MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

すすんで「雑」と戯れる編集者

2019-01-10 00:57:59 | Weblog

 蓮實重彦の『映画はいかにして死ぬか 横断的映画史の試み』(フィルムアート社 2018.10.25)を読んでいて、実は本書は1985年に出版された版の新装版で、著者の「新装版あとがき」を読んでいて、違和感を持ったのであるが、まずはその文章を引用してみる。

「『雑』というのがこの書物の特徴である。実際、『雑駁』、『粗雑』などの『雑』にあたるものが、ここに書かれている言葉を律している。しいていうなら『複雑』の『雑』だといえば理解していただけるかと思うが、この書物には、多くのことがらが、これという秩序にしたがうことなく、『雑然』と列記されている。いま読み直してみて、ここに書いておいてよかったと思えるのは、鈴木則文についての短い文章である。彼こそ、映画が純粋さとは異質の『雑然』たる何ものかであることを、身をもって示してくれた貴重な映画作家だったのである。こまかな加筆訂正がその『雑』さを損ないはしまいかという思いから、ごく限定的なものにとどめた。だが、二十一世紀の読者は、すすんで『雑』と戯れる心の用意を持ちあわせているのだろうか。 二〇一八年十月三日 著者」

 確かに「雑」が本書の特徴と本人が言うのであるならば、それは肯うしか仕方がないとしても、気になるのは「鈴木則文についての短い文章」という部分で、実際に265ページに「鈴木則文の十位は、いわばオマケである。彼はもう『エロ将軍と二十一人の愛妾』のごとき傑作を撮らないのだろうか。」という「短い文章」はあるものの、これほどの短い文章をあとがきに書いておいてよかったと記すほどのものなのだろうかと思って、amazonを見たところ、驚くべきことにこれは同時期に発売した『シネマの記憶装置 新装版』の「新装版あとがき」と間違って掲載したと「種明かし」をしていたのである。

 去年の9月に当ブログで蓮實重彦の『表象の奈落』(青土社 2018.6.11)には誤植が多いから気を付けた方がいいと書いていたのであるが、まさかあとがきそのものを入れ替えるとはある意味斬新だった。本書の正しい新装版あとがきをamazonから引用してみる。

「旧著の『あとがき』に書き加えるべきことは、何もありません。生誕の瞬間からみずからの死への契機をはらんでいた映画が、ときに、あるいはつねに、『楽天的』な表情におさまりがちなのはなぜか。この書物は、映画にとっての永遠の課題ともいうべきこの疑問についてきわめて教育的に語ってみせたものであり、つけ加えるべきことは何もありません。故に、加筆訂正もきわめて限定的なものにとどまっております。そのようにして、この旧著が、二十一世紀の新たな読者に触れるのかもしれぬ緊張感を、『楽天的』に期待してみたいと思っております。 二〇一八年十月三日 著者」

 編集者が蓮實重彦が言うように「すすんで『雑』と戯れ」て「楽天的」だったとするならばこれ以上言うことはない。
 ところで『新潮』2月号において蓮實の「『ポスト』についてーー『後期印象派』から『ポスト・トゥルース』まで」という講演原稿が掲載されており、「ポスト」という言葉をつけることで、あたかもそれまでの思想を葬った気になっている人たちに対して、逆にその思想を生き延びさせる手助けをしているという相変わらず冴えた論を展開させている。戦争中にマスコミに散々嘘の情報を刷り込まれた人間にとって「ポスト・トゥルース」など今更何を騒いでいるのかという意見には納得せざるを得ないのだが、蓮實は「ハリウッドで最も過大評価された女優の一人(one of the most over-rated actresses in Hollywood)」というドナルド・トランプ大統領の「メリル・ストリープ評」を高く評価しているものの、それは必ずしもトランプが蓮實と同レベルの鑑賞眼を備えていることを意味しているわけではないと思う。


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