片山憲太郎『電波的な彼女』と主人公からの影響

2007-09-24 17:01:47 | 本関係
「不快感の表明が奨励される社会」で引用した『電波的な彼女』を三巻とも読了。作品そのものの評価はいずれ書くとして、ここでは登場人物の造詣が読者にもたらす影響についてのみ述べておきたい。読者にもたらす影響というと模倣犯などのことと考える人がいるかもしないが、そうではなくて、読者がどの立場に立とうとするか、あるいは立ちたいと思うかについてである。


まず個人的な話からすると、最初に読んだ『電波的な彼女~愚か者の選択~』(実は二巻にあたる)で主人公柔沢ジュウの行動様式を見て、主人公の未熟さや行き当たりばったりの行動や、プライドで他人まで巻き込む考えのなさ、そしてそれが恐るべきエゴイズムであると気付かないことなどにイライラしたが、

①(その時点では)一巻を読んでいないこと
②特殊な家庭事情
③他のキャラが飛びすぎているのであえてそういう人物造詣にしてある 
(バランスを取るため)

という点に鑑みて判断を保留したということがあった(少なくとも②③からすれば、彼がそういう行動をする狙いと必然性はあるわけで、この不快感を作品の批判に結びつけるのは短絡的だ)。ところで主人公の非合理性に苛立ちを覚えていると、自然に(誤解を恐れずに言えば)合理性に基づいて行動する雨などの側に期待して読むようになるが(※)、そういう反応を物語全般に適用してみるとどうなるか。そうすると、主人公を「正義の味方」として位置づけ友情や努力を強調したりするのは、読者にとって実は明らかなマイナスの効果をもたらしているのではないか、という考えに到る(※2)。


なぜそのように言えるのだろうか?まず、主人公のようにあるべきだと考えると、つまり主人公のあり方を肯定すると、ほぼ間違いなく行き過ぎた行動になる(まあその行動様式を鵜呑みにしている時点でどうかと思うが)。しかしここで強調したいのは、そういう主人公や行動様式に不快になり、最終的には否定しきってしまう危険性である(※3)。これはすなわち、(もちろん商業目的はあるにしても)「正義」を奨励するはずの物語が、かえって読者を「正義」から遠ざけてしまっているという現象に他ならない。


だとすれば、「正義」を奨励する物語(その典型は少年アニメ・漫画)は、大人になっていく過程で毒にも薬にもならなくなっていくものではなく、むしろ「そういうものはすべからくウザイ」と受け取り手に誤認させる毒だと言えるのではないだろうか。もっとも、この「正義」に対する反発がどれほど一般的なものかはわからない。まあそれについては今後考えるとして、次回は「正義」に関する個人的な経験について書くことにしたい。



読者が事の傍観者ではなく中心にいたがるのなら、無力なジュウではなく雨などの立場で読むに違いない。

※2
ただし柔沢ジュウはそういった典型的なキャラではなく、奥底にそういう部分を持った人間として描かれている。また、「正義の味方」は少年アニメ・漫画に典型的だが、電波的な彼女はそういうわかりやすい勧善懲悪的な内容ではない。

※3
必ずしも100%間違っているとは限らない姿勢や考え方が、本当に正しいのか正しくないのかではなくそれが氾濫しているという理由によって捨て去られる。極端な場合には、テーゼに対するアンチテーゼこそが是であると考える人間すら出てくるだろう。てゆうか俺だがw

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