ETVの「日曜美術館」のゲストとして以前出演していた「芳賀徹」さんの解説は明快だった。
それは、比較文化学者としてフランス語・英語・漢文の文学及び絵画に造詣が深いことからでもある。
与謝蕪村の歴史的価値を詩人萩原朔太郎の批評から引用している。
「百数十年も昔に作った蕪村の詩が、明治の新体詩よりはるかに芸術的に高級で、且つ西欧詩に近くハイカラであったといふことは、日本の文化史上に於ける一皮肉と言わねばならない。」

俳聖芭蕉の崇高さに比べ蕪村は、「小市民的な生活感情のなんの身構えもなく流露」している身近さがあるとしている。
また芳賀さんは、蕪村は京都に暮らす<「寂寞」の中に沈潜してゆき、その方向にこそ詩境を深めていった>という近代的懊悩を発見している。
言い換えれば、「日本近代の青春の抒情詩は18世紀末の蕪村に源を発する、とさえ言ってもよいのかもしれない。」としている。

蕪村が希求した桃源郷は絵画や俳句に表現されている。
芳賀さんはそれを日本の現代にふまえ次のように書いている。

「新幹線がいくら走り、高速道路をいくら走っても桃源郷にたどりつくはずはない。
新幹線や高速道路はむしろ桃源郷を破壊し、桃源郷への夢想をさえ踏みにじっていく。
あれはたしかに便利なものだ。
だが、便利・合理・営利・管理という「り」じるしは、しばしばはなはだ野蛮なイデオロギーである。」

芳賀さんは続けて、万葉集・古今集・新古今集などの和歌さらには俳句・短歌と続く日本の豊かな内奥は、まさに詩の国・詩人の国といえる伝統を築いてきたと指摘する。
同時にそれは、現代日本の現状はそれらを誇らしく言えるのだろうか、ということを提起しているように思う。
安倍くんらの経済第一主義・景気軍事優先が向かう先には、詩の国・詩人の国は干乾びてしまうのは言うまでもない。
私たちは何に向かおうとしているのか、それが問われる2冊の本だった。
芳賀さんの文章は難しかったが、しばし情感溢れる語彙に表現に唸ってしまうものだった。
『與謝蕪村の小さな世界』中央公論社 1996年4月30日刊
『詩の国・詩人の国』筑摩書房 1997年2月20日刊
それは、比較文化学者としてフランス語・英語・漢文の文学及び絵画に造詣が深いことからでもある。
与謝蕪村の歴史的価値を詩人萩原朔太郎の批評から引用している。
「百数十年も昔に作った蕪村の詩が、明治の新体詩よりはるかに芸術的に高級で、且つ西欧詩に近くハイカラであったといふことは、日本の文化史上に於ける一皮肉と言わねばならない。」

俳聖芭蕉の崇高さに比べ蕪村は、「小市民的な生活感情のなんの身構えもなく流露」している身近さがあるとしている。
また芳賀さんは、蕪村は京都に暮らす<「寂寞」の中に沈潜してゆき、その方向にこそ詩境を深めていった>という近代的懊悩を発見している。
言い換えれば、「日本近代の青春の抒情詩は18世紀末の蕪村に源を発する、とさえ言ってもよいのかもしれない。」としている。

蕪村が希求した桃源郷は絵画や俳句に表現されている。
芳賀さんはそれを日本の現代にふまえ次のように書いている。

「新幹線がいくら走り、高速道路をいくら走っても桃源郷にたどりつくはずはない。
新幹線や高速道路はむしろ桃源郷を破壊し、桃源郷への夢想をさえ踏みにじっていく。
あれはたしかに便利なものだ。
だが、便利・合理・営利・管理という「り」じるしは、しばしばはなはだ野蛮なイデオロギーである。」

芳賀さんは続けて、万葉集・古今集・新古今集などの和歌さらには俳句・短歌と続く日本の豊かな内奥は、まさに詩の国・詩人の国といえる伝統を築いてきたと指摘する。
同時にそれは、現代日本の現状はそれらを誇らしく言えるのだろうか、ということを提起しているように思う。
安倍くんらの経済第一主義・景気軍事優先が向かう先には、詩の国・詩人の国は干乾びてしまうのは言うまでもない。
私たちは何に向かおうとしているのか、それが問われる2冊の本だった。
芳賀さんの文章は難しかったが、しばし情感溢れる語彙に表現に唸ってしまうものだった。
『與謝蕪村の小さな世界』中央公論社 1996年4月30日刊
『詩の国・詩人の国』筑摩書房 1997年2月20日刊