スティーヴ・リーマン『Sélébéyone』(Pi Recordings、2016年)を聴く。
Steve Lehman (as)
Maciek Lasserre (ss)
HPrizm (vo (English))
Gaston Bandimic (vo (Wolof))
Carlos Homs (key)
Drew Gress (b)
Damion Reid (ds)
またずいぶんと異色作を出してきたものだ。ここでリーマンは、ラップ・ミュージシャンをふたり迎え入れている。ひとりは英語、ひとりはセネガル等で使われるウォルフ語。このウォルフ語にはフランス語、英語、アラビア語が混じりあっているという。タイトルの「Sélébéyone」とはウォルフ語で交差点を意味する。
すなわちリーマンが現出させているサウンドにおいては、ヒップホップというアメリカにおける多くのコミュニティの交差、ジャズとヒップホップとの交差、ウォルフ語と英語との交差、ウォルフ語という言語の中での多言語の交差、フランスの植民地主義による交差といったものが明に暗に見え隠れする。そして交差の交差が、おそろしいほど平等に見つめられ、リーマンの美意識によって再構築されている。
それにしてもリーマンの冷たくて熱いアルトは何だ。他の者とまったく平等でいて、しかもマチェク・ラセールのソプラノとの間で発せられる軋みや、ジャズのイディオムの集合体を飛び越えたようなダミオン・リードの異次元のドラムスや、カルロス・ホムスのクールなキーボードなどのなかで、見事に浮かび上がっている。
ジャズとラップとの交差といえば、かつてブランフォード・マルサリスらがストリート文化を自身のものとして発信したことや、スティーヴ・コールマンらM-BASEの音楽家たちがそれを所与のものとしてサウンドを作り上げていったことを想起させられる。個人的に印象深い作品は、ゲイリー・トーマス『The Kold Kage』(1991年)だ。衝撃作として喧伝されていた記憶がある。思い出して久しぶりに聴いてみると、ジャズの要素のひとつとしてラップを取り込んだような感覚である(そして、いまや少しダサい)。そこから20-30年が経ち、『Sélébéyone』は、「取り込み」から「多層的な交差」というまったく次のフェーズへと移行してしまっている。
●参照
スティーヴ・リーマン@Shapeshifter Lab(2015年)
スティーヴ・リーマンのクインテットとオクテット(2007、2008、2014年)
スティーヴ・リーマンのデュオとトリオ(2010、2011年)
フィールドワーク『Door』(2007年)