「ドラゴンボールZ 神と神」を見てロリBBAキタ━━(゜∀゜)━━ヨ とか言ってるヤツちょっと表へ出ろ。18号の見せ場がなく、あまりの憤りから紅にそまったこの俺を慰めるヤツはもういない、というのに・・・あ、ビーデルのスパッツはちょい心のオアシスになったかなヽ(。∀゜)ノ
まあそんな話は置いといてだ・・・今日は「名曲紹介」に絡めて5月に熊本で見たDBZ劇場版の乾燥文をお届けしたいと思う。まあテーマを端的に言ってしまえば、「強さ」とは何ぞや?てことなんだろう(そーいや昔、「はじめの一歩」のタイトルマッチで「強いって何ですか?」という言葉が出てきましたな)。端的に言えば、強さに固執したり、強さを誇示したりするのは本当につえーのかと。弱い犬ほどよく吠えるんじゃないイカと。具体例を挙げると、
1.むしろ力を行使せず(=戦わず)・誇示しようともせず飄々としているヤツが一番強い、というロジック
見た人は、これが誰を指すのか即座にわかるハズ。ずっと飯ばっか食ってるしw
2.プライドをかなぐり捨てて色物的振る舞い(笑)で皆を助けようとするベジータがヴィルスに賞賛される
しかし残念ながら、ブロリーネタですでにお前は色物だったw=演出の効果あまりなしwとりあえず「よくも俺のブルマを!」はネタ量産の予感w
3.「力を合わせないと勝てない(=独力で勝てない)のが悔しい」という悟空がヴィルスに叱責される
この悟空の発言はこれまでのDBの展開を見る限りあまり必然性が感じられない。そもそも「サイヤ人編」の始まりであるラディッツとの戦いから悟空とピッコロがタッグを組み2対1で戦っているし、劇場版もメタルクウラ戦やブロリー戦を始めしばしば協力プレイが見られる。そういう不自然な発言をさせる以上、この悟空の発言内容とその否定に意図が含まれていると推測される。おそらくそれは、「どっちが(個として)強いのか?」に固執する思想を否定する、というものだろう。
4.「スーパーサイヤ人ゴッド」なるものの見た目がほとんど変化をしない
DBにおいては、サイヤ人の大猿変身、ザーボンやフリーザの変身、スーパーサイヤ人、セルの完全体、スーパーサイヤ人2、スーパーサイヤ人3、フュージョンetc...と変身して見た目が変わり強くなる、というパターンは枚挙に暇がない。しかしえらく引っ張る割に「スーパーサイヤ人ゴッド」なるものはほとんど見た目に変化がなく、しかもそれは明らかに意図的である(最初のヴィルス戦の時に悟空の変身をわざわざ段階別に見せた上で惨敗させており、かつクリリンだったかと思うが、あまり見た目が変わらないことにやや拍子抜けしたかのような発言をさせているからだ)。これは1と合わせて「むしろ自然体が一番強い」というメッセージ(力の誇示の否定とも連動する)であると考えられる。
5.それって戦闘力あるの?と思えるビーデルの**も協力プレイに関係する
もし純粋な戦闘力の和が重要ならば、このような描写は不自然。過去[ピラフ軍団など]・現在だけでなく未来[パンなど]も含んだお話、という意味合いもある?
6.サイヤ人が滅びた理由に関する発言
これは力の使い方に関する話か。2のベジータの賞賛と連動するように思える。
以上いくつか例を挙げてきたが、意図としては「強さ」のモデルケースを示したいというものだと思われる。たとえば6は、月並みだが「侵略の否定」、2やラストの内容から「負け=相手の優位を認めることができるのも強さ」といった具合に(深読みだと思う向きもあるかもしれないが、漫画を読み返してみると明白だが、人造人間編辺りから悟空のキャラクターとそれが多くの敵を味方にしてきたという物語構造を意識した発言が散見されるようになるなど、ずっと前から単純な戦闘マンガ・コメディではなくなっている)。
まあスカッとするアクションを期待していた人にとっては、言い訳がましい茶番を見せられたように感じて興ざめしたかもしれない。しかし上記のような視点で見ると、最後ヴィルスと悟空の戦いのオチも不自然には感じないのではないだろうか。
まあ俺としては18号が(ry
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