何をかなしんでか今朝まで夜っぴてカラオケで唄い続け、眠い一日を過ごし、帰宅後居眠りしてしまったりして今に至る。時差は平気なほうだが、もうこんなムリはあまりきかない。大学生じゃないのだ(笑)。
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李恢成『伽倻子のために』(新潮文庫、原著1970年)を読む。李恢成のごく初期の作品であり、それだけに未成熟の小説世界なのだなと思いながら読んでいた―――最後のあたりに至るまでは。
在日コリアンの林相俊(イムサンジュニ)。両親は戦後、サハリンから北海道へと引き揚げてきた。朝鮮にも日本にも引き揚げることができず多くのコリアンが残された、そのサハリンである。父親がサハリンで義兄弟として付き合った男も、やはり北海道に移住しており、日本人の母に捨てられた娘に伽倻子(かやこ)と命名し、わが子として育てている。相俊と伽倻子は駆け落ちのように東京で刹那的に暮らす。1950年代末、北朝鮮帰国事業が盛り上がった時代であった。相俊が親しみを抱いた別の女性は、済州島四・三事件を幼少期に体験し、自らの蘇りのため、真っ先に北朝鮮に帰っていく。
伽倻子の両親はコリアンとの結婚を認めず、相俊の両親は日本人との結婚を認めない。狂ったようになった両親に連れ戻された伽倻子には、自分を捨てた母の淫蕩の血が流れていた。彼女は家出し、盛り場に流れる。相俊はもはや伽倻子を引きとめることができない。そして10年以上が経ち、三十代となった相俊は、伽倻子が自分の娘に、かつて実母に呼ばれていた日本名を付けていることを知る。
この作品は、在日コリアン、サハリン引き揚げ・残留、済州島四・三事件、北朝鮮帰国事業といった大きな視点を跨ぎ、掴みようのない人間の業と無間地獄を垣間見せてくれる。後戻りのできない時間が過ぎたことだけが、救いのような足場としてこちらに与えられる。なにしろ小説家自らが、作品の中で無間地獄を眺めているのである。
「その道は人間のいかなる条理に支えられているのだろう。人間の不可思議さを伽倻子はおしえてくれたように思う。それは通常のまなざしでは見透すことのできぬ世界であり、どんでん返しの仕組みをもったあっけらかんの世界なのだ。それは人間にそむいてくる。そむいていることで人間的にさえ見える。しかしそれはやはりどこかで人間を裏切っている。」
それにしても、この題名『伽倻子のために』とは何か。相俊は伽倻子の「ために」何をしたのか。それとも、「ために」は、伽倻子という表徴的な存在に向けられた小説家の思いか。人が人の「ために」できることは何か。「ために」が向けられるからこそ、人が人なのか。
恐ろしい小説である。李恢成は三十台半ばにしてこの地獄を覗きこんでいた。
小栗康平がこの作品を映画化している。どこかで探して観たいところだ。
●参照
○李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
○李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』
○菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業』、50年近く前のピースの空箱と色褪せた写真
○『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』