遅まきながら宇多田ヒカルの約8年振りのニューアルバム『Fantôme』をじっくりと通して聴いて
みたのではあるが、好調なセールスや批評家の高評価にもかかわらず個人的にはしっくりとは
こなかった。
確かに亡くなった母親である藤圭子に捧げられたとされる本作に暗さがまとわりつくことは
仕方がないとしても、かつて宇多田が持っていたユーモアが失われているような気がする。
そもそも藤圭子の娘で、母親の気質を受け継いでいるであろう宇多田がユーモアを失おうと
したことはかつて何度もあったような気はする。例えば「FINAL DISTANCE」や「Be My Last」で
「マジメ」に陥りそうになっても次作でユーモアを取り戻すような余裕がまだ当時は感じられた
もので、その「抵抗」は彼女の母親に対する「反抗」だったのではなかったか。しかしその母親に
捧げられた作品である以上、抵抗としてのユーモアが失われてしまうのは必然なのではあろう。
それにしても何故英語ではなくて日本語を歌詞に選んだのかも気になる。ロンドンに在住
しているらしいのだが、何故改めて世界に打って出なかったのか。それどころかアルバムの
タイトルは英語ではなくてフランス語を選んでおり、ますます訳が分からないのであるが、
ここではとりあえず「俺の彼女」のフランス語の歌詞の部分を和訳しておきたい。
「俺の彼女」 宇多田ヒカル 日本語訳
私は会いに来てくれる人を招待したい
「本当の私」を見つけてくれる人を
私は触れる人を招待したい
「永遠」に触れる人を
ここで使われる「永遠」という言葉はジャン=リュック・ゴダール監督が『気狂いピエロ』
(1965年)のラストでも引用しているフランスの詩人であるアルチュール・ランボー
(Arthur Rimbaud)の詩集『地獄の季節(Une Saison en Enfer)』(1873年)の
「永遠(L'Éternité)」からの引用であろう。それでなければここでわざわざフランス語が
使われる意味がない。
「Elle est retrouvée,(見つけたよ)
Quoi ? — L'Éternité.(何を? 永遠さ)
C'est la mer mêlée(それは海なんだ、)
Avec le soleil. (太陽が沈み込んで一つになる海)」
今後も『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION』は聴き続けるであろうが、本作を改めて
聴くことはないと思う。