寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

銀皮が眩しいタチウオ 

2012年10月10日 | 食材
瀬戸内の人間はタチウオ(太刀魚)をよく食べる。秋から旬ということで大きな物にはそれなりの値段がつく。呉市豊浜町(豊島)ではタチウオの加工品を売り出すことに成功している。

タチウオラーメンとはよく考えたと思う。確かにアラからはいい出汁が取れる。キラキラ輝く銀皮は(生でも食べられるが)加熱することでより美味しくなる。塩焼きやムニエルが特におすすめだ。

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大正8年に発生した福山大水害(その3)

2012年10月10日 | 郷土史
古野上町バス停(鞆鉄)そばの駐車場はフェンスで囲まれ施錠してある。水道局の職員が朝鍵を開けていることから市の持ち物なのかもしれない。

古野上町の前田商店(左)と駐車場(右)

堤防決壊の上手は前田商店(古野上町11-9)辺りと言われ、この駐車場とは細い道を挟んで向かいあっている。鷹取川の泥水は下井手川を呑み込んで東方(霞町4丁目・地吹町方面)へ恐ろしいスピードで流れていったことになる。

大正7年(1918)生まれの村上正名氏は『芦田川文庫8 城下町福山』で母校の大水害の爪跡について次のように記している。

 被害状況の記録を見ると、流失家屋百一軒、全壊二十四、半壊九十七、床上浸水三千四百二十三、床下浸水千二百六十一、市内計四千九百六軒という多数に達し、家の下敷きやおぼれ死んだ者男六人、女十一人という悲惨事となったのである。
 水はなかなか引かず、二日目の六日夕刻、入江から北の各町では路面が見えだしたけれど、霞町・野上・明治・光南・道三・御門・南町などは舟でたき出しを配り、二階で生活し城山に逃げた人はわが家にも帰れない状態であった。鉄道も四日以後、松永・大門間は不通となり、決壊口せき止めの工事を岡山から工兵二個中隊の来援、付近町村の消防団員等八百余名の献身的な作業で、四日目の八日午後五時やっとせき止めに成功している。
 七日になってようやく霞町以南も道路が見えはじめたが、その後が大変で崩壊家屋のかたづけ、浸水家屋の洗浄、家財道具、日々の食糧補給と混乱はつづくのである。
 私達も霞町の誠之館中学に通学した頃、教室や教科準備室の戸棚に水かさを物語る跡がついていて、当時の被害の物すごさを目のあたり見たものである。
 こうして、市制施行後おこった二大災害は福山市民の大きな試練であった。

大水害の被害状況を捉えた写真は数多く残されているが、私が注目したのは『保存版ふるさと福山 / 郷土出版会(2011年7月)』の142ページに掲載された、有志による「被災者への炊き出し」風景である。瓦葺の木造家屋の前に釜が2つと寿司桶などが置かれ疲れた表情の男達がカメラの方向を向いている。釜の周辺に藝妓券番と書かれた長い提灯が吊るされ、後方に割烹喜楽庵の看板らしきものが見える。

当時の券番(福山本検株式会社)は神島町中市(現在の伊予銀行福山支店辺り)に、そして喜楽庵は船町南浜(地元で有名な臓物煮込み屋の西隣)にあった。写真は現在の船町、新町遊廓の西側で撮影されたものと思われる。地面の荒れ具合と建物下部の汚れから判断して水が引いてから数日後の情景であろう。

神島町中市にあった藝妓券番(現在の伊予銀行福山支店辺り)

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