寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

大正8年に発生した福山大水害(その5)

2012年10月13日 | 郷土史
古野上町12の駐車場のフェンスに沿って東へ少し歩くと大きな木の前にもう一枚「陸軍水源地跡」を示すプレートがある。それには「明治29年7月20日(1896)岡山17師団所属連隊として福山へ歩兵第41連隊が移転してから軍用水道として古野上町に芦田川伏流水を水源として地吹町、野上町、光南町を経て御門町の連隊まで100mm鉄管1350mを布設して軍用水の確保を行っていました。」とあり、水源地の面積が195平米で集水槽や配水塔などが建設されていたようである。戦前の地図を参考にすると陸軍水源地は古野上町11及び12辺りにあった。

下井手川沿いに建つお堂(古野上町)

福山空襲で焼けたと思われる立江地蔵

このプレートの蓮向かいにお堂があり、前に置かれた赤い帽子を被った立江地蔵大菩薩が一際異彩を放つ。近所のおばさんの話では福山空襲の犠牲者も一緒に供養しているという。地蔵の赤く焼けた跡が無差別爆撃の悲惨さを今に伝えている。

下井手川に架かる橋よりホテルプリンスの残骸を望む

お堂の左を流れるのが下井手川で、上流に目を向けるとあのホテルプリンスの焼け焦げたてっぺん部分がはっきりと見える。私は大水害、大空襲、そしてホテル火災の犠牲者の冥福を祈った。

大正8年(1919)の野上堤防決壊で旧市内が水浸しになった主原因は福山の街が江戸時代から干拓によって広げられて行った歴史にある。干拓地で暮らす民の命は今も強固な堤防によって守られていると言ってよい。私は大正生まれの古老から「一文字堤防へ行けばどれほど危険な場所で生活しているのかが分かるよ」と教わったことを思い出して久し振りに現地まで足を延ばした。

一文字堤防から北方を望む

福山市新涯町2丁目23辺り(一文字堤防の上)から北方を撮影した写真から高低差は一目瞭然であろう。簡単に左から順に主要な建造物を解説しておく。一文字町の福山ボウルの観覧車(直径48m)、道路(一文字堤防)、福山港(※海面が写っていないが)、そして右端がJFE(旧日本鋼管)である。

村上商事前辺りから一文字堤防を望む

続いて一文字町の村上商事の前辺りから東方の堤防を望む写真をご覧いただこう。干拓地から堤防まではこうした緩やかな上りになっているのだ。この一文字堤防は改修されたものである。昭和17年(1942)の台風で堤防が切れて大事になったことを若い人は知らぬと思う。

大災害(水害や直下型の地震や津波)は忘れた頃(約100年周期)に発生することが多いので、普段から避難場所と経路を頭に叩き込んでおく必要がある。役所をあてにせず自分の身は自分で守るくらいの気概が欲しい。

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田舎で籾すり工程を見学

2012年10月13日 | 日記
ある田舎でおがくずのような山を見つけた。プラスチックの筒から放出されているのはどうやら籾殻(もみがら)らしい。私は近くにいた老婆を呼んだ。

「これ籾殻ですよね」

「すくもよ」

「すくも?」

「じゃーけー籾殻をすくも言うんよ」

噛み合わない会話に老婆は「もう往(い)んでくれんかのぅ」という表情をした。そんなことを全く気にしない男は質問を続けた。

「これ何に使うんですか。やっぱり堆肥にするの?」

「焼きすくもにするんじゃ」

「何でまた?」

「そのままじゃー具合が悪い。焼きゃー嵩(かさ)が減ろー」

「確かに減るね」

「そりょー畑やこに撒くんよ。ちょっちょっとな」

「要するに後々肥料になるってことでしょ」

「まーそう言うことにしとこーか」

我々の会話は最後までこんな感じであった。母はすくも(籾殻)を五右衛門風呂の焚きつけに使っていたと教えてくれた。すくもを焼く際にさつま芋を仕込んでおいたという話が面白かった。

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