石段を下り終えた私は傍らのコンクリート建築をマジマジと眺めた。色街に足を踏み入れたのである。明治29(1896)年夏に発生した大水害で音無瀬川橋下の堤防上にあった遊廓が流されて猪崎に移転したという話だから歴史は長い。
私は「遊廓は日本における一つの文化」と考える人間である。「遊女にとっては苦界」であるのに対して「好色男にはまさに極楽(花園)」であった。
花街で金が湯水の如く使われ昭和初期までは大きな経済効果を上げた。遊廓周辺の料理屋、酒屋、用心棒などは大いに恩恵を受けたし、税金が入ってくる御上も同様だった。つまり遊女を犠牲にして街全体が潤っていたのである。これが締め付けの厳しい現在との大きな違いだ。

妓楼は男達の目をひくために贅を尽くした造りになっていることが多い。最初に目をつけた建物の玄関や格子には非常に細かい仕事がしてあった。
次に足を止めた建物は往時の勢いを感じさせた。破風、欄干、明かり取りの窓、すべてが豪華だ。玄関脇の大きなブロックのようなものは防火用水だろうか。明かり取りの窓は倉敷市川西町の妓楼で見たものに酷似していた。建てられた年代が近いのだと思われる。

