強固なものにされてきたのであって、今や国の世襲財産であり、知性であり、直感であり、僕らがたぶん最後の日までいやおうなく立ち戻ることを強いられるデフォルト設定にまでなっているんだよ。」

コーツのこの書は、単なる告発や弾劾の書ではない。世界の非対称性や、世界を分かつ線を引く手が何によるものなのかを考え、それに対して、自己を守り、確立し、闘わなければならないというメッセージだと言うことができる。

●参照
タナハシ・コーツ『Between The World And Me』
リロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)『ブルース・ピープル』
リロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)『根拠地』 その現代性
マニー・ピットソン『ミニー・ザ・ムーチャー』、ウィリアム・マイルズ『I Remember Harlem』ジーン・バック『A Great Day in Harlem』
2015年9月、ニューヨーク(2) ハーレム
2014年6月、ニューヨーク(4) ハーレム
ハーレム・スタジオ美術館再訪(2015年9月)
ハーレム・スタジオ美術館(2014年6月)
MOMA PS1の「ゼロ・トレランス」、ワエル・シャウキー、またしてもビョーク(ロレイン・オグラディ)
ナショナル・アカデミー美術館の「\'self\」展(ハーレムで活動するトイン・オドゥトラ)
チコ・フリーマン『Kings of Mali』


コーエン兄弟『ヘイル、シーザー!』

2016-10-07 21:37:45 | 北米

ドバイから成田に向かう飛行機の中で、コーエン兄弟『ヘイル、シーザー!』(2016年)を観る。

1950年代のハリウッド。朝から晩まで、俳優の恋愛や出産や不祥事の尻拭いに奔走し、共産主義に染まったスター俳優(ジョージ・クルーニー!)に往復ビンタをくらわし(赤狩りの時代だった)、イモ俳優でも何とか使わせ、頭と胃とを痛める映画会社の部長。それでも、生まれてくる映画は、西部劇もミュージカルも歴史大作も素晴らしいもので、つい劇中劇とは知りつつも魅せられてしまう。

書割のようなセットで小気味よく話を進めていくコーエン兄弟、いや素晴らしい。なんだかビリー・ワイルダーと重なってくるのだがどうか。

●参照
コーエン兄弟『トゥルー・グリット』、『バーン・アフター・リーディング』(2010年、2008年)
コーエン兄弟『バーバー』(2001年)
コーエン兄弟『バートン・フィンク』(1991年)


ローランド・エメリッヒ『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』

2016-10-06 22:33:17 | 北米

テヘランからドバイへの飛行機で、ローランド・エメリッヒ『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』(2016年)を観る。

20年前の前作と同じように、信じられないほど好戦的で、人を単純な役割に当てはめていて、アメリカ中心主義で、信じられないほど都合がよくて、そして何の驚きもない。

さすが『スターゲイト』や『Gozilla』や『デイ・アフター・トゥモロー』を撮ったエメリッヒである。演出もなんもあったものではないアホアホ映画を大金をかけて作るという活動は何ならむ。


渡辺将人『アメリカ政治の壁』

2016-09-10 00:14:20 | 北米

渡辺将人『アメリカ政治の壁―利益と理念の狭間で』(岩波新書、2016年)を読む。

「アメリカって国は・・・」と、アメリカをひとつの人格を持った者であるかのように言い放つことは馬鹿げている。ましてや、そのときの大統領によってアメリカ政治を代表させることも、同時に馬鹿げている。なぜなら、大統領が内政に対してできることなど限られているからである。

著者によれば、大統領の質(玉)、世論=議会(風)、政策エリート集団(技)が合わさったときに、政治が実現化していくのだという。風を失ったオバマ大統領の状況をみればわかることである。また、愚かな悪人呼ばわりされたブッシュ息子でさえ、本人の権限でイラク戦争が実行できたわけではなく、9・11後の集団圧力的な議会の動きと、新保守主義(ネオコン)的な政策エリートがあってのことであったとする。

カーター時代のあと政権を失った民主党は、リベラル色が強まるままでは力を失うとみて、経済や国際ビジネスを重視する中道寄りに舵を切った。これにより成功したのがクリントン時代である。ところが、最近の調査によれば、民主党支持者はまたしても純化されたリベラルに、またその一方で、共和党支持者は純化された保守にシフトした。分極化であり、カルト化である。佐藤学さんも2年前にそのような指摘をしていた(佐藤学さん講演「米国政治の内側から考えるTPP・集団的自衛権―オバマ政権のアジア政策とジレンマ」)。極端な保守・反動化であり、そのあらわれがトランプ現象でありサンダース現象でもあるのだろう。

日本の民進党も、極端なリベラルではいまの自民党に対抗できないとみて、意図的に保守寄りに軸足を移そうとしているように見えるのだがどうか。

●参照
佐藤学さん講演「米国政治の内側から考えるTPP・集団的自衛権―オバマ政権のアジア政策とジレンマ」
室謙二『非アメリカを生きる』
尾崎哲夫『英単語500でわかる現代アメリカ』
成澤宗男『オバマの危険 新政権の隠された本性』を読む


スティーヴ・エリクソン『ゼロヴィル』

2016-09-02 22:49:41 | 北米

テヘランに居る間に、スティーヴ・エリクソン『ゼロヴィル』(白水社、原著2007年)を読了。(何しろtwitterもfacebookもブログにも遮断されていてつながらず、酒も飲めないので、夜は本を読むくらいしかすることがないのだ)

ヴィカーの剃った頭には、片方がエリザベス・テイラー、もう片方がモンゴメリー・クリフトで占められた脳が刺青されている。『陽のあたる場所』である。かれは映画狂であり、ともかくもハリウッドに出てきた(物理的に)。ヴィカーは社会から排除されつつも、映画業界で蠢く者たちに受け容れられていく。

映画に憑依された者たちは、映画という生命体へのフェティシズムで成り立っている。そのために映画とは時系列で制作されるものではなく、時間も空間も超越して、この世界とは並行して存在している。まさに魔界であり、エリクソンは数多くの映画に粘着し、そこに巻き込まれてゆく様を見事に描いている。

これまで映画という魔界を現出させた小説といえば、セオドア・ローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』があった。本作はそれに負けない面白さを備えている。同時に、『フリッカー・・・』にはない底無しの闇をこれでもかと提示してくれるのはエリクソンならではだ。

しかしその一方で、あまりにも現出される魔が俗に過ぎるものであって、もう少し小説家の中で成熟してもらえなかったのかという不満もある。禿頭の刺青は、チャールズ・ロートン『狩人の夜』において両手の指に「LOVE」「HATE」と彫ったロバート・ミッチャムとさして離れてはいないし、ヴィカーが繰り返し視る夢のモチーフは、スティーヴン・スピルバーグ『未知との遭遇』プラス、ケネス・アンガーだとしても馬鹿にしたことにはならないだろう。

エリクソンを模倣するエリクソンには不満である。

●参照
スティーヴ・エリクソン 音楽と文学を語る @スイッチ・パブリッシング(2016年)
スティーヴ・エリクソン『きみを夢みて』(2012年)