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自縄自縛日記

ハンナ・アーレント『活動的生』

2018-05-14 10:09:59 | 思想・文学

ハンナ・アーレント『活動的生』(みすず書房、原著1960年)を読む。

従来『人間の条件』として英語で出版され邦訳されていたものだが、2015年に、ドイツ語原著から新訳がなされた。入院中で時間もあり、ゆっくりと読むことができた。

この大著において、アーレントはああでもないこうでもないと思索しさまよう。この一読してのわかりにくさは翻訳の質とは関係がない。しかしそれがアーレントを読むということなのであって(彼女に限らないけれど)、それは思想書を何かのキーワードで代表させる安易さとは正反対にある(「アイヒマン」とか「パノプティコン」とか「リゾーム」とか)。したがって、以下はわたしの中をいちど通過した感想に過ぎず、レジュメなどではない。

公的な空間と私的な空間とがあり、両者は歴史的にも精神的にも明確に定義され区切られるわけではない。わたしは本書を読むまで、アーレントは公的空間における「ヨーロッパ市民」としての共通ツールを用いての活動こそを重視しているのかと思っていた(実際、本書でも「ヨーロッパ」と限定しているくだりもあるのだ)。だが、必ずしもそうではない。

愛だとか恍惚だとか痛みだとか、あるいは私的財産など、公共空間に出てこないものは、「私秘的」な不可侵の私的空間にある。公共空間と私的空間とは実は喰いあうものでもあって、統治や社会のありようによっては、私的な本性のものであろうとも、公共のものにされてしまう。いまになってみれば、公共的な性質を持たせたはずのものが実のところ私的空間に取り込まれていたことが、資本主義の本質だったのかもしれないと想像できるデヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』トマ・ピケティ『21世紀の資本』)。

一方で、私的な空間にあると信じていたはずのものも、実のところ、近代においては生政治という形で統治されていたのだというのが、ミシェル・フーコーが見出した権力構造であった(『監獄の誕生』)。

もとより労働というものが、アーレントによれば、蔑視されていた。公共空間に出てきてものを語るという前段階にあって、それは特筆すべき付加価値を持たず、奴隷的な活動に他ならなかった。ここではマルクスの思想や、現代の経済的な付加価値計算のことは忘れよう(本書では縷々述べられているが)。アーティストの「表現」のような公共空間での付加価値、あるいは、「搾取」と自虐的にも語るように私的空間に封じ込められてきた労働、それらのどこに「活動的生」を見出すのか、それは明確ではない。

どこまで両空間の喰い合いを許容するのか、またどこまで喰い合っているのかを見出すのかは簡単ではない。現代のSNSこそが、他者の私的空間に奪われた公共空間の創り直し、私的空間と公共空間との流通量を激増させる関係の創り直しなのではないかと思えたりもする。私的空間の公共空間における可視化は、歴史的にも、明らかに新しい動きに違いない。

アーレントにとっての「政治」とは、くだらぬ統治構造のことではなかった。政治とは力量であり、僭主制の特徴たる無能と悪徳が滅ぼされるのはむしろ暴力によって、なのである。これこそも、SNS空間において何を獲得していくべきかという観点では重要か。

「僭主性が、権力の代わりに暴力を用いようとするつねに空しい試みだとすれば、僭主制と好対照をなす衆愚制つまり愚民支配は、力量を権力によって埋め合わせようとするはるかに有望な試みである。」
「・・・権力とは、人間の手によって形づくられた対象物としての世界を、文字どおり活気づけるもの、すなわちそもそもはじめて生き生きとさせるものである。」

本書の後半では、アーレントは、近代の科学や哲学における目覚めの影響を説いている。すなわち、もはや何かを位置付けるのは大きなマップの上に俯瞰的に行わざるを得ないのであり、私的な「真実」はそこには居場所を持たない。しかし、「世界ではなく生命こそ最高善だとする公準を、近代は無条件的に掲げてきた」、「現代世界にあっても、生命の絶対的優位は明白だと信ずる力はいささかも失われていない」。 

そしてアーレントは思考プロセスの重要性に回帰する。

「外見上は何もしていないときほど、活動的であることはない。独居において自分とだけ一緒にいるときほど、一人ぼっちでないことはない」と。

●参照
ハンナ・アーレント『暴力について』
マルガレーテ・フォン・トロッタ『ハンナ・アーレント』
仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』
高橋哲哉『記憶のエチカ』


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