山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

『森の生活』は魂のゆりかご

2021-07-19 21:16:32 | 読書

 わが人生の師匠でもある作家・高尾五郎氏より何冊かの本が届いた。そのうちの、アメリカの古典と言われる、H.D.ソローの『森の生活/上下』(飯田実訳、岩波文庫、1995.9)をさっそく読み始める。以前から読んでみたいと思っていた本だった。自給自足をしながら湖と森の自然のなかで描いた思索のエッセイだ。五郎氏からの「これを読んで自らを内省せよ」という暗黙の宿題と受け止めた。

       

 1854年、著書はアメリカで刊行された。1830年代にはインディアン強制移住法とか奴隷解放運動が起こり、40年代後半にはゴールドラッシュが始まる。森で生活しているところどころにはそうした背景が反映されている。ソローは、逃亡奴隷を支援したり、市民運動のさきがけをして捕まったり、そういうマイノリティーや労働者には共感のまなざしを向けている。それは、この森の中の動植物や湖のたたずまいを観察するというソローの詩人・科学者・哲学者・文学者としての造詣の深さも表現されている。

    

 神話や聖書や詩などの引用も多く、読解には目をつぶる箇所も多く難航した読書だったが、要するに幸せな人生とはどういう状態のことをいうのか、といったことにつきる。南北戦争まじかで物故してしまうが、その愚かさをすでに感知していた。ソローの精神が流布していたならば、世界の憲兵たるアメリカ帝国主義は存在しなかったに違いない。

                  

 本書には、中国の孔子・曾子・孟子などの思想家やインド古典なども引用され、東洋思想のもつ人間と自然との共生にふれた内容が少なくない。また、同時代のホイットマン・エマーソンといった文学者との交流も見逃せない。ソローの提起はアメリカ版「方丈記・徒然草」の印象を受けたが、むしろ、有島武郎らの白樺派に近い理想主義を感じた。

                 

 冗漫ともとれるエッセイでとらえどころに困ったときもあったが、下巻になるにつれてますます筆致が滑らかになっていく。ソローが証明したシンプルライフは、現代日本、いや世界にも通じる普遍的な提起だった。物事の本質を見抜いた人間は、周りの人々や世の風評に左右されず、ブレないことに心服する。

                 

 日本がペリー提督に開国を要求されていたころに書かれた『森の生活』がなぜいまだに読まれているのか、その新しさが古典という真価なのだろう。ソローの言葉の断片を引用してみる。

○ 「夜明け前に、心のわずらいを捨てて起き、冒険を求めよ。…生計を立てることを商売とせず、むしろそれを遊びとせよ。大地を楽しめ、だが所有はするな」

○ 「私が森の生活にひかれた理由のひとつは、春の訪れを見るゆとりと機会がもてそうだということだった。」

               

 ○ 「生活がいくらみじめであろうと、そこから顔をそむけたりはせず、ありのままに生きることだ。…余分な富をもてば、余分なものが手にはいるだけである。魂の必需品をあがなうのに金はいらない。」

 ○ 「なぜわれわれはこうもせわしなく、人生をむだにしながら生きなくてはならないのであろうか? …実在が架空とのものとされる一方で、虚偽と妄想が確固たる真理としてもてはやされている。」

 ○ 「私の家には三つの椅子があった。ひとつは孤独のため、もうひとつは友情のため、三つめは交際のためである。」

 ○ 「もしすべての人間が、当時の私とおなじように簡素な生活を送るようになれば、盗みや強盗はなくなると、私は確信している。こうした事件は、必要以上に物をもっている人間がいる一方、必要な物さえもっていない人間がいる社会でのみ起こるのである。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする