寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

大正8年に発生した福山大水害(その2)

2012年10月08日 | 郷土史
過去の歴史を振り返る上で先人が遺した記録(町史など)を何度も読み返すことは重要である。思いがけない発見があったり、見落としていた事実が浮かび上がってきたりするからだ。『わたしたちの町ふるのがみ1981 / 古野上町内会』における福山大水害の言及は資料的価値が高い。

福山大水害と古野上
 大正8年7月5日の福山大水害の頃の芦田川は改修工事の行なわれる前で、現在の神島橋付近で川は芦田川と鷹取川に分かれておりました。川巾もせまく、堤防も水野時代のものでかなり古くなって、河底も上流から運ばれた土砂で、埋もり80ミリ以上の降雨があると、各所ではんらんし、決壊さわぎは毎年のように起っていたようです。明治以前、明治、大正とたびたびの洪水の記録が残っております。

 注 現在の水道局前から競馬場へ通ずる道が昔の鷹取川の堤防で野上堤防と呼ばれていましたが、終戦後まもなく現在のような道路になり河川敷は住宅地になりました。

 注 鞆鉄道の木橋は現在の、なかま理容院前から草戸へ通じる道路の位置にあった。決壞個所の地吹荒神社から上流約200mは古野上町の前田文具店付近と思われる。

 決壞口に近い古野上町、古宮町(現在の霞4丁目)地吹町を始め西霞町(霞3丁目)中霞町(霞2丁目)道三町、野上町などは特に被害が大きく、明治町、御門町、松浜町、沖野上町あたりも一面泥の海となりました。
 干拓のため低地だった川口村(川口町)は800戸の人家はすべて屋根を残して濁流は軒を洗う状態だったといわれます。(当時の市内は大部分が泥の海と化し、家財道具も一切取り出すことは出来ず着のみ、着のままで屋根によじのぼり、あるいはやっと堤防に駆け上がる状態だったと言われています。

それでは堤防決壊の現場に戻ろう。古野上(南)交差点から水道局方面(北西の方向)に進む。地吹町公園の先が鞆鉄の古野上町バス停である。濁流がものすごい勢いでこの道路を(左から右へ)横切ったという事実を我々はもっと重く受け止めなければならないだろう。

右手が地吹町公園(地吹町6)

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コノシロの酢〆

2012年10月08日 | 食材
コハダよりも大きくなったものをコノシロという。寿司ネタとしては規格外ゆえに安い値段で取り引きされる。頭と内臓を除去したコノシロを扱うのは鮮魚店ではなくスーパーである。

コノシロの食べ方で最も無難なのが酢〆である。酢は小骨を軟らかくするのと同時に魚の臭みを消し独特の旨味を付与する。酢に浸ける前にまず塩を全体にまぶして脱水する(冒頭の画像)。

酢に浸した後サルに上げる

水洗いして塩を流してから酢に30分浸ける。ザルに上げて余分な酢を切り冷蔵庫で寝かせる。コハダは次の日に食べ頃となるが、大振りのコノシロはもう1日待った方がいい。

酢で〆てから2日経過した状態

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