「自意識過剰なる世界」にて全ては終わったはずだったが、何やよーわからん覚書を発掘したのでついでに掲載しときます。どうやら「自己愛と遍歴」の覚書らすぃですが、細かく見返すのがメンドクサイので比較対照は読者にお任せしますですよ(ぉ)。あーつーか早くエロゲー以外の記事書きてーw
※前に「さよならを教えて:主人公と各キャラの関係について」の下書きとして書いた記事だが、見返すと若干違う要素も含まれているので参考までに載せておく。
先日さよならを教えてのエンディングについて書いたが、各キャラが自己の投影という見方が正しいとすると、実在する巣鴨睦月以外のキャラとの逢瀬は自己愛を象徴する、という見方もできる。
なるほどその可能性もゼロではないだろう。しかし思うに、自己の投影たるキャラたちとの逢瀬は、何よりもまず過去の自分との対面・対峙だったのではないか?「自己の統一性」というものが欺瞞・願望の産物だと確信する私にとって、人間が無数の断片から成り立っていると考えるのは容易いのだが、本作について言えば、主人公がある時代に好きだった子の姿形を通してその時代の自己(断片)と出会い、語らい、そして別れるというのが、「さよならを教えて」の構造なのではないだろうか(なお、プレイヤーが視覚的に見る世界は主人公の「精神世界そのもの」である)。ゆえに各キャラは、ある時代の主人公を象徴しているのであり、例えば中学の頃に好きだったとされる望美(屋上の少女)は中学時代の主人公の投影であり(もしくはその要素が色濃い)、御幸は高校時代の主人公を投影しているという具合である。これについては、まひる(幼稚園)→こより(小学)→望美(中学)→御幸(高校)という順で精神年齢が高くなっているように描かれているのも示唆的と言える。
つまり主人公は、「赴任先の学校」という巨大な精神世界(≒妄想空間)の中で、過去の自分と出会い、話、そして分かれる。その遍歴の描写が、さよならを教えての世界だと言えるだろう。
(世界観について)
前に書いたかもしれないが、もう一度強調しておく。
さよならの新しさとは、狂気そのものを描いたことにある。それは単に言動だけでなく、正気と狂気の交錯する夕暮れ、「校舎」≒精神世界そのもの(主人公の精神の箱庭)といったビジュアル的な部分も見事に演出したものであった。このように「さよならを教えて」のテーマとは、狂人の精神世界そのものを描写することにあったと言える。惜しむらくは、その描写に彩りを加えるはずだった魔術的な要素などが今ひとつ機能しなかったことか。まあいきなり五芒星とか出されてもねえ…というわけでw狂気が進行してくれば脈絡なく主人公の知識の断片が流れ出すこともあるのはわかるが、演出としては失敗だったと言えるだろう。
(キャラの感想)
ついでにキャラについての感想を書いておく。
俺が最初に攻略したのはこよりだった。初プレイの場合、たいていなし崩し的に誰かのシナリオになっていたということが多いのだけど、このゲームに関しては気に入って(つまり選び取って)こよりを最初にクリアした。なお、気に入ったキャラを三人だけ挙げると、一番はこよりで二番はとなえ、三番は望美というところ。ただしゲームへの貢献度で言えば、となえが間違いなく一番だろう。それは役割の特殊性もさることながら、声優さんの演技力によるところが大きい(なお、瀬美奈ととなえの役割・描かれ方に関しては機会があれば別に考えてみたいと思っている)。ちなみに、プレイして一番不快になったのはまひるシナリオのラスト。他のシナリオも当然イカれてはいるんだけど、その中でもこいつのシナリオだけは飛びぬけていて、正直途中でやめたくなった(苦笑)。
(音楽について)
前に紹介した主題歌に加え、望美とこよりのテーマは好き。あと、題名は思い出せないが(確か)Hシーンの曲も狂気っぽくてよい。ゆえに、読み込み音のうるささは大きなマイナス(これは前にも述べたとおり)。
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