天皇との血縁が薄く、ヤマトから遠くに住む継体天皇がなぜ皇位に着いたのか、古代史最大の謎に挑む、関裕二著『継体天皇の謎』PHP文庫(2004.11刊)を読んだ。
5世紀ごろの雄略天皇の専制王権が終わるところころ王権が変わり、ヤマト連立政権存亡の危機を迎える。
そのとき、帰化人登用や朝鮮貿易との関係で経済的実力を見せてきた地方の豪族であった継体に白羽の矢が立ったというわけである。
(水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎』文藝春秋、2013.7)
6世紀初頭に出現した継体天皇は、今日の天皇家につながっているというが、その周辺は謎だらけだ。
それに拍車をかけたのが8世紀に編纂された『日本書紀』で、そのミッションは蘇我氏抹殺にあった。
蘇我氏を重用した継体天皇の登場も曖昧にカモフラージュされたようだが、本人からすれば「瓢箪から駒」だったのではないかと、関さんは推測する。
出雲系の聖徳太子・蘇我氏らの台頭を抑えた藤原不比等・天智天皇らの反革命は、真実を神話でカモフラージュし、『日本書紀』『古事記』という作品に仕立て上げた、という関さんのかねての主張も魅力的だ。
継体天皇に注目したのは、古代史での最大の反乱、九州の豪族「磐井の乱」だ。
度重なる朝鮮出兵に叛旗を翻したらしいが、磐井氏は東アジア情勢からみてヤマトの百済応援は時代遅れという見解があったかもしれない。
さらには、博多で貿易の権益を得ていた「安曇族」がヤマトとの覇権争いで敗れ、信州の安曇野へ逃れたのも興味深い。
というわけで、古代史への迷宮にますますさまよってしまったが、その中に、「祟り」という発想が歴史を変えていたんではないかと思えることがある。
「祟り」は、日本人の自然観や生き方に大きな影響を与えてきたが、西洋化とともに非科学的とされ放擲された現在だ。
もちろん祟りは信じていないが、そこには、自然を「畏れる」という畏敬の念が内在する。
これが現代の閉塞を拓くキーワードではないかと思えてならない。
それには、都会を捨て、スマホを捨て、多忙を捨て、常識を捨て、山里に行くしかない。
5世紀ごろの雄略天皇の専制王権が終わるところころ王権が変わり、ヤマト連立政権存亡の危機を迎える。
そのとき、帰化人登用や朝鮮貿易との関係で経済的実力を見せてきた地方の豪族であった継体に白羽の矢が立ったというわけである。
(水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎』文藝春秋、2013.7)
6世紀初頭に出現した継体天皇は、今日の天皇家につながっているというが、その周辺は謎だらけだ。
それに拍車をかけたのが8世紀に編纂された『日本書紀』で、そのミッションは蘇我氏抹殺にあった。
蘇我氏を重用した継体天皇の登場も曖昧にカモフラージュされたようだが、本人からすれば「瓢箪から駒」だったのではないかと、関さんは推測する。
出雲系の聖徳太子・蘇我氏らの台頭を抑えた藤原不比等・天智天皇らの反革命は、真実を神話でカモフラージュし、『日本書紀』『古事記』という作品に仕立て上げた、という関さんのかねての主張も魅力的だ。
継体天皇に注目したのは、古代史での最大の反乱、九州の豪族「磐井の乱」だ。
度重なる朝鮮出兵に叛旗を翻したらしいが、磐井氏は東アジア情勢からみてヤマトの百済応援は時代遅れという見解があったかもしれない。
さらには、博多で貿易の権益を得ていた「安曇族」がヤマトとの覇権争いで敗れ、信州の安曇野へ逃れたのも興味深い。
というわけで、古代史への迷宮にますますさまよってしまったが、その中に、「祟り」という発想が歴史を変えていたんではないかと思えることがある。
「祟り」は、日本人の自然観や生き方に大きな影響を与えてきたが、西洋化とともに非科学的とされ放擲された現在だ。
もちろん祟りは信じていないが、そこには、自然を「畏れる」という畏敬の念が内在する。
これが現代の閉塞を拓くキーワードではないかと思えてならない。
それには、都会を捨て、スマホを捨て、多忙を捨て、常識を捨て、山里に行くしかない。