Sightsong

自縄自縛日記

岡本喜八の「幻燈辻馬車」

2007-03-08 22:41:48 | 思想・文学
岡本喜八監督が亡くなって2年になる。

先日、NHKで、岡本喜八が病におかされつつ、新作として準備していた『幻燈辻馬車』の脚本を修正し、完成に近づけていた様子のドキュメンタリーがあった。それで、電子ブックで、山田風太郎の『幻燈辻馬車』(上・下、文芸春秋)を購入してザウルスで読んだ。

もう面白いのなんの、奇怪な人物が次から次へ、虚実取り混ぜて登場してくる。ここで物語にエネルギーを与えているのは、明治十年代の壮士たち、明治政府への敗北を運命付けられたような自由民権の運動家たちである。それも、ぺらぺらなアンチ体制のヒーロー達ではなく、裏切り者、政府のイヌ、警察のイヌなど、表裏と時間軸が交錯しまくる。

このような奇人変人のアウトローを描く映画監督として、岡本喜八は天下一品だったし、この映画が実現していたとしたらさぞ面白かっただろうと思う。『独立愚連隊』、『侍』、『赤毛』、『殺人狂時代』、『肉弾』、『近頃なぜかチャールストン』、・・・そういった喜八のアウトロー映画に、たまらなく刺激的な映画が多い。

『幻燈辻馬車』でも、もし喜八だったらどのように料理したのだろうか、と想像したくなるシーンが多い。

たとえば、壮士と警察のイヌとの決闘。

フロックコートのステッキからも、白刃がほとばしった。突っ込んで来た敵の剣先をはねのけた。はねのけた白刃は稲妻のように宙にあがって、つんのめって来る頭部を斬り下ろした。―――高速度撮影でもしたら、以上の経過が見て取れたであろう。

たとえば、中風を病んで半身不随になったかつての剣の達人と、嘉納治五郎との対戦。

半身不随はハンディキャップにはならなかった。それはかえって、相手を驚愕狼狽させる奇怪な襲撃のフォームとなった。
 『突き、突きい!』
 それは、キ、キ、キイッとも聞え、まさに怪鳥のさけびとしか思われなかった。
 そして、一本足で飛びに飛ぶ姿は、黒い五位鷺というより、これまた怪鳥としか見えなかった。枯葉がその姿をめぐって旋転した。


このような活劇的シーンだけでない。多くの人物に(それが実在の人物であってもそうでなくても)、作者山田風太郎の愛情が注がれているのがよくわかる。

仲代達矢が演じることになっていた主人公の馬車屋の息子(これは真田広之)は、すでに戦で亡くなり、形見の娘が呼ぶときにだけ幽霊となって現れる。それが自虐的でユーモラスであり、頼もしい。だが、次第に現れることができなくなる。このあたりの期待の持たせ方は本当に上手い。

岡本喜八は、幼児体験として、「コウモリ直しの老人」に「富山の薬売り」が「ヨロイ通し」を持って突っ込んでいったところ、老人は傘でそれを叩き落とし、目にも止まらぬ早業で返り討ちにした、という情景を覚えているそうだ。また、老人はその後に空を見上げて「雨か・・・?」と呟いたという。(『ただただ右往左往』岡本喜八、晶文社

動と静、愛すべき奇人変人、ストーリーテリングの上手さといった要素が、山田風太郎と岡本喜八とに共通してあったのだと思う。

昨年、みね子夫人がその意志を引き継いで映画を作るとのニュースがあった。
喜八ではないが、完成したら是非観に行きたい。