寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福島地区原爆犠牲者慰霊之碑(広島市西区)

2011年01月31日 | 
福島町電停そば、平和大通り緑地帯(北側)に福島地区原爆犠牲者慰霊之碑が設置されている。碑にはこう刻まれていた。

 天を抱くがごとく
 両手をさしのべし
 死体のなかに
 まだ生きるあり
          深川宗俊

私は雨に打たれながら手を合わせ黙祷した。「広島原爆戦災誌第二巻」にはこの辺りでは即死した人こそ少なかったが、家屋は倒壊し多数の負傷者が出たとの記述がある。爆心に近い現中区のことはよく語られるのに対して西区周辺の被害(西遊廓の消滅など)に関してはあまり耳にしたことがない。これは不思議であるし問題だ。

普段橋を道路の一部くらいに考えている私だが、広島市を訪れた際には「橋の有無が生死をわけることもある」という思いを抱く。

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広島電鉄・福島町電停で下車

2011年01月31日 | 
広電西広島駅から一駅目の福島町電停(広島市西区)で下車。私の表情は冴えなかった。小雨がぱらついていたからである。

平和大通り、新己斐橋が完成する前、電車は現在の「ふくしま保育園前(交差点)」を走っていた。当時の福島町電停は現在地より北へ約150mの位置に存在していた。

50歳以上の広島市民は福島町(旧川添村)が維新後「肉の町」として発展したことをご存知だろう。西区地域福祉センター周辺には「家畜市場」及び「と場」があったのだ。

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路面電車から太田川放水路を望む

2011年01月31日 | 
薄田太郎さんは「がんす夜話(たくみ出版 昭和四十八年)」で旧山手川について次のように回想している。

 …明治十二年十一月に広島区六丁目浅井馨と広島区一丁目松村善助が発行した「広島市街明細地図」には山手川と書かれて、橋には「己斐橋」がかかっている。
 この土橋は毛利氏時代からの橋で、明治末期に己斐にちなんで己斐橋と名付けられた。長さ四十三間五分(約七十九メートル)幅三間一分(約五・五メートル)と記録されている。

 毛利時代から明治初年にかけては土橋であったという。しかし、この界わい一帯は太田川放水路の完成で川の流れすらも変わってもはや昔の面影はかけらもなくなってしまった。

新己斐橋より上流に架かる青い橋が己斐橋である。戦前の地図などを見ると当時の川幅は現在の3分の1強だったと思われる。対岸ははるか昔から水害に悩まされた小規模の中洲で環境改善は国と県の大きな克服課題だった。土地買収や戦災など様々な障害を乗り越えて太田川放水路が整備されるまでには長い年月を要した。

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